愛と自由への旅立ち 

松尾みどり


この世の中で、二人として同じ人がいない、
かけがえのない存在としての「わたし」。
誕生の時に、男性と女性、どちらかの性別に分かれます。
なぜ、二つの性があるのでしょうか?性に関する深い意味を知ったとき、
今までのセックス「性」への認識も自ずとかわっていくことでしょう。



第7章 性は聖なるエネルギー


「わたし」という一つの生命の誕生と遺伝子の働き

 人間のドラマの中で最も崇高なドラマってどんなドラマだと思いますか?どんな人も例外なく最も崇高なドラマを体験しています。それは「わたし」という自分自身の輝かしい生命の誕生とその生涯のプロセスに他なりません。たった一個の卵子と数億個の中から全身全霊をかけて生き残った優れた元気な一個の精子との感動的な出逢い、そして融合により、一つになった受精卵が生まれるのです。そして、その受精卵は休むことなく母の胎内で細胞分裂を繰り返し、十月十日で出産される日までに何と約3兆個もの細胞数におよび、赤ちゃんの姿になるのです。もちろん、生まれた後も細胞分裂を続け、成人になると約60兆個にもなるのですから大変なものです。

 一個の細胞の中心には核(コア)があり、核膜で覆われています。その核の中にDNAと呼ばれる「私自身」になるためのすべての設計図に相当する遺伝情報が内蔵されているのです。ヒトの一個の細胞のDNAに含まれる遺伝子の基本情報は30億個の化学文字が書かれており、本にすると約千ページの本の一千冊分にも相当するといわれますから、正に奇跡的な現象ですね。別の表現をすれば「私は遺伝子です」といってもよいくらいです。遺伝子の中には母親の胎内で受精卵となってから、生まれて死ぬまでの一生の情報が組み込まれています。

 遺伝子には二つの重要な役割があります。一つは子孫を残す役割、そしてもう一つは生命の設計図としても役割です。このように現在の科学者たちは遺伝子を「役割」としての視点で把えているように感じます。私はもう一つの視点で把えてみました。魂、つまり意識のあり方は遺伝子の働きそのものだと思っています。特に注目したいのが、一つの細胞が二つに分裂する能力を持っていることと、限りなく細胞分裂を繰り返す中で、必ずどこかで突然変異、つまり新たな変化が生み出され、それが遺伝子に組み込まれることにより、新たな形態や、新たな機能を持った生命体が創り出されて、「進化」することができる仕組みの二点です。


男性と女性、性別がある意味

 私たちは、男の赤ちゃん、女の赤ちゃんとして別々の「性」で産まれてきますが、母親の胎内に宿る前の意識(魂)レベルでは、性別があったわけではなく、元来、両性具有の一つのものでした。生まれてくる時の性別は(今生の自分自身が目覚めるための)地球上での人生ドラマにおいて、どちらの性が有効であるのかに従い決定したものです。つまりそこには、一つのもの(全体)が二つの性に分化し、再び一つの意識(性)に戻る壮大な神の計画が存在しています。「自分」と異なるモノに出逢うことで、ものごとを対比させ学んでゆくことこそ、自分の意識が進化する創造活動の目的でした。強調したいのは「対比」であって「比較」による優劣や勝ち負けにこだわるのではないということです。たとえば夜があって昼の素晴らしさが分かるように、昼を知って夜の素晴らしさも分かるという具合です。

 過去における多くの人々のセッションの中で、都気に過去世の当時の意識に戻ってゆくことがありましたが、ほとんどの人が男性として辛い人生を送ると、次は女性になって違う側面で人生を体験してみようと思うらしいことがわかりました。もちろん、何度も同じ性でチャレンジする人もいます。また中には、何度も女性としての転生が長く続いた後、突然、男性になって生まれた場合「男性」としての肉体的機能性を持ちながら、どうしても「女性」的な表現や女性の物に惹かれて、化粧や女性の服などに親しみを覚える人もいます。昔に比べると現在は、そのような「性」の表現も自由に解放されつつある社会になってきました。好き嫌いは別として個人のセックス「性」はその人の人格的価値を決定づけるものではなく、本人にとって「自分自身」を知るための重要な条件や媒体であるといえるでしょう。

