愛と自由への旅立ち 

松尾みどり


他の何を変えたとしても、変えられないのは
親として子として生まれた親子の関係です。
そこに深い意味があるからこそ変えられないのです。
あなたは一生、親の人格を、そして子の人格を
心のどこかで否定して生きますか?
それとも…。




第9章 障害を持った天使たち


魂からのメッセージ

 「もうじき私の赤ちゃんと対面できる」と待ちきれないほどの期待に胸が膨らむ妊婦さんもいれば、「ちゃんと産めるだろうか」と緊張と不安で眠れない日々を送る妊婦さんもいます。しかし、その時がくればすべての母親にとって「五体満足でありさえすれば、それで充分」という願いだけが心の中をしめるものです。そして、赤ちゃん(胎児)との共同作業による、苦しい陣痛をへて、あの何ともいえない「産声」を聞いたとたんに「とうとう、やった!」という嬉しさと安堵感で体中の力が緩み、涙が込み上げてくる体験をされたお母さん方も多いことでしょう。生まれてくる我が子に、幸せな人生であって欲しいとの夢と希望を託し、また母親としては、この子どもの魂を出生できた満足感さえ感じられるのかも知れません。

 しかし、一方で、先天的・あるいは後天的に障害を持って産まれた赤ちゃんを抱えた親たちのショックと不安は、やり場のない悲しみや苦しみとなって襲いかかってきます。特に母親自身が、まるで障害という罪を作り出した張本人であるかのように、自分を責めたり、どうして自分ばかりがこんな目に遭わなくてはならないのかと落ち込んでしまうこともしばしばです。障害を抱えた子どもとの深い魂の約束や転生の仕組みが理解できない人々にとっては、自分に科せられた負の遺産としか思えないことでしょう。

 今回はこうして長い間、さまざまな立場で苦しみ続けている人々に、ぜひお伝えしたい「魂からのメッセージ」を取りあげてみました。他の健常児と比較して「何とか人並みに歩かせたい」とか「人並みに学校へ通わせたい」という気持ちで、あちらこちらの病院や施設などを探しておられるお父さんやお母さんにお伝えしたいことは、その子が人並みに、何ができるかということが問題ではなく、単に障害があることを現実として受けとめ、その子どもが、どのように大変なのか、どのように過ごしたいのか、何を知りたいのかを汲みとって欲しいというものです。子どもの心の声を聴くことを忘れないでいただきたいのです。

 障害児も健常児も、各々の親にとりましては、その子どもを通して、本当に「生きる」という魂の本質に至るためのかけがえのない存在なのです。生まれてくる前の、その子どもの魂が選択したプログラムであると同時に、その親たちとの魂同士の約束の上で決められたものです。単に、かわいそうだと同情する対象ではありません。彼らはその環境に立ち向かうだけの充分な智慧も力も備えて生まれているのです。障害といっても、身体障害、脳性障害、知的障害など、その人の人生で、最も不足していた自分自身の直観を取得するために必要な条件として身に抱えてきたものです。そして、直接関わってゆく人々にとっても、最も分かりやすい形で、各々が自分自身の感覚や考え方に気づけるようにセットされたものでもあります。

 

障害を持って生まれた旧家の子ども

 今から30年以上も昔、周囲を山々で囲まれた、広い田園の中に集合する、九州地方のある村落を訪れた時のことです。その広大な敷地の中の家の周囲には数え切れないほどの樹木が植えられ、裏には畑があり、キュウリやナスが収穫されるのを待っていました。玄関の脇には、お盆の時期に相応しい、赤い彼岸花と白い盆提灯が勢いよく並び、昔は栄えていたであろう面影が偲ばれる旧家でした。その年の春、農作業を長年やってきた腰の曲がった老婆が老衰のため、逝去して間がありませんでした。

 その家の当代の主は、地方県庁のエリート公務員であり、母親は働き者で世話好きな社交的な女性でした。その夫婦の間には、一女三男の4人の子どもがありました。子どもたちは皆、揃って学校の成績も優秀で、近所の人たちから羨ましがられるような家庭でした。しかし、近所の人々の中には、子どもは3人しかいないと思っている者もいました。その家の長男を見る者は、ほとんどなかったのです。

