(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  T伝説の巻  二章 邪馬台国5678
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8 女王台与の都(前)

女王の都

 投馬国と邪馬台国への行程は、榎一雄氏と同じように、どちらも伊都国を起点にして読むことにします。まず邪馬台国への道から検討しましょう。ただし邪馬台国というのは、この場合は女王の都(台与の都)をさします。もちろん所要日数も道のりのうちと見なして、四分の一に修正します。

 女王の都まで船なら十日、歩行なら一月と書かれています。魏使が一日に何キロ進んだかはわかりませんが、唐代の記録を参考にすることができます。

 1948年に、榎一雄氏が雑誌『オリエンタリカ』に発表した「邪馬台国の方位について」によれば、唐の法律・制度を記した『唐六典』の三巻戸部の条に、一日の歩行は五十里と書かれているといいます。

  凡そ陸上の行程、
(ろば)及び歩行一日五十里。

 これによって陸行一月を計算すると、50里かける30日で、1,500里になります。総行程の12,000里から、伊都国までの10,500里を引くと、残りは1,500里ですから、一月の歩行距離と一致します。

 1,500里を四分の一にすると375里、およそ163キロです。これが周船寺から女王の都までの道のりです。都の東には海があると見るのが妥当ですから、候補地は限定されます。都は大分県(豊の国)の宇佐市付近と見られます。

 宇佐市には、宇佐八幡宮があります。全国の八幡宮の総本社とされ、祭神は応神天皇・
比売(ひめ)大神・神功皇后です。比売大神は宗像三女神をさすとする説もありますが、玉依姫(たまよりひめ)と見るのが一般的です。

 なお榎一雄氏は、『唐六典』から一日の歩行は五十里とする記事のみ採用しましたが、『唐六典』には、河川における水行日程も書かれています。榎一雄氏は後に『邪馬台国』の中で、その部分も含めて引用していますから、参考までに紹介します。ただし海上の水行日程は、書かれていないといいます。


 凡陸行之程、       およそ陸上の行程は、
  馬日七十里、       馬、  日に七十里(約30km
  歩及驢五十里、      歩行、ろば、五十里(約22km)

  車三十里。        車、    三十里(約13km)

 水行之程、        水上の行程は、
 舟之重者、泝       重い船で川を遡上するには
  河日三十里、       黄河、日に三十里(約13km)
  江四十里、        長江、  四十里(約17km)
  余水四十五里、      他の川、四十五里(約19km)

 空舟泝          空の船で川を遡上するには
  河四十里、        黄河、  四十里(約17km)
  江五十里、        長江、  五十里(約22km)
  余水六十里。       他の川、 六十里(約26km)

 沿流之舟、則軽重同制、  川を下るには、船の軽重を問わず、
  河日一百五十里、     黄河、日に百五十里(約64km)
  江百里、         長江、    百里(約43km)
  余水七十里。       他の川、  七十里(約30km)
 (近衛本大唐六典)

 ここに言う河は黄河、江は長江、余水は他の河川です。海上の行程を考える場合には、川を下るときの例が参考になります。なぜなら、海を行く場合には順風を待って船出すると思うからです。川の流れに乗る場合と、順風を受ける場合の速さは近いと思います。

 長江を下るときは一日に百里とありますから、歩行の二倍です。黄河なら一日に百五十里で、歩行の三倍になります。

 榎一雄氏は、水行十日陸行一月を「水行なら十日、陸行なら一月。」と読みました。これだと水行の速さは陸行の三倍になります。つまり、黄河を下る場合と同じになります。榎一雄氏の読み方は、ひとまず理にかなうと見ることができます。


  水行十日 → 150里 X 10日=1500里
  陸行一月 →  50里 X 30日=1500里


 ですがこの場合、榎一雄氏の筑後山門説は、適正距離の半分しかありません。無理な気がしますけどねぇ

投馬国へ・他

 投馬国へは船で二十日と書かれています。宮崎県が有力候補です。宮崎県中部の西都(さいと)市に妻の地名と都万(つま)神社があるからです。投馬はツマの音を写したと思います。

