宇美町神武原(うみまちじんむばる) |
博多駅北口のバスターミナルから、宇美町
上の原口はKの字状の交差点で、まっすぐ行けば、ショーケ越えから飯塚市に向かいます。右前方には、車一台が通れるほどの道が山に向かって伸びています。この細道は、おおむね須恵(すえ)と宇美の町界で、左が須恵、右が宇美です。
上の原口から700メートルほどで神武原(じんむばる)の集落があります。標高100メートルほどの高台に、水田と国津神の大山祇(おおやまつみ)神社があります。さらに1キロほど坂道を登ると、仲の原(なかのはる)の集落と厄(やく)神社があり、水田もあります。福岡の街と博多湾に向かってすばらしい眺めが広がります。
中学校の遠足では、上の原を通ってショーケ越えまで行き、そこから左側の峰伝いに若杉山に登ったことがあります。その時には気付きませんでしたが、山頂の少し下に太祖神社の上宮があります。若杉山には北の篠栗(ささぐり)から登るのが一般的で、篠栗側の上り口に、太祖神社の下宮があります。
江戸時代に福岡藩士青柳種信(あおやぎたねのぶ)種信が書いた『筑前国続風土記
太祖といえば、高句麗王の6代が太祖大王で、名前を宮(きゅう)と言います。宮は西暦53年に7才で即位したので、幼少時には母親が摂政を務めました。『後漢書』によれば、西暦121年秋に亡くなりました。7才で即位し、75才で亡くなったのです。これを日本の数え年に直すと、8才で即位して、76才で亡くなったことになります。この宮にかかわる数字は、『日本書紀』の神武天皇にかかわる数字と奇妙な一致を見せています。神武天皇は、日向を発って8年目に大和で即位し、治世76年に亡くなりました。
これは、宮にかかわる数字の意味を誤って伝えたのでしょう。しかも、宮の子は遂成(すいせい)と言いますが、神武天皇の子も綏靖(すいせい)天皇と言います。宮と神武天皇は同一人物で、遂成と綏靖天皇も同一人物と思われます。
『日本書紀』の紀年によれば、神武天皇の即位はBC660年ですが、この紀年は半年暦などによって引き伸ばされています。神武天皇と宮の時代は重なると思います。
若杉山 |
宮が神武天皇だとすれば、神武天皇の東征伝承は間違いで実は南征したことになります。そこで、『日本書紀』の中に、征服者の記憶が残っているかどうか探してみました。何度か神話を読むうちに、天孫降臨(てんそんこうりん)伝承の中に、九州北部征服物語が隠れていることに気づきました。その主人公の皇孫(すめみま)は神武天皇です。
天孫降臨は、『古事記』の伝承では意味が通らないほど記憶が壊れています。まるで山が崩れる瞬間を、ストップモーションできとめたような印象です。しかし、『日本書紀』では原形に近い姿が残っていて、かろうじて意味が通じます。そこでこれを紹介し、分析してみましょう。
既 |
宮の一行は、槵
宮は志賀島(しかのしま)に上陸し、立花山(二上山)を目標にして海の中道をとおり、香椎(かしい)へ向かったのでしょう。伝承では地名が、高千穂峯、槵日、二上、天浮橋の順に登場します。これは天から降ったとしたための無理です。本当は逆で、海の中道から若杉山に向かったのです。
宮は、香椎まで来ると兵を二手に分け、本体をそのまま宇美または須恵方面に向かわせました。自らは小隊を率いて多々良(たたら)川の川上に向かい、若杉山の頂上かショーケ越えに出たと思います。そのあとで、山上と宇美または須恵方面から敵をはさみ討ちにしたのです。
天(あめ)の八重(やえ)たな雲を押し分けて、とあるのは誇張ではありません。昔、篠栗から若杉山に登ったことがあります。中腹まで登って、一休みしたときでした。山のふもとから雲が湧いて、まもなく雲に包まれました。しかし雨にはならず、山上は晴れていました。おそらく宮の一行も同じ体験をしたのでしょう。宇美町原田(はるだ)に住んでいた頃には、三郡の山々の下半分が雲におおわれるのをよく見ました。この雲は、宇美中学校の古い校歌にもうたわれています。
仰ぐ宝満 三郡の
緑の山河 雲湧きて
今にして思えば、八雲(やくも)立つ出雲はこの雲のことで、また粕屋郡の事だったと思われます。おそらく先住の王家かスサノオが山陰地方に移ったときに、出雲の地名を一緒に持っていったのでしょう。
とんぼの交尾 |
ショーケ越えは面白いところです。
