10 行基の堀川
行基年譜・天平十三年記 |
仁徳朝から300年ほど後、近畿地方で布教活動のほかに、社会事業や土木事業まで行う一人の僧が現れました。名前を行基(668〜749)といいます。その数多い事業の中から四つの堀川を取り上げて考えます。仁徳朝の堀江を理解しようとすれば、歴史時代の全体を通して淀川治水の流れを理解する必要があり、そのためには行基の堀川を無視できないからです。
行基については、いくつかの小伝記がありますが、その中で『行基年譜』が良く知られています。『行基年譜』の中には、行基が行った事業を項目別に整理した「天平十三年記」と呼ばれる記事があり、研究者にしばしば引用されます。天平13年(741年)には行基がまだ生存中で、同時代史料として信頼されています。ただしそこには誤字もあれば、後世の書き込みもありますから、注意が必要です。
「天平十三年記」には、行基の堀川について次のように書かれています。
比売嶋堀川 │姫島の堀川
長 六百丈 │ 長さ 2,400メートル
広 八十丈 │ 広さ 240メートル
深 六丈五尺 │ 深さ 20メートル
│
白鷺嶋堀川 │白鷺島の堀川
長 百丈 │ 長さ 300メートル
広 六十丈 │ 広さ 180メートル
深 九尺 │ 深さ 3メートル
在已上西城郡津守里。 │ 以上は西成郡津守里にある。
│
次田堀川 │吹田の堀川
長 七百丈 │ 長さ 2,100メートル
広 二十丈 │ 広さ 60メートル
深 六尺 │ 深さ 2メートル
在嶋下郡次田里。 │ 嶋下郡吹田里にある。
已上三所在摂津国。 │ 以上の三ヶ所は摂津国にある。
│
大庭堀川 │大庭の堀川
長 八百丈 │ 長さ 2,400メートル
広 十二丈 │ 広さ 36メートル
深 八尺 │ 深さ 2メートル
在河内国茨田郡大庭里。│ 河内国茨田郡大庭里にある。
所在地を見ると、四つの堀川は守口から西の淀川下流域に集中しています。したがってこの堀川群は、仁徳朝の成果を踏まえた上で、それに改良を加えたものと想像されます。それではこの堀川を、上流から下流に向かって検討してみましょう。
行基の堀川 |
◯.大庭は守口市北部の地名で、大庭の堀川には水運の利便性を高める意図がありました。
守口市の北部では淀川が大きく湾曲し、淀川水運における難所として知られていました。淀川流域では、冬はもちろんのこと年間を通じて西風の吹く日が多いような気がします。淀川をさかのぼる船はこの風を利用しました。ところが守口の湾曲部では西風が逆風になって、船の進行を妨げました。特に冬は逆風がきつかったと思います。
そこで、湾曲部の横に、直線的なバイパス堀川を掘りました。それが大庭の堀川です。もし大庭の堀川が完成していれば、守口の難所は解消したはずでした。残念ながら今、大庭に堀川が残っていません。いかなる事情があったのかはわかりませんが、工事は完成しなかったと思われます。
◯.吹田の堀川は、守口から都島区毛馬に至る川だと思います。これは今の淀川にほぼ重なります。ここでは堀川が淀川本流になってそのまま残ったのです。次田は誤字でしょう。今の吹田市のこととされています。
この堀川によって、南の蒲生方面へ大きく蛇行していた淀川の流れを短く直線化することができました。さらに、守口から蒲生に至る古い川を埋めれば、淀川と大和川を分離することになったはずです。おそらく古い川は、この時埋められたのです。ついでに大川の南北流の部分も埋めれば、淀川と大和川が完全に分離しますが、それは実行されませんでした。おそらく水運の利便性を残したのでしょう。
◯.姫島の堀川は西成郡に掘られたとあります。西城郡は誤字で、西成郡のことです。姫島という地名は、昔、天の日矛(あめのひぼこ)の妻の阿加流比売(あかるひめ)がこの地にやって来て、比売許曽の社(ひめこそのやしろ)に祭られたという伝承に由来します。比売許曽社は、今は東成区東小橋三丁目にあります。また阿加流比売は、西淀川区姫島四丁目の姫島神社に祭られています。