 私たちは誰でも自らの「男性性」や「女性性」の両方を持ち合わせ、TPOに合わせて無意識のうちに使い分けているものです。もしあなたが「男性」で生まれたとすれば、過去世に「男性」というものを深く理解できなかったので、今生は、異性である「女性」に出逢い、関わることで、その違いに目覚め「男性」としての感覚を確認したかったという意味になります。このように自分とは異質なものに触れて、新たなる刺激を受けることが自分自身の直感を目覚めさせ、より広い視野に立てるという「進化」を体験してゆくように仕組まれています。

 全く自分が知らないタイプの人とも出逢い、仕事をすることもあるでしょうし、そのような存在がいてもいいわけです。そのことは少しも自分を怯やかすものではありません。全く違うタイプの人に出逢うと、自分との違いに戸惑ったり、劣等感や嫌悪感を抱く人もいます。しかし、その「違い」こそが「私の存在」を示しているのです。その「存在」が自分にとってすばらしいのです。「違い」は優劣、勝負、正否とは何の関係もありません。それが自分自身の特異性です。

 他人の特異性もまた、すばらしいものです。正に遺伝子の性質そのものです。違う遺伝子同士がかけ合わされると、優性遺伝により、より質の良いものが受け継がれ表出してきますね。人は自分と違うもの、自分にないものにも惹かれていきます。種は常に進化をめざします。一人として全く同じ遺伝子をもたない私たちは、他人と違った遺伝子がここに存在することの重要性を認識する次元に立たされています。

 今、改めてこの38億年の地球生命進化のプロセスに登場している「わたし」という存在は、まさに奇跡としか思えませんね。この「わたし」の誕生を可能にしてくれた人たちに限りない感謝の気持ちを送りたいと思ったことはありませんか。そして、自分の存在そのものがとても、いとおしく感じられることでしょう。

 「わたし」がここに誕生するには、男と女、父と母という二つの異なる性と別々の役割による崇高な性行為による結びつきが必要でした。そして十月十日胎内に宿してくれる母親の存在なしにはありえないことでした。いかなる聖人も偉人も英雄も女性の胎内から産まれたのです。その最も崇高なる男女のセックス行為は、人間の歴史の中でいつ頃から、どうして罪なる行為、もしくは隠すべき恥ずかしい行為として考えられるようになったのでしょうか。


ゆがめられた「性」への意識

 先日、あるお笑いテレビ番組の中で、渋谷の路上を歩いている20才前後の若いギャルをキャッチして簡単な英語の質問に答えさせるシーンがモニターテレビに映し出されていました。インタビューする側の外国人女性が「What’s your sex?」(あなたの性別は何ですか)と尋ねると、質問された全員が、ニヤ二ヤしたり、戸惑ったりしながら、「やだぁ、そんなこと、こんなところで言えな〜い!」とか「エーッ、今のカレシと?週3回」なんて答えているのです。どうやら、ほどんどの女の子たちはSex(性別)を性行為と考えているようです。これは日本人学生たちの英語力低下現象の一端を垣間見たようで、心から笑える心境ではありませんでした。本来ならば、男性はmale、女性はfemaleと答えたいところです。

 巷には性風俗産業が溢れ、援助交際あり、情報誌やインターネットでも簡単にセックスパートナーを見つけられるサイトがあるそうで、その内容のほとんどが生理的欲求を満たすだけにとどまらず、過激な性の刺激を求める人たちをそそる内容で埋めつくされているといいます。

 先日も、ある夜、突然、40代後半のデザイン会社を経営する独身男性が電話相談に応じてくれと頼みこんできました。穏やかな話し口調の反面、その内容はとても過激なものでした。セクシャルマゾクラブに嵌って、そこから脱けたいがやめられないでいると言うのです。大学1年の頃アルバイトで、美術大学の女性講師に絵のモデルを依頼され、その先生に悪戯されて以来、いつも、過激な刺激がなければ落ち着かないようになったと言います。あちこちのカウンセラーを回ってみたが、彼らの目の前でパフォーマンスをさせて、高額の料金を要求されただけで現在に至っていると説明していました。

 これは、特別なケースかもしれませんが、学生時代(中高生たち)にもっと「性」(セクシャリティ)についての教育や講義がなされていれば、彼のような過去30年間の苦しみは生じなかったことでしょう。小学校、いえ幼稚園時代から、その段階に合わせた「自分の誕生の歓びと誇りを知り、あらゆる生命と繋がって生きていることを知らせるための性教育」あるいは「性」の本質についての教育時間を必須項目として導入すべきではないかと考えます。


