(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅰ伝説の巻  一章 神武天皇34
  もどる     つぎへ     目次1へ

3 太祖神社の謎(前)

   (3太祖神社の謎は、『季刊邪馬台国』85号に発表した「神武天皇の足跡」に手を加えたものです。)

宇美町神武原(うみまちじんむばる)

 博多駅北口のバスターミナルから、宇美町障子岳(しょうじだけ)行きのバスが出ています。このバスは福岡空港の東を通り、30分ほどで宇美に着きます。宇美の中心部を抜け、柳原(なぎばる)を過ぎると、まもなくバスはUターン気味に右折します。そこに原口(うえのはるぐち)のバス停があります。

 上の原口はKの字状の交差点で、まっすぐ行けば、ショーケ越えから飯塚市に向かいます。右前方には、車一台が通れるほどの道が山に向かって伸びています。この細道は、おおむね須恵(すえ)と宇美の町界で、左が須恵、右が宇美です。

 上の原口から700メートルほどで神武原(じんむばる)の集落があります。標高100メートルほどの高台に、水田と国津神の大山祇(おおやまつみ)神社があります。さらに1キロほど坂道を登ると、(なかのはる)の集落と(やく)神社があり、水田もあります。福岡の街と博多湾に向かってすばらしい眺めが広がります。

 中学校の遠足では、上の原を通ってショーケ越えまで行き、そこから左側の峰伝いに若杉山に登ったことがあります。その時には気付きませんでしたが、山頂の少し下に太祖神社の上宮があります。若杉山には北の篠栗(ささぐり)から登るのが一般的で、篠栗側の上り口に、太祖神社の下宮があります。

 江戸時代に福岡藩士青柳種信(あおやぎたねのぶ)種信が書いた『筑前国続風土記拾遺(しゅうい)』によれば、太祖神社下宮の鳥居の額には、神武聖皇帝と書かれていたと言います。若杉山の北と南に神武の名が残ったのには、何か理由があったと思います。

 太祖といえば、高句麗王の6代が太祖大王で、名前を宮(きゅう)と言います。宮は西暦53年に7才で即位したので、幼少時には母親が摂政を務めました。『後漢書』によれば、西暦121年秋に亡くなりました。7才で即位し、75才で亡くなったのです。これを日本の数え年に直すと、8才で即位して、76才で亡くなったことになります。この宮にかかわる数字は、『日本書紀』の神武天皇にかかわる数字と奇妙な一致を見せています。神武天皇は、日向を発って8年目に大和で即位し、治世76年に亡くなりました。

 これは、宮にかかわる数字の意味を誤って伝えたのでしょう。しかも、宮の子は遂成(すいせい)と言いますが、神武天皇の子も綏靖(すいせい)天皇と言います。宮と神武天皇は同一人物で、遂成と綏靖天皇も同一人物と思われます。

 『日本書紀』の紀年によれば、神武天皇の即位はBC660年ですが、この紀年は半年暦などによって引き伸ばされています。神武天皇と宮の時代は重なると思います。

若杉山

 宮が神武天皇だとすれば、神武天皇の東征伝承は間違いで実は南征したことになります。そこで、『日本書紀』の中に、征服者の記憶が残っているかどうか探してみました。何度か神話を読むうちに、天孫降臨(てんそんこうりん)伝承の中に、九州北部征服物語が隠れていることに気づきました。その主人公の皇孫(すめみま)神武天皇です。

 天孫降臨は、『古事記』の伝承では意味が通らないほど記憶が壊れています。まるで山が崩れる瞬間を、ストップモーションできとめたような印象です。しかし、『日本書紀』では原形に近い姿が残っていて、かろうじて意味が通じます。そこでこれを紹介し、分析してみましょう。

   皇孫(すめみま)(すなは)磐座(あまのいはくら)(おしはな)ち、(また)天八重雲(あめのやへたなぐも)(おしわ)て、稜威(いつ)道別(ちわき)(ちわ)きて、日向(ひむか)(そ)高千穂峯(たかちほのたけ)天降(あまくだ)ります。

 既
(すで)
にして
皇孫(すめみま)遊行(いでま)(かたち)は、?日(くしひ)二上(ふたかみ)天浮橋(あまのうきはし)より、浮渚在平処(うきじまりたひら)に立たして、膂宍(そしし)空国(むなくに)を、頓丘(ひたお)から(くにま)行去(とほ)りて、吾田(あた)長屋
(ながや)笠狭碕(かささのみさき)に到ります。

 ここに登場する地名と地形は、福岡で確認できます。日向は、高句麗から見て南国の意味です。(そ)は粕屋郡須恵町で、高千穂峯(たかちほのたけ)は若杉山と考えます。南北に伸びる三郡山地の中ほどにある若杉山は、険しい姿がひときわ目立つ山です。見た目が高千穂峯にふさわしいと思います。

