5月2日(日齢3日)
私は、早朝や夜中にもベットを脱け出して、娘のところへ面会に行っていました。娘の様子は好転せず、おしっこもほとんど出ないため利尿剤を開始しました。その時のメールでは、「0:36おしっこは少し出ていたけれど、あまり進展はなかった。23時すぎに利尿剤を入れたって。これから反応してくれることを期待です。穏やかに眠っていた。いっぱい応援してきた」(メールより)
4月30日、5月1日に痙攣があったため、脳波検査がありました。
5月4日(日齢5日)
「8:06 大きな変動はない。おしっこは昨日一日で14ml。呼吸は改善傾向。カリウムも下がってきた」(メールより)
医師の説明によると、利尿剤は通常の3倍量まで増やしていきましたが、一向に反応する様子はありませんでした。
夫は幸い連休とも重なり面会時間開始11時には病院にきていました。そして、夕方一旦帰ったあと、19時頃には再び来院し、21時すぎまでいました。NICUの面会は8:00〜11:00 16:00〜17:00の間だけ制限がありましたので、その間を除いては、私はほとんどNICUに入り浸っていました。
日齢2〜7日の一週間をまとめると、呼吸状態は徐々に改善したものの、循環状態は心臓の動きはいいものの血圧が50〜60台と昇圧剤を持続で使用していました。DICによる血管内脱水状態、出血傾向も顕著で連日のように新鮮凍結血漿・凝固因子を補充していました。貧血も改善せず、3日に1回程度のペースで濃厚赤血球の輸血を必要としていました。腎不全は改善の傾向がなく、一日の尿量が15ml程度のため、全身が浮腫み、産まれた時の何倍にも大きな体になり、パツンパツンしていました。正直、いったい、どこまで浮腫むのか、涙が出そうでした。また、腎臓での老廃物の排出が出来ないため、腎機能の数値も日々悪化すると共に高カリウム血症となりそのための治療もおこなわれました。
高カリウムとなった時、心電図モニターにもその影響が少し見られていましたので、不整脈を起こさないか、心配でたまりませんでした。
脳波検査の結果は、ほとんど活動性のない波形と脳の中心部にスパイク波(痙攣を起こす波)がみられていました。医師の説明によると、出生直後の新生児に塩酸モルヒネを使用すると活動性のない脳波となるとも言われているという説明でしたが、正直、ショックでした。『でも、後遺症を残してもいい。自分達が育てていくんだから』と帰りに夫と話した記憶があります。
5月6日(日齢7)
感染の値を示すCRPが5.09と上昇。抗生物質を追加し治療。何処かで感染を起こしているのですが、これといった原因はわからず、また、休日だったため血液培養のみしか検査結果をえられず、歯がゆい思いをしました。
この日、私は娘を残して退院しました。帰り際、娘の側を離れるのが辛くてあと少し、あと少しと、言って22時頃までいたと思います。
5月7日(日齢8)
CRPがじわりじわりと上昇。痰もきれいだし、尿路感染も考えられましたが、私は一番はカテーテル感染じゃないかと思い、その旨を言いました。『このままだと敗血症で死んでしまう』医師にカテーテルの入れ替えを検討してもらうようお願いしました。既に、中心静脈に栄養や昇圧剤などを送るPIカテーテルは2本入っており、その前に一度入れ替えをしていたため、4本ある手足の残り一本をそう簡単には使えないと、医師からは言われましたが、何とか検討して欲しいと夫と頭を下げお願いしました。
この日から夫と二人で午前11時前に病院に着き11時になるのを待ってNICUに入り、15:30まで面会し、一旦帰宅し、17:30頃自宅を出て22:00頃まで面会していました。正直私の体もしんどく、もう座っていられない状態になった時に一旦病棟の外に出て、体を机にうつ伏せて休ませてまた入室する。ことの繰り返しをしていました。そして、深夜の0時頃電話で様子を聞き、朝5時半にはまた血圧やおしっこの様子を聞いていました。
翌日からは、病院の駐車場に入るため、朝9:30には自宅を出ていました。夫は一週間有給をとって私を支え娘の側に一緒により添い続けてくれました。
5月10日(日齢11日)
この頃よりおしっこが少しずつ出始めてくれ血圧も安定してくれました。体重は2793gで産まれたのですが、5800gまで浮腫で増加し、腹部の皮膚は裂けたり水泡を形成して浸出液が漏れ出していまいました。しかし、おしっこが出始め少しずつ浮腫みも引き、医師も尿カテーテルから出るおしっこに、『頼むよ、日向ちゃん』と声をかけてくれていました。しかし、腎臓の機能は回復せず、老廃物を示すBUN,Crといった値は上がっていくばかりでした。それでも、何とかおしっこが出続けてくれればと願っていました。
5月11日か12日(日齢12日)
再び不随意運動が出現し、再び痙攣を止める薬を持続で少量開始しました。また、眠らせてしまうことに私は、悲しく『ごめんね』と娘に謝りました。この日は娘も辛そうで、私達も娘の側を離れることが出来ず、落ち着くまでそばにいたら深夜になってしまいました。
5月13日(日齢14日)
不随運動はおさまり鎮静はされていましたが、うとうと程度で時々目覚めては、手を口にもっていたり、母乳を含ませためん棒をチュパチュパしてくれていました。