| 茨田郡の五座 |
『日本書紀』の仁徳天皇11年の条には、洪水に苦しむ大阪平野の様子を記述した後に、次の文章があります。
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冬十月に、宮の北の郊原(の)を掘りて、南の水(かは)を引きて西の海に入る。因(よ)りて其の水を号(なづ)け て堀江と曰(い)ふ。又将(またまさ)に北の河の澇(こみ)を防(ほそ)かむとして、茨田(まむた)の堤(つつみ)を築(つ) く。(こみ‥‥ゴミ。流木など洪水の害のこと。) |
大阪平野では中央部の標高が低く、昔はそこに湖がありました。淀川と大和川はいくつかの支流に分かれて湖に注いでいま
した。湖の水は、大きく蛇行する一本の川で海に注いでいました。その川を三国川といいます。今の神崎川です。
大阪平野はこの地形のため水はけが悪く、長雨が降ったりするとすぐに川の水があふれたといいます。仁徳朝ではその対策
として、南の河(旧大和川)に専用の放水路を掘り、北の河(旧淀川)にはしっかりした堤防を作ったと書かれています。
この工事は、淀川と大和川を分離するという目的を持っています。しかし仁徳の堀江として現在伝承されている大川によっ
て、目的が達成されたかどうか、大きな疑問があります。海への出口が一つ増えて事態が改善されたことは確かですが、河の
分離という目的にはまだ届いていません。しかしその疑問についてはあとで考えることにして、ひとまず工事の跡を訪ねてみ
ようと思います。まず茨田(まんだ)の堤から考えてみます。
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京阪電車の大和田駅の北の門真市(かどまし)宮野町には、茨田の堤といわれるものが一部分だけ今も残っています。その上
に堤根神社が建っています。この神社の案内板によれば、この地方はもと茨田郡といい、10世紀初めに書かれた『延喜式』の
神名帳に、河内国茨田郡五座と記された五つの神社のあることを知りました。神社の名前とその所在地は、次の通りです。
①.意賀美(おかみ)神社……枚方市枚方上之町
2.細屋神社………………寝屋川市太秦(うずまさ)桜ヶ丘
③.津島部神社……………守口市金田(きんだ)町6丁目
④.高瀬神社………………守口市馬場町1丁目
5.堤根神社………………門真市宮野町
地図で確認すると、五座のうち①意賀美・③津島部・④高瀬の三社は、淀川左岸に沿って並んでいます。このことが大変気
になります。もしかすると、2細屋神社と5堤根神社も、昔は淀川左岸に並んでいたのではないかと考えます。特に2細屋神
社は小さな祠ですから、本来の神社は別にあると思われます。
| もとの細屋神社 |
そこで、淀川左岸を良く調べてみました。すると寝屋川市木屋(こや)町に、②鞆呂岐(ともろき)神社を発見しました。細
屋は普通ホソヤと読みますが、コヤとも読めます。そこで、細屋神社の名前は木屋(こや)の地名に由来し、コヤ神社と読む
のが正しいと考えました。つまり、②鞆呂岐神社こそ本来の細屋神社だと考えたのです。
興味深いのは、木屋から東南の香里(こおり)本通町にも友呂岐神社のあることです。そこは丘の中腹で、ピンと来るもの
があります。
二つのトモロキ神社を直線で結ぶと、その延長線は寝屋川市成田南町の小山に突きあたります。今その山には水道局の給水
タンクが二つ建っていますが、昔はトモロキ神社(旧コヤ神社)の奥津宮があったと推定できます。友呂岐神社は中津宮にあ
たり、旧コヤ神社は三宮を備えた古い神社だったのです。邪馬台国の王(天皇)は三宮に祭られますが、大和朝廷の天皇で三
宮に祭られた例はありません。このことから、三宮は邪馬台国時代の祭祀形式の残ったものと考えてよいでしょう。
今の細屋神社については、よその土地から流れて来たという説があります。暴風雨などによって、タンク山の奥津宮が流さ
れた可能性はあるでしょう。ご神体が南に流されると、秦氏の居住地を通ります。そこを秦氏の人々に拾われて、太秦桜ヶ丘
に祭られたとしても不思議ではありません。川のそばの田んぼの横に、雑木林に囲まれて、式内社細屋神社があります。神社
というより祠というべき小さな神社です。この小さな神社が、茨田の堤の謎を解く重要なヒントなのです。
細屋神社から西北にすぐのところに八幡神社があります。名前は八幡神社ですが、祭神は京都の上賀茂神社と同じ別雷(わ
けいかづち)の神です。入り口の石柱には加茂神社奥宮と書かれています。これは無視できません。(入り口の石柱の横には単に
「通称奥の
加茂神社とは、八幡神社から西南へ600メートルほど離れた寝屋川市秦町の神社です。二つの神社を直線で結び、その延長