 その家を、ある用事で訪ねた私は、冷たい井戸水を求めて、土間に続く奥の台所へ入ってみました。「ジージー」と耳が痛くなるほどのアブラゼミの泣き声に混じって、「ウーウー」という人間の呻き声のようなものを聞いた気がしました。声をかけてもどうやら留守のようで誰もいません。見通しのよい居間を見渡すと、薄暗い奥の部屋の襖が少しばかり開けてあり、声はそこから聞こえていたのでした。私はその声の主をたずねて部屋の中を覗いてみました。すると柱にしばりつけられた1本の細いロープの端に、青白い顔つきで、やせた身体をエビ反りにした姿で横たわっている8才位の男の子の姿が目に入りました。その光景に、私は思わず後ずさりしたのでした。

 一見して、かなり重い脳性小児麻痺であることが分かりました。歩くことも喋ることもできないのです。しかし、自分なりに上手く、身体を動かして前進することができる様子です。話しかけると、こちらの話は分かるらしく、その美しく澄んだ瞳は、静かにじっと私の顔を見つめました。苦しそうな表情の中にも、喜びを伝えようとする気持ちが伝わってきて、心が揺さぶられました。

 「どうして、こんな風に、この子を一人で置き去りにするのか」と周囲の人々に対して、怒りさえ感じたのでしたが、、聞くと家族には家族の事情がありました。昼間は家の人たち全員が働きに出たり、学校に行ったりして誰もいなくなるので、安全のためにロープを使っているのだといいます。すぐ脇には食べ物が、そして部屋の隅にはトイレのような物が置かれていました。しかし、明らかに、その子の存在を他人(ヒト)の目から隠そうとしていることが感じられます。その子の目は、一生懸命何かを訴えているようでした。

 それから2年ばかりたったある日、再びその子に会ってみると、生活環境には、あまり変化は見られませんでしたが、その子が唯一、動かすことのできる右手の小指に鉛筆を挟み、何かを書いている様子が伺えました。母親の話によると、朝から一日中、NHKの教育テレビを見ていて、いつの間にか独りで字を覚え、親も知らぬ間に数学の問題を解いたり、漢詩を書いたりしているのを、たまたま訪ねてきた人が発見してびっくりしたといいます。その子は当時、両親に「タイプライターが欲しい、字を使って皆と話がしたい」と全身で訴えたにもかかわらず、「その余裕はない」とその要求を退けたのでした。

 その子の親の考え方は、他の健常な子どもたちに学問をさせ、将来、その子の面倒を看るように育てたいというものでした。反対する親戚の人々の考えや想いは両親の耳には届きませんでした。また周囲の人々の中には施設に入れてみてはどうかと勧める者もでてきました。ある人の熱心な勧めで、12才になった時、養護施設に入ることになりました。それでも、当時の経済的理由から、その子の親はあまり、そのことを喜んではいませんでした。入設して1年もたたないうちに障害者たちの中では、その優れた知性でリーダー的存在になっていました。しかし、施設内では、園生同士のケンカも絶えず、家族が訪ねて行くと、時々、顔が打撲で腫れていることもあったといいます。いつになれば彼らが落ち着いて教育を受けられる時代が来るのでしょうか。

 そんな弟をもった優しくデリケートなタイプの姉は、両親に「どうか、弟に何とかして教育を受けさせて、この子の望みを叶えて欲しい」と懇願したのでしたが、両親の考え方は、世間体を気にするあまり、姉の願いも空しいものとなりました。悲しいかな、その両親にとって、その障害を抱えた子どもは土地の名士である旧家にまつわる不名誉な恥でしかなかったようです。母親は、ある霊媒師から、その子の障害は、自分たちの先祖の業、因縁であると聞かされ、村のお寺や行者のもとを訪ね歩き、浮かばれない先祖霊の供養にのめりこんでいきました。


すべてを隠そうとするのは内なる創造のエネルギーを遮り、自己存在を抹殺することです。すると、現実にもそれを知らせることが起きてきます。


相次ぐ不幸の意味するもの

 そんなある日の早朝、親のもとに養護施設から訃報が届けられました。「今朝、A君の事故死が確認されました」というものでした。同じ施設の子による打撲死であることを知らされた親はショックで寝込んでしまいましたが、結局はその事実を周囲には知らせず、内々で密葬にしたのです。こうして、その子の親は、さらに自分たちに襲いかかる不幸を、霊的な仕業と思い込み、その現実を受け入れることもなく、ひたすら恐怖に怯えるばかりで、自らの生き方を改善する方向には向かいませんでした。

 その子の唯一人の姉は弟の生前、親に代わって自分がよき理解者になろうと、福祉関係への道を目指しましたが、親の「世間体」がそれを許しませんでした。心を痛めた、その美しく優しい姉は、いつしか心を閉ざし、重いウツ病を繰り返したあげく、23才の若さで自らの命を絶ってしまいました。親はさらなるショックを受けたのでしたが、以前にも増して、すべてを隠そうとするために近所との付き合いも疎遠になっていきました。

