(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅲ古里の巻  九章 名誉回復 (303132・33)
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32 大和神社と大神神社

名誉回復

 聖地移植を見ていると奇妙に思うことが一つあります。それは、邪馬台国には三宮があるのに、大和朝廷には三宮がないことです。たとえば、崇神天皇のための三宮は存在しません。勿論、以後の天皇の三宮もありません。大和朝廷の時代に作られた三宮ならあるかもしれませんが、たとえあったとしても、それは移植された聖地でしょう。

 これは異常な状況です。大和朝廷はその成立と同時に三宮を捨てたのでしょうか。もしそうだとしたら、なぜ三宮を捨てたのか。それが問題です。大和朝廷の成立直後に、何か宗教的に大きな事件のあったことが想像されます。精神的によほど大きな変化がなければこうはならないだろうからです。

 『古事記』の崇神天皇の条によれば、疫病が大流行して多くの人が死亡したときに、オオモノヌシ(オオクニヌシ)を三輪山に祭ったところ、疫病が治まったと書かれています。このとき祭られた神社は大神
(おおみわ)神社です。この事件を契機として、大和朝廷の内部に大きな変化が起こったと思われます。そこで、このとき作られた新しい神社について詳しく見ていきます。

 大神神社のご神体は三輪山そのものとされ、神殿はありません。拝殿があるだけだといいます。その拝殿の奥正面、三輪山との間にある鳥居は、三ツ鳥居という特異な形をしています。中国の廟の門に似た姿です。

 大神神社は中国文化の影響を受けた神社だと思われます。おそらく祭神のオオクニヌシは出雲王で、出雲王は徐福の子孫ですから、その神社に中国的な要素が表れたのでしょう。ただしオオクニヌシは、日向三代の顔を隠し持っていますから油断はできません。

 ともあれ、疫病の流行を出雲大神の祟りと考えた大和朝廷は、出雲大神を祭ることで危機を回避したと思われます。このときに、出雲王やスサノオの名誉回復が公式に宣言されたことでしょう。

 考古学者の間では、大和朝廷は一種の連合政権と言われることがあります。大和の古墳文化に地方文化の影響が見られることを踏まえた見解です。地方文化が中央に影響を与えたことは、出雲王の名誉回復と連動した動きだったと思われます。

 このような動きに押されて、三宮が廃止されたのでしょう。かわって、邪馬台国と出雲勢力をまとめる精神的支柱が求められることになりました。そこで選ばれたのがスサノオでした。

 スサノオには、もともと邪馬台国と出雲勢力双方の求心力になる要素が多々ありました。しかも、出雲から吉備へ移ったスサノオには、一つの変化が見られます。出雲の三輪神社には三宮があるのですが、吉備津神社には三宮がないことです。さらに尾張氏の初代を意識した墓作りをしています。これは時代の先取りと言えます。

 今日、京都を代表する祭と言えば、祇園際です。これは八坂神社の祭で、祭神の牛頭天王はスサノオの別名だといいます。スサノオは天皇家の一番遠い先祖である東明王の生まれ変わりですが、同時に邪馬台国と出雲の和合の象徴とも見なされました。それゆえ、八坂神社は京都を代表する神社になったのです。気が付いてみると、『源氏物語』の光源氏にもスサノオに似た一面があると思います。

龍王山

 『古事記』によれば、崇神朝の疫病流行の折、大神神社が創始されたと書かれています。しかし『日本書紀』によれば、初めアマテラスの神社と大和(おおやまと)神社を創始しようとして、大和(おおやまと)神社の創始だけは果たせませんでした。そこで翌年にあらためて、大和(おおやまと)神社と大神(おおみわ)神社が一緒に創始されたと書かれています。

 アマテラスを祭る神社はその後伊勢に移り、跡地が桧原神社や市杵島姫神社になったようです。なぜ、アマテラスの神社だけ伊勢に移ったのか。それが問題です。地図を確認すると、ここには新発見の高千穂峯があり、大和
(おおやまと)神社と大神(おおみわ)神社はその高千穂峯と一体の神社です。そこにヒントが隠れています。

