(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅰ伝説の巻  三章 茨田の堤 9・10・11
  (この章は、『大阪春秋』95号・97号に発表したものに手を加えました。)
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9 流離の神社(後)

もとの堤根神社

 細屋神社のもとの所在地がわかってみると、茨田郡の五座のうち、四座までが淀川左岸に並んでいます。そこで残る堤根神社も、昔は淀川左岸に並んでいたと考えて、探してみました。それらしい神社はなかなか見つからず少々手間取りましたが、大阪市城東区蒲生4丁目の⑤八幡宮に仁徳天皇が祭られていることがわかりました。この八幡宮がもとの堤根神社でしょう。

 初め大阪平野は凡河内
(おおしかわち)国と呼ばれましたが、後に摂津・河内・和泉の三国に分かれました。この時に、⑤八幡宮の周辺は摂津国東成郡になってしまいました。そこで新たに河内国茨田郡の中に5堤根神社が作られたのでしょう。5堤根神社は古川沿いにありますが、古川は旧淀川本流の意味でしょう。ちゃんと場所を選んで神社が移されたようです。

 堤根神社の祭神は仁徳天皇ではなく、茨田連
(まんだのむらじ)の先祖の彦八井耳(ひこやいみみ)命(神武天皇の皇子)です。茨田連は堤の建設に深く関わったことが知られており、それでこの神社に祭られたのです。

 ただ蒲生の八幡宮は、淀川左岸にはあるものの、今の淀川からかなり離れていることが気になります。しかし昔の淀川は、八幡宮のすぐ西を流れていたと考えています。そのことはあとで説明したいと思います。

 したがって絶対とまでは言いませんが、茨田郡の五座は、古い昔は枚方から蒲生まで、淀川沿いに一直線に並んでいたと思います。なぜ淀川沿いに並んだかといえば、五座が堤の保全を願う神社だったからに違いありません。

 だとすれば茨田の堤は、淀川の他の支流への分かれ目を塞いで、流れを一本化する工事を伴ったはずです。『日本書紀』によれば、支流を塞ぐ工事は難工事になったといいます。特に難しいところが二ヶ所あり、衫子
(ころものこ)の絶間(たえま)・強頸(こわくび)の絶間(たえま)と呼ばれました。寝屋川市太間町と大阪市旭区の千林・清水に伝承地があります。

 茨田の堤完成後の淀川は、おそらく守口の西を南流し、大阪城の北で旧大和川と合流して北に流れ、毛馬・淡路から神崎川に入って海へ注いだと思います。

 今、大阪城の北から西流して海に注ぐ川があります。大川と呼ばれ、明治時代に淀川法水路ができるまで淀川本流とされました。この川が昔から仁徳の堀江といわれています。これが本当なら、堀江によって海への出口が一つ増えて、水はけが良くなったとは思います。この位置に掘川を掘ることには、誰も反対できないでしょう。ただ、ここに川を掘っても、淀川と大和川を分離したことにはなりません。

 以上の考えで問題があるとすれば、守口の西から蒲生の西まで南流する川筋が古地図にもなく、遺跡も発見されないことです。しかしこの問題は、現代の地図を確認するだけでも説明できます。

 応神天皇の大隈の宮は、淀川北岸の東淀川区大隈にあったとされます。ところが淀川の南にも旭区大宮・高殿・都島区などの地名があります。これらは皆、大隈の宮に由来すると思います。このことは、東淀川区と旭区や都島区が昔は陸続きだったことを示します。

 昔の大隈は、吹田から都島に延びる半島状の大地だったのです。今そこには、安威川と淀川と神崎川が西流しますが、いずれも堀川です。安威川は和気清麻呂、淀川は行基、神崎川上流はオランダ人デレーケの堀川と考えています。

 神崎川が猪名川と合流するあたりから下流には、昔は大きな入江がありました。仮に難波の入江と呼んでおきます。今の淀川区や西淀川区には、歌島・御幣島・加島など島の付く地名が多くあります。隣の尼崎市には島のほかに、浜・潮江・長洲などの地名もあります。これらの地名は入江の名残を今に伝えています。


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