 しかし、西都市までの道のりが少し遠いのが欠点です。宇佐までの道のりの二倍が理想ですが、二倍半あります。そこで、投馬国の中心は西都市だったが、外港は延岡市だったと考えればよいと思います。

 女王国から東へ千里海を渡ると、また別の倭人の国があるといいます。これは四国地方か中国地方をさします。『後漢書』ではこの国を
狗奴(こな)国とします。しかし当時の倭国では、邪馬台国の領域以外は全て、狗奴(こな)国ではないでしょうか。出雲は、その狗奴国の盟主的存在ではないでしょうか。

 倭国の地理は、海を渡ったり陸を伝ったりして、一巡り五千里になるといいます。対馬から怡土・宇佐を経由して四国か中国に渡ると、ちょうど五千里です。しかも『後漢書』の記事を採用すれば、
邪馬台国と狗奴国(または別の倭人の国)を合わせて五千里になります。邪馬台国と狗奴国を合わせて倭国であり、その一巡りを五千里とするのが、当時の中国人の倭国観だったと思います。

 「魏志倭人伝」と『後漢書』で狗奴国の位置が違うのは、重要な情報です。おそらくここには、年月の経過による情勢の変化が反映されています。残念なことに、陳寿(3世紀の人)や『後漢書』を書いた范曄(はんよう・5世紀の人)には、そのような変化までは読み取れなかったのです。

 狗奴国が南にあったのは、卑弥呼の時代のことです。しかしまもなく、邪馬台国が九州一円を制圧してしまいました。神話によれば、アマテラス2世が天の岩屋戸に隠れた後、スサノオが出雲に向かったとされます。これは、九州平定が終わったから、出雲へ出征したと考えられます。台与の時代には次の目標を倭国統一に定め、東方の狗奴国と向き合ったのです。都を宇佐に移したのも、東方進出に連動した動きだったと思います。

 こう考えると、投馬国は九州制圧後に置かれた国で、南九州全域をさす可能性があります。投馬国の人口が多いのは、そのためです。都城は、卑弥呼の都のあった粕屋郡久山町の山田に対応しますが、これは卑弥呼の時代に南九州を制圧した傍証になるでしょう。

 
狗奴(こな)国の官に狗古智卑狗(ここちひこ)がいますが、これには二通りの解釈があります。狗奴国を南と見れば熊本県菊池(きくち)市の菊池彦(きくちひこ)が有力ですし、東と見れば山口県岩国市の玖珂(くが)盆地の玖珂津彦(くがつひこ)が有力となります。

 女王国から南に四千里のところに、小人の国があると書かれています。四分の一にすると千里、434キロです。宇佐を起点にすると、屋久島か大阪の付近になります。人の身長は1メートルほどとあって、真偽のほどはわかりません。

 次に裸国、黒歯国があると書かれています。女王国の東南へ船行1年にして至るといいます。四分の一にすると90日です。十日で千五百里を行くとすれば一万三千五百里、およそ5,900キロになります。ニューギニア東方の島々が候補です。

 沖縄の
南風原(はえばる)や、下関南風泊(はえどまり)港などから連想するのですが、南九州の隼人(はやと)は、南風人(はえひと)が語源で、南方との海上交易に関わる人々だったかもしれません。そしてその南風人(はえひと)の活動範囲は、遠く南洋にまで及んだかも知れません。しかしこれもまた、真偽のほどはわかりません。

 「魏志倭人伝」には、女王の支配が及ぶ国として30国ほどの名を上げていますが、その地名比定は難しいと思います。一部の地名だけならできないこともありませんが、それでは意味がありません。やはり全体的な答えを出さないと、正誤の判定ができないと思います。

 また倭国の人口は、これも四倍になっているでしょうが、詳しいことは書けそうにありません。たとえば邪馬台国の人口という時、それは宇佐の人口か、久山の人口か。周辺国の人口まで含むのか否か。謎が多いのです。


卑弥呼の時代
 

台与の時代 

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