(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅰ伝説の巻  一章 神武天皇34
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4 地理的対応(前)

大和の飛鳥

 宮が征服した九州北部は、後に邪馬台国になり、ついには大和朝廷になりました。天孫降臨の舞台になった若杉山は、邪馬台国を象徴する山です。そのために神聖な山として、邪馬台国に良く似た地形を発見するたびに、各地に聖地移植され、高千穂峯にかわる特別な名前がつけられました。それらの高千穂峯をたどっていくと、邪馬台国が成長し、拡大する姿が浮かび上がります。まず、大和の飛鳥を紹介しましょう。

 奈良県橿原(かしはら)市・高市郡では、多武嶺(たむのみね)が高千穂峯です。寺川と飛鳥川が多武嶺を囲んでいます。多武嶺は粕屋郡の若杉山に対応します。寺川は多々良川に対応し、飛鳥川は須恵川に対応します。

 多武嶺(たむのみね)を土地の人はトウノミネと言い、談山(たんざん)という別名もあります。その山上には談山(たんざん)神社があり、藤原鎌足(かまたり)が祭られています。昔は神武天皇と天児屋根命(あめのこやねのみこと)の聖地だったと思いますが、いつしか藤原鎌足の聖地という形で、藤原氏が独占するようになりました。

 飛鳥川の左岸には
橿原(かしはら)神宮があり、神武天皇が祭られています。これは、須恵川の左岸に旅石八幡宮があって、神武天皇が祭られていることによく対応します。橿原神宮は神武天皇の都跡とされますから、逆にこのことから、旅石八幡宮が神武天皇の行宮(あんぐう)であることを確認できます。

 旅石八幡宮の西北には、三宮神社と志賀神社が一直線に並んでいます。志賀神社は、神武天皇の墓だと思います。ただし、本物の墓は高句麗にあるはずですから、これは移植された聖地です。志賀神社の前に熊崎バス停のあることは、偶然とは思えません。クマという地名は、高句麗の故地である蓋馬
(ケマ)高原を連想させるからです。

 『古事記』によれば、神武天皇の墓は、畝火山(うねびやま)の北の、カシの尾の上にあるといいます。この記事は、志賀神社の置かれた地理的状況をよく表現しています。旅石八幡宮の西にはボタ山がありますが、その下には自然の小山があったはずです。それを粕屋郡の畝火山(うねびやま)と考えます。ボタ山の西北の志賀神社は、大地のしわのような地面の高まりの先端にあります。したがって、カシは丘や地面の高まりを意味し、志賀神社はカシの尾の上にあるといえます。カシハラの都は丘の上の都と理解してよいと思います。

 大和における神武天皇陵の比定地には、古墳らしい地面の高まりが作られていますが、志賀神社とは対応しません。今の比定地は飛鳥川の左岸にありますが、志賀神社は須恵川の右岸にあります。

 神武天皇陵の比定地を飛鳥川の右岸に求めるなら、もっと北の
田原本(たわらもと)(おお)にある(おお)神社のほうがふさわしいと思います。多神社と橿原神宮の中間には、橿原市内膳町の春日神社があって、粕屋郡の三宮神社によく対応します。

 さらに、橿原神宮と多武嶺(たむのみね)を結ぶ三宮も確認できます。中間の明日香村飛鳥に飛鳥坐(あすかにいます)神社があり、事代主神(ことしろぬしのかみ)が祭られています。事代主(ことしろぬしのかみ)は出雲の神ですが、国譲りを快く承諾した神で、サルタビコを連想させます。事代主神はサルタビコの別名か、サルタビコの氏族を象徴する神かもしれません。そう考えると、多武嶺の三宮には、天孫降臨の中心をなした人物が祭られたことになります。

 さて、粕屋郡にも
畝傍山(うねびやま)があるとすれば、香具山(あめのかぐやま)耳成山(みみなしやま)も探しておきましょう。須恵町と篠栗町の境にある乙犬山が、少し背が高いですが天の香具山に対応します。粕屋町の丸山は見た目も美しく、耳成山に対応します。大和三山ほどの存在感はなく、かなりの凹凸三山ですが、これが粕屋三山です。

河内の飛鳥

 『古事記』や『日本書紀』には、飛鳥(ちかつあすか)飛鳥(とおつあすか)という地名が登場します。飛鳥は奈良県明日香村で、飛鳥は大阪府羽曳野(はびきの)市の飛鳥です。大和の飛鳥と同じく、河内の飛鳥にも飛鳥川が流れ、川の右岸には高千穂峯(たかちほのたけ)にあたる寺山があります。

 
羽曳野(はびきの)市を流れる石川と支流の飛鳥川は、粕屋郡の須恵川に対応します。飛鳥川右岸にある寺山は、須恵川右岸の若杉山に対応します。寺という字には朝廷や役所という意味がありますから、寺山は高千穂峯と同じく、特別な名前と思われます。

 寺山の北の柏原市には、大和川と支流の原川が流れています。大和川と原川は、粕屋郡の多々良川に対応します。大和川・原川は、石川・飛鳥川とともに寺山を囲んで、トンボの交尾の地形を形成しています。

 さらに、河内飛鳥にも三山があるので紹介しましょう。座標軸の中心は、飛鳥川の左岸にある羽曳野市壺井の壺井八幡宮です。これは橿原神宮にあたります。その北にある山(仮に壺井山)が
畝傍山(うねびやま)です。壺井八幡宮と寺山の中間には飛鳥戸(あすかべ)神社があり、これが中津宮です。

 壺井八幡宮の北にある
柏原(かしわら)市玉手町の玉手山は、天の香具山に対応します。玉手山の伯太彦(はかたひこ)神社と伯太姫(はかたひめ)神社は、神武天皇の墓(多神社)に対応します。中間の羽曳野市駒ヶ谷にある杜本(もりもと)神社は中津宮です。そして耳成山には、原川右岸にある柏原(かしわら)市国分市場1丁目の、芝山が対応します。

 河内飛鳥の三山は、位置関係が少しずれており、神社の配置にもずれが見られます。それでも三宮もそろっており、河内飛鳥は紛れもなく飛鳥といえます。柏原という地名も、カシハラの都に由来すると思います。

 さらに河内飛鳥の大事な特徴は、地名においても福岡との接点を持つことです。まず、伯太は博多に通じます。位置は少しずれますが、トンボの交尾の下流方向にあるのは共通します。また伯太の北には片山があり、その北には
堅上(かたかみ)堅下(かたしも)があります。一方、博多の東には堅粕(かたかす)があります。その北の箱崎八幡宮の伝承によれば、箱崎の古い地名は蚊田(かた・かだ)だといいます。だとすれば、河内飛鳥周辺にあるハカタやカタの地名は、福岡から移植されたものと見て何の不思議もありません。

 
 22伯太彦神社
 23伯太姫神社
 伯太は、ハカタともハクタとも読まれているようですね。昔は石川を伯太川とも博多川とも言ったとか。また、奈良県御所市にも昔、博多山という地名があったようですから、葛城山の別名が博多山であれば、山の東西に博多の地名が残ったと考えることもできますが、はて、どうでしょうか。

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