 こうして次々に起こる目の前の不幸にばかりこだわり、子どもたちが伝えようとする心のメッセージに気づくこともなく、直観することもありませんでした。子どもたちに起きた現実は親が自分自身を忌み嫌い、呪う心の中を投影したものだったのです。そのことから「学ぶ」ことができなかった両親をさらなる不幸が襲います。結局その姉を頼りにしていた別の弟も、自ら精神病院に足を運び、入院した直後に、毎日ドアに頭をぶつけ、死に至りました。

 こうして、4人中3人の子どもたちは、次々に他界し、この家からは人の姿が消えていったのです。まさに「アンビリーバボー」の世界ではありませんか。その子どもたちは、両親が過去世から持ち越してきた考え方のクセや片寄り(カルマ)を修正するために、魂の約束の下(モト)にやって来た天使たちだったのです。自分の本音を偽って他人の期待に応えるために我慢するばかりの生き方をやめる事。そして、自らの真実を語り、内なる自分自身(神)と繋がり、溢れ出る愛のエネルギーで人々を癒してゆく方法を教えるためにやってきた天使たちは、その短い生涯の中で、幸せに生きる方向性を示す大切な役割を終えて帰還しました。

 家代々にわたり、現実に蓋をして、体面だけを整え、隠し続けてきた部分を「障害」として、この家の長男がみせてくれたのでした。自らの智慧で実践することなく、ただ「救って下さい」と祀った神仏に手を合わせるのみで、いつか、誰かによって救われる日が来ると待つだけの人生では、絵に描いた餅がいつかは口に入る日が来ると信じているようなものです。

 事件や出来事が起こる時こそ、自分に目覚め、進化できるチャンスです。その原因を見極め、その体験から学んだことを次のステップに生かして初めて今世に生きている意味があります。今の自分をありのままに受け入れると、深い自分自身(神)と繋がってゆきます。どんなことでも「良かった」と思えます。その反対に、「自分に都合の悪いことは見たくない」とすべてを隠そうとすることは、自分自身の内なる神(創造のエネルギー)を遮り、自己の存在を抹殺することになるのですから、現実も、それを知らせるようなことが起きてきます。

 親は「障害を持った子どもへの償いのために何かをしなければいけない」のではなく、「生きる」ことの素晴らしさを体験できるように、子どもの資質を伸ばす刺激を与えてほしいのです。自分たちも共に楽しめる環境をつくるには、「嬉しい」とか「悲しい」とか親自身の気持ちも正直に子どもに伝えながら、コミュニケーションをとる必要があります。親は子どもに、自分の考え方を投影し、子どもは自ら用意した高いハードルを、創意工夫と勇気と訓練により克服することで、他者への貢献と「神の愛」が実現することを知らせることができます。障害を持ちながら、楽しく生きている姿をありのままに見せることで、大勢の人が救われるという意味です。



チャレンジと努力で心の障害を乗り越える


 もう1人の小さな天使のお話をしましょう。数年前、当時の福岡セッションルームに、10歳になったばかりのアキト君は、妹のリカちゃんといっしょに両親に連れられてやって来ました。2人とも天真爛漫で、アキト君の眼の白い部分が青みをおびていたのが印象的でした。彼は先天性の骨形成不全という障害のため、ほんの少しの衝撃でも、骨折しやすく、自力で立って歩くことはできませんでした。どこへ行くにも車椅子が必要でした。頭の重量が背骨にかかり、胸部が圧迫されて背中が曲がりかけていました。地球の重力を支えたことのない足の裏は、赤ん坊のままでした。それでも手で床を支えながら、お尻で床を滑るように移動しては、上手に椅子の上にも這い上がって見せます。私たちは最初からとても気が合いました。お母さんは、とても美しく、一見、朗らかそうに見えましたが、緊張しやすく周囲の人への気遣いで疲れているようにも見えました。

 アキト君は10年間に9回もの大手術を繰り返し、膝関節や腕には人工金具が埋めこまれていました。その結果、片一方の足だけはまっすぐに近い状態になりましたが、残りの脚はアーチ型のままです。成長するにつれて金具をつけ換えるため、切開手術が必要なのです。幼くとも親に気を遣っていました。「本当は手術したくないけど、お母さんが安心するから我慢しているんだ」と言ったことがありました。しかし彼は何でも話せる良い家族に恵まれていました。陽気な父親とねばり強く優しい母親、しっかり者の妹と紳士服作りのプロであった祖母たちに囲まれて幸せそうに見えましたが精神的には各々、問題を抱えているようでした。いつでも母親との二人三脚で動かねばなりませんでした。お母さんは、車椅子を押しながら、小学校では毎日送り迎えをしてきました。ご両親は、子どもの将来のために、何とか一人でも生活していけるように、いつも心を砕き、息子と話し合ってきました。