『日本書紀』の神武天皇31年の条によれば、天皇は丘の上から大和の地を眺め、アキヅのトナメ(とんぼの交尾)のようだと表現しました。これは、多々良川と須恵川が作る輪を、とんぼの交尾に例えたのです。丘は若杉山をさします。
大和では、この丘は御所(ごせ)市の国見山をさしますが、国見山もまた、曽我川と満願寺川が作る輪に囲まれています。
|
太祖の用いた奇襲(きしゅう)攻撃には、道案内がいたはずです。『古事記』によれば、サルタビコ(猿田彦)が皇孫の道案内を努めました。この神は天八街(あめのやちまた)に居て、上は高天原(たかまがはら)を照らし、下は葦原中国(あしはらのなかつくに)を照らしたと言います。交通の要地にいて、中国・朝鮮半島と倭国にまたがって活躍したのでしょう。ここでは高天原(たかまがはら)は中国・朝鮮半島をさし、葦原中国(あしはらのなかつくに)は倭国をさします。
宗像(むなかた)市から筑豊地方にかけては、猿田という地名がところどころに残っています。この地方がサルタビコの本拠地だったのです。宗像地方は古くから、大陸と倭国を結ぶ海上交易の拠点の一つです。
これよりのちサルタビコの子孫は、天皇家とともに全国に発展したと思います。粕屋郡を歩いても、サルタビコを祭った祠を多く見かけます。粕屋郡にもサルタビコの勢力が及んだことを示しています。
宗像には、『古事記』に唯一紹介された三宮があります。宗像市田島に宗像大社の辺津宮(へつみや)があります。大島に中津宮(なかつみや)があり、55キロ沖の沖ノ島に奥津宮(おきつみや)があります。
さらに反対側を見ると、筑豊の最奥に英彦山(ひこさん)神宮があります。英彦山は修験道で知られた山です。英彦山(ひこさん)と宗像大社の中間には、飯塚市大門(旧庄内町大門)に大迦登(おおかど)神社があります。サルタビコの勢力は宗像から筑豊に及んでいるだけに、これも三宮だと思います。
また、『筑前国続風土記拾遺』によると、宗像旧社と呼ばれる神社が二つあります。福津市八並(やつなみ)の許斐山(このみやま)を神体山とする的原神社と、福津市津丸の神興社(じんこうしゃ・神武神社)です。許斐山(このみやま)を奥津宮とすると、的原神社が中津宮、神武神社が辺津宮にあたります。(↓一番下に追加説明があります。)
あるいは、許斐山と的原神社が一体で奥津宮、神武神社が中津宮、福津市宮司(みやじ)の宮地嶽(みやじだけ)神社が辺津宮になる可能性もあります。この場合には、相ノ島
*参考までに(2008・11・26追加)
とんぼの交尾が地形を表すということは、私の発案ではありません。書名は忘れましたが、古田武彦氏が指摘しています。インターネットで調べたら、1994年に朝日新聞社から出版された『盗まれた神話』の目次に「トンボの交尾」や「由布院」という言葉がありますから、これかも知れません。ただし、1994年よりもっと前に読んだような気がしますから、別の本かも知れません。末尾の「34主な参考文献」には、一応この本を追加しておきました。
*参考までにグーグルアース画像で山を紹介します。(2008・12・15追加)
立花山を奈多方面から見たところ。 二上山に見えます。 |
立花山。三上山に見えます。 手前は香椎駅。 |
若杉山。奇しくも雲がかかったように見えます。 右手の境界線が昇っている山は宝満山。 手前は多々良川と香椎線の鉄橋。 |
神興社についての追加説明 2009‐2‐6追加 | |
本文中で、神興社と神武神社を同じとしましたが、これには説明が必要です。現地を見ていませんので地図の上で考えていますが、神武神社から南へ600メートルほどのところに神興神社があるからです。 神興社は南に開けた地勢にあると『拾遺』には書かれていますが、これは神武神社にあてはまります。このことから『拾遺』に書かれた記事には混乱があると見て、神興社と神武神社を元は同じ神社と考えました。それでは、どちらが本来の神興社かということになりますが、いつか現地を見てから考えます。おそらく神武神社がもとの神興社で、神興神社はその神宮寺の跡地ではないかと想像しています。社殿はどちらを向いているのでしょう。三宮を結ぶルートはどこでしょうね。気になります。念のためにインターネットの地図を見ると、両神社とも東側に入り口があります。しかし、神武神社だけが社殿をやや北に向け、的原神社の方を向いています。しかも道も通じています。 |