(邪馬台国と大和朝廷を推理する)      もどる   つぎへ   目次3へ

(Ⅳ 考古の巻 かぜはしる すずかにねむれ たけのみこ)
(十章 考古学との接点 33・34)

33-3埼玉稲荷山古墳について考えること

鉄剣の銘文

表(57字)  辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意冨比其児多加利足尼其児名弖巳加利獲居
 其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
解釈  辛亥年七月中、記す。オワケの臣、上祖の名は大彦。其の児、宝の宿禰。其の児の名は豊韓別。
 其の児の名は高橋別。其の児の名は田崎別。其の児の名はハテヒ。
裏(58字)  其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今
 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下
 令作此百練利刀記吾奉事根原也
解釈  其の児の名は笠原。其の児、名はオワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来たり今に至る。
 ワカタケル大王の寺、斯鬼の宮にありし時、吾、天下を左治す。
 此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記すなり。

解読

名前
仮名表記
読み
音訓混交
誤字あり
なまってるなあ
読み換え
誤字あり
漢字に変換
こんな感じ?
 
1  意冨比  オフヒキ  オホヒコ  大 彦  
2  多加利足尼  タカリソクニ  タカラスクネ  宝 宿禰  または 建 宿禰  己 コ。キ。おのれ。
3  弖巳加利獲居  てみカリワケ  テイカラワケ  豊韓 別  なんと、は国字。  已 イ。すでに。のみ。
4  多加披次獲居  タカシワケ  タカシワケ  高橋 別  披の誤記。  巳 シ。 ジ。 み。
5  多沙鬼獲居  タサキワケ  タサキワケ  田崎 別  
6  半弖比  ハテヒ  ハテヒ  ハテヒ  
7  加差披余  カサヒあれ  カサハレ  笠原  磐 → いわあれ → いわれ
8  乎獲居  オワケ  オワケ  オ 別  
                 
   獲加多支鹵大王 ワカタキロ大王 ワカタケル大王 雄略天皇説  (オオハツセノワカタケ) → 辛亥年 471年
   斯鬼宮 シキノミヤ 磯城の宮 欽明天皇説  (敷島の宮)        → 辛亥年 531年

系図

埼玉稲荷山古墳の鉄剣が発見された当時、早速この系図を作ってみました。

残念ながら、雄略天皇説も欽明天皇説もどちらも成立してしまいます。

どちらが正しいか。系図の比較からは判断できません。

 
 鉄剣の系図

   100年間に代なら

   オオヒコ
タカラトヨカラ──────タカハシタサキハテヒ───────カサハラオワケ


   100年間に4代なら

   オオヒコ
タカラトヨカラタカハシタサキハテヒカサハラオワケ


 天皇の修正系図

   崇神─┬─垂仁
      └─景行─┬─成務
           └─仲哀
              ├───応神─┬─仁徳───允恭─┬─安康
             神功      │               └─
雄略───清寧
                     ├─履中───押羽─┬─仁賢───武烈
                     ├─反正      └─顕宗
                     └─○○───○○───○○───○○─┬─継体──
欽明
                                                               ├─安閑
                                                  └─宣化

古墳

稲荷山古墳と大仙古墳の平面プランが似ているという

指摘があります。

ごめんなさい。指摘した人の名を知りません。


大仙古墳を雄略天皇陵とみれば、無理がありません。

主従関係ゆえの古墳の類似と思われます。

雄略天皇説が正しいかと思われます。
  全長(m) 前方部幅(m) 全長/後円径 前方幅/後円径
稲荷山 120 74 1.94 1.19
大仙 486 305 1.95 1.22
御廟山 186 119 1.96 1.25
 参考までに欽明天皇陵の候補は次のようになります。
  全長(m)  前方部幅(m)  全長/後円径 前方幅/後円径
平田梅山 310 210 2.07 1.40
見瀬丸山 140 110 1.87 1.47

須恵器

稲荷山古墳と大仙古墳からは須恵器が出土してお

り、年代判定の参考になります。


大仙古墳が雄略天皇(463~485)の墓なら、その

年代は5世紀後半になります。

須恵器の年代判定には、田辺昭三氏の編年(右)