 そんなある日のこと、アキト君は、「いつもお世話になっている衛藤先生から気功治療を受けて、とても気持ちよくなるから、僕も大きくなったら、痛い手術をしないで病気を治せるお医者さんになりたい」と言ってきました。その日は、自分の夢や希望をたくさん話せて嬉しそうでした。私は病院の先生の力も必要だけど、自分の心の力を信頼することが何より大切だと話をしました。「想う」エネルギーはまわりで不可能だと言っても、自分が信じる方向で必ず実現することもつけ加えました。

 セッションでは、さまざまなイメージングワークをして遊んでみました。一度も立ったり走ったりしたことはないけれど、彼はイメージングの中で、何度もその感触を味わっていると言っています。次の日から、アキト君は実際に何度も、家族に内緒で立つ練習をしたようでした。そしてある日、彼はそっと私の耳元で囁きました。「ボク、今日は立てる気がするんだよ」「それなら、だいじょうぶ、できるわよ。思い切ってやってみて」内心ドキドキしながら見守りました。机を使って上半身の力を上手く使っては床に足の裏をつけてみました。最初は10秒がやっと、そして2回目に20秒、3回目で30秒近く立てたのです。

 「先生、お母さんを呼んできて!」と叫ぶので、私は部屋の外で待っていたお母さんを招き入れました。「お母さんに、見せたいものがあるそうです」とだけ言って、彼のチャレンジする姿を見てもらいました。今度は30秒を超えた最高の自己記録でした。アキト君はこれまで頑張ってきてくれたお母さんに、最高の笑顔をプレゼントしました。

 母親は、その場に泣き崩れました。これまでのさまざまな想いと驚きでの感動の涙でした。息子の障害は自分の責任だと自分を責め続けて、自分を許せなかった辛い想いの日々であったことや、ご自身が幼い時に、お腹から大腿部にかけての熱湯による大火傷で残った傷がトラウマになっていたことなど、今まで他人に言えなかった心の内を語られました。自分の傷もアキト君の障害もリカちゃんの心臓に穴が開いたこともすべて、自分への罰だと思い込んで、なかなか前向きに生きられなかったのでした。

 しかし、このアキト君のチャレンジにより、どんなことでも、自分の考え方一つで人生を変えることができることを実感されました。ご自身も、子供の道を拓くために頑張ってきたことを思い出しておられました。毎日、車椅子を運んで通った小学校、そして中学校では、障害者を健常者と一緒に教育できる設備も、前例もないと断られたにもかかわらずご両親は諦めませんでした。そして、とうとう入学を許可されることになりました。不充分とはいえ、一個のトイレを和式から洋式へ作り変えてもらいました。しかし仕切りもドアもなく、のれん1枚では、とても落ち着いて用を足せません。よほどの時は家まで帰らねばなりませんでした。それでも、玄関からのアプローチに車椅子で動けるスロープをつけてもらっただけでも画期的だったのです。

 アキト君とご両親の努力は、こうして障害を抱えた中学生でも入学可能な前例をつくることに成功しました。中学卒業後は、車椅子で通える高校を探すのも至難の技でしたが、不思議なことに、障害者を受け入れた前例を持つ高校が見つかり、毎朝、お母さんは片道1時間半の運転を欠かさず、アキト君を通わせました。しかしながら、中学校も高校の時もかなりのイジメに遭ったことも隠せない事実です。

 しかし、小学校の時から、お母さんは、アキト君にできるだけ独りでもやれるように、手助けすることを控えてきました。途中でいくども車椅子が転倒したり、また交通量の多い大通りを横断しなければならない時もありました。その度に、色々な人に会いました。優しい人、意地悪する人、文句を言う人。しかし、途中で助けを求める息子の顔を見ながら、「アキト、自分で立ち上がって、何でも自分でやるんだよ」と心の中で叫びつつ、涙を流しながら背中を見せて帰って来たこともあったと話されました。子の母親でなければできないことです。心の障害を乗り越えてゆく息子こそ、親を励ます「天使」の姿でもありました。


 今年の春、アキト君は裁縫が大好きな大学生になりました。今、車の仮免にパスしたばかり。近いうちに、車に乗せてもらえそうです。

 <次回 第10章 生まれ変わってきた記憶>