(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅲ古里の巻  九章 名誉回復 (30・3132・33)
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31 出雲系氏族

物部氏の系譜

 出雲神話によれば、出雲王のオオクニヌシには二人の子がありました。そのうちコトシロヌシは国譲りを了承しましたが、タケミナカタはかたくなに抵抗しました。このことから、コトシロヌシは物部氏を象徴し、タケミナカタが出雲王(尾張氏)を象徴すると考えることができます。物部氏と出雲王はもともと同族だったようです。まず物部氏から見ていきます。

 『日本書紀』によれば、神武・綏靖・安寧の初期の三人の天皇は、コトシロヌシの娘や孫娘を皇后にしたといいます。このことも、コトシロヌシが物部氏であることを示しています。中でも、3代安寧天皇の皇后が、コトシロヌシの孫で鴨王
(かものきみ)の娘という記事は、重要です。安寧天皇の皇后は実は懿徳天皇ですから,懿徳天皇は物部氏出身の女帝と考えられます。また、コトシロヌシの家系に鴨王がいることも注目されます。

 また、コトシロヌシが物部氏であることを示す三宮もあります。橿原神宮は神武天皇の聖地で、多武嶺は中臣氏(藤原氏)の聖地ですが、中津宮にあたる飛鳥坐神社の祭神には、コトシロヌシと高皇産霊
(たかみむすび)命の名前があります。

 『古事記』や『日本書紀』によれば、物部氏出身と明記された女性が二人、皇后になりました。ウツシコメ(内色許売命)とイカガシコメ(伊迦賀色許売命)の二人です。ウツシコメは、孝元天皇(台与)との間に開化天皇を生んだとされます。これは孝元天皇を男性と間違えたための誤解です。ウツシコメと孝安天皇の間に開化天皇が生まれたとするのがもとの伝承でしょう。これでようやく、ホデミ(孝安天皇)の后のトヨタマヒメの別名が、ウツシコメ(物部氏)であることがわかります。

 イカガシコメは、孝元天皇との間にヒコフトオシノマコトを生み、開化天皇との間に崇神天皇を生んだとされます。ところが先に書いたとおり、ヒコフトオシノマコトは崇神天皇の別名です。したがってイカガシコメは孝元天皇自身であり、開化天皇との間に崇神天皇を生んだのです。これによって、孝元天皇(台与・アマテラス3世)とその父は物部氏だったことになります。『日本書紀』と『先代旧事本紀』によれば、イカガシコメの父はオオヘソキ(大綜麻杵命)です。アマテラス3世(孝元天皇)の父のタカミムスビは、物部氏のオオヘソキだったのです。

 図表45  物部氏の皇后(天皇)
3安寧

 ├―─5孝昭─┬7孝霊
4懿徳───  └6孝安
        
├――――8開化
             ├――10崇神┬11垂仁
      ウツシコメ  │    ⇓ └12景行┬13成務
─       └オオヘソキ──9孝元  ⇓     ⇓  └14仲哀
               ────-          
       タカミ―――イカガ――ヒコフト──◯◯──タケウチ
          ムスビ   シコメ  オシノマコト────ノスクネ

 宗像の三女神が宇佐から宗像に移ったのは、三女神が同族だから、物部氏の本拠地に移ったと思われます。福岡県の筑豊地方にはタカミムスビを祭る高木神社が目立って多いのですが、ここは物部氏の本拠地だから当然と言えます。

 奈良盆地においては、御所市で物部氏が目立ちます。南部の高台には高天という地名があり、高天彦神社にタカミムスビが祭られています。高鴨神社は、京都の上賀茂・下鴨両神社の本家筋にあたるといいます。平野部の鴨都波神社にはコトシロヌシが祭られ、西の葛城山に登る途中に鴨山口神社があります。鴨氏が物部氏とわかれば、京都の上賀茂・下賀茂両神社にワケイカヅチ(崇神天皇)とタマヨリヒメ(台与・孝元天皇)が祭られた理由も説明できます。タマヨリヒメ(台与・孝元天皇)が物部氏なのです。

97筑豊南部

93御所

尾張氏の系譜

 開化天皇によって東国に追われた出雲王の子孫がその後どうなったのか、それは『古事記』や『日本書紀』には明確には書かれていません。ところが『先代旧事本紀』の記事と突き合わせると、出雲王のその後がわかります。