 神話には戦闘の様子が見られませんが、皇孫(すめみま)は敵の背後に回るために、この山に登ったと思います。

 若杉山の東にショーケ越えがあり、その南の砥石山の中腹に厄神社があります。ショーケは鐘馗(しょうき)だろうと考えました。疫病神を追い払う神です。そうするとここの地名には昔、鐘馗(しょうき)がこの峠を越えて,厄神社付近にいた疫病神を追い払った物語が、隠れていることになります。太祖の宮を鐘馗(しょうき)に見立てたのです。

 若杉山の頂上には太祖神社の上宮があり、北のふもとに下宮があります。青柳種信の『筑前国続風土記拾遺』によれば、太祖神社の祭神はイザナギです。ところが、下宮の鳥居の額には「神武聖皇帝」と書かれていたと言います。青柳種信はこれを大きな間違いと言いますが、間違いではないと思います。

 おそらく太祖神社の本来の祭神は神武天皇で、イザナギは後世の人が誤って祭神にしたのでしょう。この二人には最初の神(または天皇)という共通項があるために、間違えやすいのです。

 これを裏付けるように、厄神社のすぐ西に宇美町神武原(じんむばる)の地名があります。厄神社から神武原(じんむばる)にかけては、山中の高台に水田が開かれ、小さな集落もあります。神武原には国津神を祭る大山祇(おおやまつみ)神社があります。発掘すれば、先住民(出雲勢力)の高地性集落か城、あるいは戦の跡などが出そうな気がします。

 宮の一行は、槵
(くしひ)二上(ふたかみ)天浮橋(あめのうきはし)から出発したように書かれています。槵日(くしひ)はカシヒでしょう。福岡市東区の香椎(かしい)です。二上(ふたかみ)二上山(ふたかみやま)で、立花山をさしています。立花山は、香椎から見ると三上山(みかみやま)ですが、海の中道から見ると二上山(ふたかみやま)に見えます。天浮橋(あめのうきはし)は、志賀島(しかのしま)と九州本土をつなぐ海の中道です。海の中道の先端は、橋で志賀島とつながっていますが、干潮時には砂浜が現れると思います。子供の頃に、歩いて渡った記憶があります。

 宮は志賀島(しかのしま)に上陸し、立花山(二上山)を目標にして海の中道をとおり、香椎(かしい)へ向かったのでしょう。伝承では地名が、高千穂峯槵日二上天浮橋の順に登場します。これは天から降ったとしたための無理です。本当は逆で、海の中道から若杉山に向かったのです。

2若杉山

 宮は、香椎まで来ると兵を二手に分け、本体をそのまま宇美または須恵方面に向かわせました。自らは小隊を率いて多々良(たたら)川の川上に向かい、若杉山の頂上かショーケ越えに出たと思います。そのあとで、山上と宇美または須恵方面から敵をはさみ討ちにしたのです。神武原(じんむばる)がそのときの古戦場だと思います。

 
(あめ)八重(やえ)たな雲を押し分けて、とあるのは誇張ではありません。昔、篠栗から若杉山に登ったことがあります。中腹まで登って、一休みしたときでした。山のふもとから雲が湧いて、まもなく雲に包まれました。しかし雨にはならず、山上は晴れていました。おそらく宮の一行も同じ体験をしたのでしょう。宇美町原田(はるだ)に住んでいた頃には、三郡の山々の下半分が雲におおわれるのをよく見ました。この雲は、宇美中学校の古い校歌にもうたわれています。

 仰ぐ宝満 三郡の
 緑の山河 雲湧きて

 今にして思えば、
八雲(やくも)出雲はこの雲のことで、また粕屋郡の事だったと思われます。おそらく先住の王家かスサノオが山陰地方に移ったときに、出雲の地名を一緒に持っていったのでしょう。

とんぼの交尾

 ショーケ越えは面白いところです。多々良(たたら)川をさかのぼるとショーケ越えの裏側(東)に出ますが、峠を越えて須恵川を下ると、また多々良川の河口に戻ります。つまり、二つの川で輪ができています。宮は、この地形と気象を味方につけて、敵に気づかれることなく、その背後に回ったのです。ヒヨドリ越えの先例とも言える作戦でした。

 『日本書紀』の神武天皇31年の条によれば、天皇は丘の上から大和の地を眺め、アキヅのトナメ(とんぼの交尾)のようだと表現しました。これは、多々良川と須恵川が作る輪を、とんぼの交尾に例えたのです。丘は若杉山をさします。