「性」意識の変化は内面の成長を促します。本来のセックス「性」は自分自身と繋がるための通路だったのです。


「性」へのめざめとその後の心の発達

 娘がまだ2・3才頃のこと、たまたま「幼児の性に対する反応」を大変興味深く観察する出来事がありました。ある日、娘は近所に住む同い年位の男の子3人といっしょに庭で遊んでいましたが、子供たちは庭のブロック塀に向かって突然走り出すと、一列に並んでいっせいに放尿が始まりました。よく見ると娘もその中に同じように立っています。男の子たちは奇声を発しながら、きれいなアーチ型の放尿を自慢していますが、娘はどうも勝手が違うのに気づき、何度も自分の性器を覗いています。また両脇の男の子のオチンチンを見ているうちに放尿遊びも終わってしまいましたが、一人だけ何となく納得いかない様子で周囲を見回しています。

 どうやら、近所の友だち(全員男の子)にあって、自分にないモノがあったことがショックの様子です。また人数も三対一で劣勢です。3人の男の子たちも寄ってきて、不思議そうに「アレー?どうしてアヤちゃんにはオチンチンないの?」と聞かれています。娘はベソをかいて私のところにやってきました。他の男の子にあって、女の子の自分にないのは、彼女にとっての大事件です。その時、初めて「性別」があることに気づいたようでした。
 
 そこで私は一息ついた後、人間には性別(男と女)があり、女の子は大きくなったらお母さんになって赤ちゃんを産む役割があり、男の子はお父さんになって赤ちゃんをいっしょに育てる役割があるので別々の「印」がついているのだと話しました。そして、「男の子にしかできないこともあるし、女の子にしかできないこともあるので、男の子と女の子とは助け合うようにできているのよ。もちろん、両方ともできることもあるけどね」と言うと、「フーン、ワカッタ!」と娘は元気よく答えたのです。

 それからしばらく「印探し」が続きました。風呂場では、パパの股間のモノをジーッと観察し、下から手を伸ばして、ちょっと触ってみたらしく、「ナニするんだ。ヤメろよ。どこでそんな変なこと覚えたんだ。○○君か?もう遊ばせるな」と少しばかり乱暴な声が聞こえてきました。そこで私は急いで風呂場へ直行し、「怒らないでちょうだい。今日、性別に芽生えたばかりなんだから。女性と男性の違いや役割の差異はとても大切なものであり、すばらしいものだと教えたいのよ。説明しないで怒ると、意味が分からないので、何か自分がとても悪いことをしたんだと思って、怖れたり、隠したりするようになるわよ」とたしなめると、彼は「冗談じゃないね。こんな年齢で性の芽生えなんかあるもんか」と言い返します。若かった私は「医者であってもこんな考え方しかできないんだ」と腹が立つやら悲しくなるやらでガッカリしたのでした。

 一般に子供たちは2才を過ぎる頃から自分の性に気づき始めます。この時から天真爛漫な自然な性の感覚が芽生えてきます。快と不快を身体を使って表現しますし、自分の気持ちや感情を素直に表現できると、自分の深い存在と繋がるので、落ち着いて何でも怖がらずに表現できる子になっていきます。反対に自分自身の気持ちが上手く表現できなかったり、恐怖心で本当の気持ちが言えなくなると、心の内側に広がる淋しさ(空洞状態)を紛らわすための自慰行為がやめられなくなったり、ウソをついたり、隠したり、盗んだり、万引きをしたりと次々に連鎖反応が起きやすくなります。

 このように自分自身に対する「不快感」はやがて大人になると自分を許せない気持ちや罪意識を募らせ、自分を汚い者とか価値のない存在のように思い込むのです。しかし、また一方では性行為で自分を慰めたいと思い、生理的欲求だけを満たしてゆく愛に欠けたセックス体験が、さまざまな性病や性器にまつわる婦人病をつくり出してゆきます。最近若い女性に頻発している子宮内膜症などもその一例です。

 人類の歴史上、多くの人々がさまざまな宗教により、セックス性は生殖のためだけに許されるもの、それ以外の快楽的セックスは堕落を誘導するものであると宣伝し、教えこんできましたが、そうではありません。自分のセックス性は、自分の人生の生き方、考え方そのものです。パートナーや自分自身を知る上で、自分自身を解放している部分と、そうでない部分を映し出してくれる鏡の役であったり、共鳴体としてセックスエネルギーを昇華させてゆく協力者として大切に思える時に初めて、「性は聖なるエネルギー」になるのです。

