(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  T伝説の巻  二章 邪馬台国5678
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8 女王台与の都(後)

台与の都

 宇佐市では、青森の加茂神社と、和気(わけ)(わけ)神社と、南宇佐の宇佐八幡宮が一直線に並んでいます。さらに加茂神社の東には、豊後高田市堺の貴船神社と境山が一直線に並んでいます。三宮の姿から判断して、加茂神社は台与(とよ)(孝元天皇)の都だと思います。京都の下鴨(しもがも)神社には宇佐八幡宮と同じ玉依姫(たまよりひめ)が祭られています。加茂神社は台与の都にふさわしいといえます。

 その墓は、宇佐八幡宮の境内にあるかもしれません。八幡宮には大きな池があって、その中に島があります。『古事記』や『日本書紀』では、孝元天皇の墓は剣池の島にあるといいますから、この島のことかも知れません。

 しかし、台与(とよ)の治世の後半には、大和に都を移した可能性があります。当然ながら、台与の墓が大和に作られた可能性が強いと思います。奈良県桜井市には、出現期の前方後円墳がいくつもあります。その中の一番古いものが台与(とよ)の墓だと思います。

 台与の墓からは、「親魏倭王」の金印が発見されるでしょう。金印は
卑弥呼から男王へ、男王から(とよ)へと受け継がれたはずです。金印が不要になるのは、魏が滅んだ時です。魏は265年に滅び、266年には倭国の女王が晋に朝貢しました。この女王は台与と見られます。台与は、金印が不要になったことを理解したはずです。金印は、台与の墓に副葬された可能性が強いと思います。

 そしてもし、266年にはすでに邪馬台国が大和に移っていたとしたら、その情報が陳寿にも届いた可能性が強いと思います。この第三の情報が最後に行程記事に反映されて、順次式の行程記事が生まれた可能性があります。そうすると意外な話ですが、大和説と九州説はどちらも正しいことになります。三都式の読み方まで考えねばならなくなりました。

 試みに、投馬国を延岡市ではなく、瀬戸内方面に求めると、愛媛県
今治(いまばり)市が候補になります。そこから水行十日の上陸地点は兵庫県赤穂(あこう)市が良いと思います。赤穂から歩いて一月の邪馬台国は、奈良県桜井市です。もちろん道のりは四分の一に修正しています。南を東に置き換えるだけで、ピタリと大和に収まります。

 日本海航路を採用すれば、投馬国を鳥取県
米子(よなご)市付近とし、上陸地点を京都府宮津市にすると良いでしょう。距離の比率が良く合います。多少道のりが遠くなりますが、誤差の範囲です。このルートも大和に収まります。

 ただし、地名が一致するかどうかは気にしないで良いのです。なぜならこのルートは、266年に入手した大和への行程情報につじつまを合わせただけだからです。九州邪馬台国に関する行程を仮に並べ替えたら、偶然に大和への行程に一致しただけなのです。


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