 大和では、この丘は
御所(ごせ)市の国見山をさしますが、国見山もまた、曽我川と満願寺川が作る輪に囲まれています。

   妍哉乎(あなにや)、国を(え)つること。内木綿(うつゆふ)真?(まさ)き国と(いへど)も、(なほ)蜻蛉(あきづ)(となめ)如くにあるかな。

 太祖の用いた奇襲(きしゅう)攻撃には、道案内がいたはずです。『古事記』によれば、サルタビコ(猿田彦)が皇孫の道案内を努めました。この神は天八街(あめのやちまた)に居て、上は高天原(たかまがはら)を照らし、下は葦原中国(あしはらのなかつくに)を照らしたと言います。交通の要地にいて、中国・朝鮮半島と倭国にまたがって活躍したのでしょう。ここでは高天原(たかまがはら)は中国・朝鮮半島をさし、葦原中国(あしはらのなかつくに)は倭国をさします。

 
宗像(むなかた)市から筑豊地方にかけては、猿田という地名がところどころに残っています。この地方がサルタビコの本拠地だったのです。宗像地方は古くから、大陸と倭国を結ぶ海上交易の拠点の一つです。

 これよりのちサルタビコの子孫は、天皇家とともに全国に発展したと思います。粕屋郡を歩いても、サルタビコを祭った祠を多く見かけます。粕屋郡にもサルタビコの勢力が及んだことを示しています。

 宗像には、『古事記』に唯一紹介された三宮があります。宗像市田島に宗像大社の
辺津宮(へつみや)があります。大島に中津宮(なかつみや)があり、55キロ沖の沖ノ島に奥津宮(おきつみや)があります。

 さらに反対側を見ると、筑豊の最奥に英彦山(ひこさん)神宮があります。英彦山は修験道で知られた山です。英彦山(ひこさん)と宗像大社の中間には、飯塚市大門(旧庄内町大門)に大迦登(おおかど)神社があります。サルタビコの勢力は宗像から筑豊に及んでいるだけに、これも三宮だと思います。

 また、『筑前国続風土記拾遺』によると、宗像旧社と呼ばれる神社が二つあります。福津市
八並(やつなみ)許斐山(このみやま)を神体山とする的原神社と、福津市津丸の神興社(じんこうしゃ・神武神社)です。許斐山(このみやま)奥津宮とすると、的原神社が中津宮、神武神社が辺津宮にあたります。(↓一番下に追加説明があります。)

 あるいは、許斐山と的原神社が一体で奥津宮神武神社が中津宮、福津市宮司(みやじ)宮地嶽(みやじだけ)神社が辺津宮になる可能性もあります。この場合には、ノ島(あいのしま)にサルタビコの墓があるかもしれません。宮地嶽(みやじだけ)神社から海に向かって延びる参道の延長線上に、相ノ島があるからです。

3宗像

参考までに(2008・11・26追加)

 とんぼの交尾が地形を表すということは、私の発案ではありません。書名は忘れましたが、古田武彦氏が指摘しています。インターネットで調べたら、1994年に朝日新聞社から出版された『盗まれた神話』の目次に「トンボの交尾」や「由布院」という言葉がありますから、これかも知れません。ただし、1994年よりもっと前に読んだような気がしますから、別の本かも知れません。末尾の「34主な参考文献」には、一応この本を追加しておきました。

参考までにグーグルアース画像で山を紹介します。(2008・12・15追加)


  立花山を奈多方面から見たところ。
  二上山に見えます。

  立花山。三上山に見えます。
  手前は香椎駅。

  若杉山。奇しくも雲がかかったように見えます。
  右手の境界線が昇っている山は宝満山。
  手前は多々良川と香椎線の鉄橋。

 神興社についての追加説明 2009‐2‐6追加
   本文中で、神興社と神武神社を同じとしましたが、これには説明が必要です。現地を見ていませんので地図の上で考えていますが、神武神社から南へ600メートルほどのところに神興神社があるからです。

 神興社は南に開けた地勢にあると『拾遺』には書かれていますが、これは神武神社にあてはまります。このことから『拾遺』に書かれた記事には混乱があると見て、神興社と神武神社を元は同じ神社と考えました。それでは、どちらが本来の神興社かということになりますが、いつか現地を見てから考えます。おそらく神武神社がもとの神興社で、神興神社はその神宮寺の跡地ではないかと想像しています。社殿はどちらを向いているのでしょう。三宮を結ぶルートはどこでしょうね。気になります。念のためにインターネットの地図を見ると、両神社とも東側に入り口があります。しかし、神武神社だけが社殿をやや北に向け、的原神社の方を向いています。しかも道も通じています。的原神社は許斐山(このみやま)を向いています。予想通りのようです。

    もどる     つぎへ     目次1へ