がよく用いられています。


稲荷山古墳の主オワケは、雄略天皇のもとで手柄

を立て、471年に鉄剣を作ったと思われます。そ

の後6世紀初めまで生きたのでしょう。雄略天皇

よりも若かったか、長生きだったと思われます。


471年に30才だったと仮定すると、亡くなったの

は511年なら70才になります。


471年は、鉄剣を作った年と考えるべきです。死

んで埋葬された年は書かれていないので不明です。

これを混同してはいけません。


年表にすると、右の通りです。



注意 須恵器の年代観は多少大まかにとらえた方が

よいようです。確かなことは須恵器間の前後関係だ

けであり、年代観は他の資料との総合判断になるよ

うですから。


参考 この時代には、百済に武寧王(在位501523

というたいへん注目される王がいます。461年に日本

で生まれた王で、日韓の考古学の世界では、何かと

名前の出る王です。


参考まで2 須恵器の時代は金属製馬具なども年代

判定に利用されるようで、研究が進んでいます。

白井克也氏のサイト(考古学のおやつ)の管理人著

作集にこの時期の編年表が出ています。業績がここ

5世紀 TK73 TG232  
TK216 ON46 大仙古墳の須恵器はON46~TK208と判定されました。
TK208 MT84
TK23 KM1 稲荷山古墳の須恵器はTK23TK47と判定されました。
6世紀 TK47  
MT15(TK15)  
TK10    
TK43 MT85  
7世紀 TK209    
TK217    
TK46    
TK48    
8世紀 MT21    
  KM16  
  TK53  
TK7    
9世紀 MT83    
 
西暦 天皇  できごと 須恵器
       TK216
439 允恭天皇  
     
    誉田御廟山古墳
    允恭天皇の死
459 安康天皇  
462 雄略天皇   TK208
    乎獲居の活躍
471   稲荷山の鉄剣
     
    大仙古墳
485   雄略天皇の死
486 清寧天皇   TK23
491 顕宗天皇  
492 仁賢天皇  
497 武烈天皇  
502 継体天皇  
    このころ
510   稲荷山古墳 TK47
    乎獲居の死
523   百済武寧王の死
526 安閑天皇  
527 宣化天皇  
531 欽明天皇  
     

に集約されていることでしょう。通説になっていくのでしょうね。

考古学の着実な歩みは、今ここです。いざ謎の4世紀へ!

注意(2009・5・1)TK23は、年代を少し下げて考えてみましたが、少なくとも475年には始まるという資料もあるようです。

そうなると、大仙古墳からTK23の須恵器が発見されないと私の説は成立しません。将来出てくることを期待しましょう。

やっぱり、仁徳天皇陵の周辺は難問だなぁ。

真の仁徳陵、履中陵、反正陵、そして雄略陵はどれでしょう。難問です。次回は、これ、行きましょうか。

関連するウェブサイト

 項目  ウェブサイトのタイトル 
 埼玉稲荷山古墳  埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)
 埼玉稲荷山古墳の鉄剣  「埼玉稲荷山古墳」出土鉄剣について
 「TK23~TK47」の出てくるサイト
  萬維網考古夜話 77話 白井克也 宇宙人語風のコラム。博多の人かも。

開いたら下にスクロールして、右端の「編年表」をクリックすると、「目次」へ飛びます。

博物館の研究員だそうですから、変な人ではない変な人かも。

かなりできる人のようではあるのですが。

この人も、弥生時代中期の始まりをBC200にしてるんですよねぇ。どうかなぁ。

鎌田原遺跡の木槨木棺墓に気づいていないようですし。 (誰かの質問への答え2002)

勒島貿易と原の辻貿易 (論文に編年表がついて2001)

考古学のこれからに期待しましょう。この辺はまだ先の話ですよね。白井さん。

 TK23についての質問と答え  南河内考古学研究所、喫茶室での応答

南河内考古学研究所

 ランキング参加中 a戻る