 天理市と桜井市の境にある龍王山は、奈良で最後に見つけた高千穂峯です。周囲との位置関係を検討すると、大和神社と大神神社は龍王山の聖地と一体のものとして成立したことがわかります。

 龍王山は、北の布留川と南の巻向川に囲まれています。布留川は多々良川に対応し、巻向川は須恵川に対応します。龍王山は若杉山に対応し、巻向山は砥石山に対応します。三輪山から大神神社にかけては、宇美町神武原のあたりに対応します。

 大神神社の祭神はオオモノヌシで、オオクニヌシの別名とされます。この神社の祭主に選ばれたオオタタネコ(大田田根子)は、オオモノヌシの子とされます。大神神社が神武原に対応することは、国津神の大山祇
(おおやまつみ)神社に対応することであり、オオタタネコは出雲系の人物と思われます。『古事記』によれば、オオタタネコは三輪君や鴨君の先祖とされます。鴨君は鴨氏であり、物部氏の一族です。

 一方、大和神社は龍王山のふもと、天理市新泉町にあります。社殿はまっすぐ龍王山と向き合っています。この神社はトンボの交尾の内側にあり、神武天皇の墓にあたる志賀神社に対応します。立地の上からは神武天皇の聖地のように見えます。

 大和神社の祭神は倭大国魂神と言って、これもオオクニヌシの別名とされます。オオクニヌシは本来出雲の神ですが、同時に高天原の神でもあるという二面性を持っています。単純に出雲系とか高天原系とか決めるわけにはいきません。

 祭主に選ばれた市磯長尾市
(いちしのながおち)は、倭直(やまとのあたい)の先祖ですが、倭直(やまとのあたい)は椎根津彦の子孫です。椎根津彦はサルタビコの別名ですから、市磯長尾市(いちしのながおち)もまた物部氏の一族です。

 龍王山の聖地では、物部系の氏族が祭主になったにもかかわらず、三宮が作られませんでした。祭神はオオクニヌシですが、大神神社では出雲王を象徴し、大和神社では神武天皇を象徴するようです。これは、邪馬台国と出雲の和合を目指すと言う全く新しい目的を持って、両者の要素を取り込んだ新たな聖地が作られたことを示します。

 一方、アマテラスの神社は、いずれも多武峯を高千穂峯とする聖地です。大和神社や大神神社とは別系統の古いタイプの神社です。おそらくそのために、アマテラスの神社は新しく出現した聖域に遠慮して、伊勢に移ったのでしょう。伊勢に三宮がないのは、伊勢もまた新しいタイプの聖地だからでしょう。

 初め大和神社の創建に失敗したのは、三宮を作ろうとして失敗したのかもしれません。後に大和神社の神宮寺として長岳寺が建てられましたが、その北に龍王山の登山道が通っています。長岳寺は中津宮の予定地に建てられたと思われます。

   追記 2009・9・8~9・14
 大神神社はトンボの交尾の左岸側にあり、神武天皇の都に対応すると見ることもできます。
 大和神社はトンボの交尾の内側にあり、神武天皇の墓に対応すると見ることもできます。
 大神神社の周りには古墳がほとんどないのに対して、大和神社の周りには古い古墳が集中しています。しかも大和神社の周りには前方後方墳が多く(5基)、出雲系や物部系との関係が深いことが読み取れます。
 上津道を歩くと、このあたりは地面がやや盛り上がった地勢にあります。大和神社はカシの尾の上にあると表現でき、明らかに神武天皇の墓を意識しています。
 ただ、今の大和神社は社頭の案内板を見ればわかりますが、名前と場所はそのままで中身は別の神社です。本来の大和神社は崇神天皇の創建、祭主は市磯長尾市です。