線を東北に伸ばすと、三井(みい)小学校前の小山に突きあたります。これも古い三宮の痕跡です。
おそらくこの三宮が秦氏の氏神で、秦氏と京都の鴨氏は近い関係にあると思われます。秦氏がこのような三宮を持っている
以上、細屋神社は秦氏の氏神ではなく、流離の神社と見て間違いありません。
(なお細屋神社の周辺に関連して、『地域文化誌・まんだ』の61号と62号に連載された山野貞夫氏の「式内社細屋神社考」がよいヒント
になったことを書き添えておきます。『大阪春秋』にも書き漏らしました。遅れまして、すみませんでした。2011年10月27日追記。)
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| もとの堤根神社 |
細屋神社のもとの所在地がわかってみると、茨田郡の五座のうち、四座までが淀川左岸に並んでいます。そこで残る堤根神
社も、昔は淀川左岸に並んでいたと考えて、探してみました。それらしい神社はなかなか見つからず少々手間取りましたが、
大阪市城東区蒲生4丁目の⑤八幡宮に仁徳天皇が祭られていることがわかりました。この八幡宮がもとの堤根神社でしょう。
初め大阪平野は凡河内(おおしかわち)国と呼ばれましたが、後に摂津・河内・和泉の三国に分かれました。この時に、⑤八
幡宮の周辺は摂津国東成郡になってしまいました。そこで新たに河内国茨田郡の中に5堤根神社が作られたのでしょう。5堤
根神社は古川沿いにありますが、古川は旧淀川本流の意味でしょう。ちゃんと場所を選んで神社が移されたようです。
堤根神社の祭神は仁徳天皇ではなく、茨田連(まんだのむらじ)の先祖の彦八井耳(ひこやいみみ)命(神武天皇の皇子)です。
茨田連は堤の建設に深く関わったことが知られており、それでこの神社に祭られたのです。
ただ蒲生の八幡宮は、淀川左岸にはあるものの、今の淀川からかなり離れていることが気になります。しかし昔の淀川は、
八幡宮のすぐ西を流れていたと考えています。そのことはあとで説明したいと思います。
したがって絶対とまでは言いませんが、茨田郡の五座は、古い昔は枚方から蒲生まで、淀川沿いに一直線に並んでいたと思
います。なぜ淀川沿いに並んだかといえば、五座が堤の保全を願う神社だったからに違いありません。
だとすれば茨田の堤は、淀川の他の支流への分かれ目を塞いで、流れを一本化する工事を伴ったはずです。『日本書紀』に
よれば、支流を塞ぐ工事は難工事になったといいます。特に難しいところが二ヶ所あり、衫子(ころものこ)の絶間(たえま)
・強頸(こわくび)の絶間(たえま)と呼ばれました。寝屋川市太間町と大阪市旭区の千林・清水に伝承地があります。
茨田の堤完成後の淀川は、おそらく守口の西を南流し、大阪城の北で旧大和川と合流して北に流れ、毛馬・淡路から神崎川
に入って海へ注いだと思います。
今、大阪城の北から西流して海に注ぐ川があります。大川と呼ばれ、明治時代に淀川法水路ができるまで淀川本流とされま
した。この川が昔から仁徳の堀江といわれています。これが本当なら、堀江によって海への出口が一つ増えて、水はけが良く
なったとは思います。この位置に掘川を掘ることには、誰も反対できないでしょう。ただ、ここに川を掘っても、淀川と大和
川を分離したことにはなりません。
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以上の考えで問題があるとすれば、守口の西から蒲生の西まで南流する川筋が古地図にもなく、遺跡も発見されないことで
す。しかしこの問題は、現代の地図を確認するだけでも説明できます。
応神天皇の大隈の宮は、淀川北岸の東淀川区大隈にあったとされます。ところが淀川の南にも旭区大宮・高殿・都島区など
の地名があります。これらは皆、大隈の宮に由来すると思います。このことは、東淀川区と旭区や都島区が昔は陸続きだった
ことを示します。
昔の大隈は、吹田から都島に延びる半島状の大地だったのです。今そこには、安威川と淀川と神崎川が西流しますが、いず
れも堀川です。安威川は和気清麻呂、淀川は行基、神崎川上流はオランダ人デレーケの堀川と考えています。
神崎川が猪名川と合流するあたりから下流には、昔は大きな入江がありました。仮に難波の入江と呼んでおきます。今の淀
川区や西淀川区には、歌島・御幣島・加島など島の付く地名が多くあります。隣の尼崎市には島のほかに、浜・潮江・長洲な
どの地名もあります。これらの地名は入江の名残を今に伝えています。
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