したがって姫島の範囲は広く、上町台地から天満砂州にかけての半島状の地形が、昔は姫島と呼ばれたのです。昔は半島を島と呼ぶのが通例だったようで、他にも例があります。たとえば、姫島の東に隣接して大隈島があります。また鳥取県の弓ヶ浜も夜見島(よみのしま)と呼ばれています。
姫島の堀川は、昔の中津川のことだと思います。北区長柄から淀川区塚本まで、中津川の西流部分が姫島の堀川です。ただしここには問題があります。中津川の西流部分は5,000メートルほどありますが、姫島の堀川は1,800メートルと書かれています。また深さが20メートルというのもあまりに不自然です。情報にかなりの混乱があります。そこで、姫島の堀川についてはあとでもう一度考えることにして、話を先に進めましょう。
◯.白鷺島の堀川は、中津川が塚本の北で湾曲して南流する部分です。この部分は、そのほとんどがかつて難波の入江の海岸線でした。行基の時代には陸地化が進み、かつての海岸線が天然の川になっていたでしょう。そこで今の姫島のあたりで、入江と大阪湾を隔てる砂州の部分だけ掘ったと考えます。堀川の長さがわずか300メートルと短いのはそのためです。
白鷺島は、大阪湾と難波の入江を隔てる砂州をさします。福島区鷺洲の地名がその名残です。大阪湾と難波の入江を隔てる砂州は、尼崎側にもあったはずです。尼崎市長洲の地名はその名残だと思います。昔の人は、入江を囲む二つの砂州を名づけて、難波の並び浜と読んだのではないでしょうか。
姫島の堀川 |
さて、姫島の堀川には問題がありました。長さが合わない上に、深さが20メートルもあると書かれていることです。
深さについては、上町台地の高いところが標高20メートルほどですから、これに一致します。そこで、姫島の堀川は上町台地を横切るものと考えれば、一見問題は解決するように見えます。堀川の長さについても、上町台地を横切るだけなら1,800メートルで充分です。しかしその延長線上に海に至る堀川が必要とすれば、1,800メートルではとても足りません。
また、堀川の主体が上町台地にあるとした場合には、その所在地は西成郡ではなく、東成郡と書かれるべきでした。上町台地の堀川は四天王寺の南にあったと思いますが、明治18年の地図ではそのあたりは東成郡とあります。ただし台地の北部は西成郡でしたから、違う考えもあり得ます。しかし今はそのことは考えません。
以上のことから、姫島の堀川について二つの説が考えられます。西成郡とする記事を重視すれば、中津川説が有利です。堀川の深さを重視すれば、上町台地説が有利になります。どちらが正しいかとなると、決め手がありません。どちらも正しそうに見えます。そこで、どちらも正しいと考えてみました。つまり行基は、中津川でも、上町台地でも川を掘ったと考えました。そうすると姫島の記事には、二つの堀川の記憶が重なっていることになります。行基は上町台地を掘って、大和川の水を西の海に流したかったのでしょう。しかしこの工事は成功しませんでした。
あとは堀川の長さの問題ですが、それは、上町台地を横切る部分の長さだけが記録に残ったと考えました。
振り返ってみると、行基の堀川には三つの目的がありました。一つは淀川と大和川を遠ざけることです。二つ目は淀川の流れを直線的にして、すみやかに海に流すことでした。さらに、水運の利便性を高めることも考えられていました。
行基のアイデアは、完全には実現しませんでした。ようやく明治時代になって、オランダ人のヨハネス・デレーケが淀川放水路を作ったときに、そのアイデアが引き継がれ、ほぼ完全に実現しました。ヨハネス・デレーケは行基のアイデアを全く知らなかったと思いますが、淀川と人々のかかわりを理解したからこそ、同じ結論を得たのでしょう。