 なお、出雲系や物部系の人々が前方後方墳を作ったのは、弥生時代の方形墓の伝統を引き継いでいるのでしょう。好みの問題だと思います。急には変われないのです。間もなく変わっていますが。
 『季刊邪馬台国78号』に掲載された遊佐和敏氏の論文「前方後円墳のデータベース」によれば、前方後方墳は島根・岡山と東国方面に多く、出雲系氏族の墓と考えられます。また、島根・富山・栃木の3県では、前方後方墳が最大の古墳であるようです。一般的に前方後方墳が前方後円墳より小さいのは、天皇家に対して出雲系氏族が格下であることの反映です。古墳の形に格付けはないと思います。

箸墓の伝説

 『日本書紀』の崇神天皇の10年の条によれば、オオモノヌシの妻のモモソヒメの墓を作って、その墓を箸墓と読んだといいます。モモソヒメは桃太郎のところで説明したとおり、クニアレヒメ(イザナミ)の娘ですから卑弥呼です。したがって、伝説の箸墓を記事のままに理解すると、卑弥呼の墓になってしまいます。しかし卑弥呼の墓は博多にありますから、箸墓は卑弥呼の墓ではありません。卑弥呼は台与と間違えられることがありますから、台与の墓と見るべきです。

 今、箸墓と言えば、桜井市箸中にある箸中山古墳をさすと見るのが通例です。以前はそれが正しいと思っていました。しかし今は、むしろ近くにある別の古墳のほうが箸墓(台与の墓)にふさわしいと思います。

 龍王山のふもとには古い前方後円墳が多数あります。その中で纏向
(まきむく)地区には全長100メートル前後の古墳が集中し、箸中山古墳だけが全長280メートルと飛び抜けています。卑弥呼の墓が径30メートルほどの古墳であることを思うと、台与の墓は全長100メートルほどの古墳がふさわしいでしょう。

 候補になる古い古墳は五つあります。勝山・石塚・矢塚・東田大塚・ホケノ山という五つの古墳です。いずれも出現期の前方後円墳です。この中のいずれかの古墳が台与の墓にふさわしいと思っています。あえて候補を絞るなら、勝山古墳です。ほかの四つの古墳の主軸が勝山古墳を指しています。邪馬台国の名残でしょうか。

 龍王山と宇佐の地図を比較すると、巻向川は寄藻川に対応します。巻向川右岸の纏向は、寄藻川右岸の宇佐八幡宮に対応します。したがって台与の墓(箸墓)は、宇佐の聖地に対応させて作られたと思われます。

 奈良における台与の都については、興味深い神社があります。それは、天理市石上
(いそのかみ)町の石上市(いそのかみいち)神社です。石上市神社と、天理市布留町の石上神宮を直線で結ぶと、その延長線上に山があります。仮に乙木山(布留山)とします。龍王山から北に伸びる尾根の一角を占める山です。これが台与の生前の神体山でしょう。石上市神社は小さな神社ですが、纏向地区と直線で結ぶと、中間の天理市福知堂町に平永大明神があります。これが中津宮でしょうか。現地を見ると、小さな祠でした。あるいは、すぐ近くの八坂権現が中津宮かもしれません。こちらも小さな祠です。

 この二組の三宮がおそらく最後に作られた三宮で、石上市神社が台与の都でしょう。石上市神社はトンボの交尾の右岸にありますから、宇佐市青森の加茂神社に対応します。しかし台与の死後、龍王山の聖地は三宮のない新時代の聖地として生まれ変わることになりました。石上市神社や平永大明神が小さくなったのは、そのためでしょう。

    追記 200999
平永大明神のことと思われる情報が見つかりました。
奈良寺社』というサイトにその情報はありました。
天理市永原町の御霊神社は、
「永原・福智堂・九条村の三村の氏神を嘉永年間以前に合祀したようです。
祭神は定かでは有りません。」ということです。
嘉永年間は、1850年代、江戸時代の終りに近い頃です。
平永大明神は、福智堂村のかつての氏神の跡地なのでしょう。
あるいは近くの八坂権現が福智堂村のかつての氏神でしょうか。
天理市永原町の御霊神社は、一度行ったことのある神社です。
祭神が不明なのは残念ですが、見つかってよかった。

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