 「性」に目覚めることは、自分という個性をもった存在に対する目覚めです。「性」意識の変化は自分自身の内面への成長を促すものです。つまり、本来のセックス性(セクシュアリティー)は自分自身と繋がるための通路の一つでありました。自分自身を知るための手段の一つといってもいいでしょう。そして精神修行的悟りへのプロセスも、セックス性に目覚めてゆくプロセスも、本当は同じ意味(目的)を持っていたのです。しかし、もっぱらこの二つには全く正反対の価値観を持つように教えられたのです。この二つの異なる通路は、共に自分自身の直感を隠すことなく、怖れることなく、ありのままに内なる歓びを表に出してゆくプロセスを体験するために用意されたものです。


性行為に限定されることのない歓びの表現


 自分が好きな時に、好きなスタイルでいかなる規律にも縛られず、誰の影響も受けず、ただ瞼を閉じてみます。身体にコリの部分があれば、ストレッチを加え、その後、静かに深い呼吸ができるように、特にゆっくり吐く息に意識を向けていきます。やがて自動的にゆっくりとした自然な腹式呼吸に移行していきます。ゆっくりとしたリズムがとれない時は一度中止して、また別の機会にまわしましょう。自分の内側にあまりにも多くの心配ごとや怖れなどを抱えている時は、目を閉じるのも怖くなります。そんな時は瞑想ではなく迷走になりますからやめておきましょう。そういう人はどちらかといえば動的(歌う、踊る、ゆさぶられる)なものが落ちつけます。これも立派なヒーリングです。人によって全部感覚はちがいますが、たとえばエクスタシー感覚はこんな感じかもしれません。

 静かな気持ちでボーッと自分のハートの真中を眺めているような気持ちでいると、次々にまるでシャボン玉の中に人がいて動いているように、悲しかった自分、優しかった自分、恨んでいた自分などが大きくなったり小さくなったりして見えることがあります。また気持ちだけが湧き上がってきて涙が流れることもあるかもしれません。しかし時間がたつと自分の身体の感覚もボヤけて、もう「わたし」の形も感覚もなくなってきます。光の粒子と化した自己の存在は、ただ波動(バイブレーション)だけになってゆきます。すると、人によっては、外の音は全く聞こえなくなり、海の中に潜っているような、無重力感覚の光の中に漂っている感じに包まれてしまいます。

 その頃には体外離脱感になる人もいます。すべてはその人の内なる神との繋がり具合で起きることです。もう自分の内側には怖れるものが何一つありません。体全体が宇宙の果てまで拡大して溶けてゆく感覚と、真白いような透明感のある光の中で至福感を体験します。空をイメージすれば、自分は即、空になり、風になり、水となってゆく感じです。ここへ昇りつめるまでのプロセスで何度か魂の高揚感(オーガズム)がやってきて、最後にエクスタシー(至福感)に満たされてゆきます。ただ何もないという感覚のようでもあります。

 このプロセスを今度は一人ではなく、自分のセックスパートナー(夫や恋人など)の協力を得てやるのです。全く怖れのない、自由な歓びの中で、お互いのエネルギー(感じ方、考え方)はますます解放され、ありのままの感覚表現の中にやがて二人の波動は共鳴し合い、統合されてゆくのです。歓びの表現は性行為に限定されるものではなく、形態は全く問いません。結果としてオーガズムやエクスタシーを迎えることができるわけです。

 どちらか片方が優位に立とうとしたり、ある意図のもとに演技したり、隠そうとしたりすると、その怖れの波動は正直にでてきます。自分が自分自身に正直になれた時、その愛の波動が相手にも波及します。お互いが自分自身の心の内の愛という存在の素晴らしさ、自由さ、安心感に包まれると、宇宙のすべての生命との繋がりをリアリティーをもって感じられるでしょう。その大きな光の中では、自分を責め続けてきたエネルギーも劣等感も恥ずかしさもすべて消滅してしまいます。こうして愛と希望と創造力に満ち溢れ「神なる自分」が再び地球上へ生まれ変われるのです。

 永いながい間に人類はこの性エネルギーのチャネル(通路)を封印されてきましたが、ようやく、自らの魂が約束をしたこの時代に、あなたの「性」は解放され、本当の悟りの世界を体現できるのです。性エネルギーをどのような目的で使うかは、自分自身の直感にきいて下さい。

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