 『先代旧事本紀』の巻5によれば、ニギハヤヒの子の天香語山命が尾張氏の祖とされます。しかし、尾張氏がニギハヤヒの子孫というのは事実に反します。尾張氏は、ニギハヤヒの旧主筋にあたるからです。

 天香語山の孫の天忍男とその子オキツヨソ(瀛津世襲命)は、孝昭天皇(イザナギ)の大連だったと書かれています。オキツヨソの妹のヨソタラシヒメは、孝昭天皇の皇后で、天足彦国押人(ツクヨミ)と日本足彦国押人(孝安天皇)の母だといいます。これは『古事記』や『日本書紀』にもある記事で、信用できます。大事なことは、孝安天皇の母なら、ヨソタラシヒメはイザナミにあたることです。尾張氏は出雲王なのです。そうすると、天香語山はナガスネヒコの別名となるでしょう。天香語山という名前は、天の香具山を連想させて興味深いところです。

 天皇家の系図と尾張氏の系図を比較すると、天香語山は神武天皇と同時代の人となります。出雲王のオキツヨソは子孫を残さずに滅びましたが、オキツヨソの伯父の天忍人が子孫を残して尾張氏になりました。この子孫から大海姫が出て、崇神天皇の后になっています。

 尾張氏の初代の名が天香語山であることは非常に意味深いことです。スサノオの墓が天の香具山に対応するところに作られたのは、偶然ではありません。母の先祖の天香語山を意識してのことでしょう。岡山ではスサノオの聖地に三宮がなく、スサノオの心に変化が生まれたことが読み取れます。それは、邪馬台国と出雲の和解を目指す変化だったと思われます。

 図表46  尾張氏と物部氏と天皇

(ニギハヤヒ)──天香語山─┐
             (尾張氏)
  ┌─────―─―─――
  └─天村雲┬─天忍人──◯◯────◯◯────◯◯───大海姫
          └─天忍男┬─オキツヨソ            
            └─ヨソタラシヒメ          
               │┌─7孝霊────◯◯─
1神武┬─2綏靖─天忍──└ ├┼─ツクヨミ────◯─大─
1神─
───―3安寧    │└─6孝安────◯─
1神武───―――├────5孝昭└─安ミ────◯─
1神└───―――────5孝昭└6├───――8開化───
  ┬─鴨王──4懿徳─────昭6│      ├──10崇神
  │└─◯◯───◯◯──◯◯┬─ウツシコメ  
  │──  ──◯◯──◯◯─└─オオヘソキ──9孝元
  └─────―─―─―┐        
(イカガシコメ)
               │
(ニギハヤヒ)──ウマシマデ─┘
(ニギハヤヒ)──(物部氏)

 尾張氏と物部氏が同族であるかどうかについては、広域対応の中にもヒントがあります。東海と九州を比較すると、三重県松坂市の嬉野と佐賀県嬉野市が対応し、鈴鹿市の椿大神社と佐賀市の金立神社が対応します。

 椿大神社は、サルタビコを祭る各地の神社の総本社とされます。三宮の痕跡も認められますから古い神社です。一方の金立神社は、徐福を祭る神社です。ただし、金立神社は金立山を神体山とする三宮制の神社ですから、出雲系というより、物部系(サルタビコ系)の神社です。金立神社のすぐ西に佐賀市の大和があることも、この地方が物部氏と縁の深いことを示します。

 これによってサルタビコもまた、徐福の子孫ということになります。したがって尾張氏と物部氏は同族と言えます。しかも出雲王の代わりに伊都王を立てたことから言っても、尾張氏は物部氏の旧主筋にあたります。あるいは、ニギハヤヒを徐福の子孫を象徴する架空の人物と見ることならできるでしょう。その子のウマシマデ(可美真手命)が実はサルタビコで神武天皇に味方した、と言うのなら話が収まります。尾張氏がニギハヤヒの子孫ということも認められないこともありません。

 ちょっと解説   先代旧事本紀

 『日本書紀』『古事記』などの記事を寄せ集めたものですが、「国造本紀」などの記事には独自の内容があります。

両面宿儺の伝承

 『日本書紀』の仁徳天皇の65年の条には、和珥(わに)臣の祖タケフルクマが飛騨国の怪人両面宿儺(りょうめんすくな)を退治した話があります。

   飛騨国(ひだのくに)に一人(ひとりのひと)(あ)り。宿儺(すくな)と曰ふ。其(そ)れ為人(ひととなり)、体(むくろ)を一(ひとつ)にして、両(ふたつ)の面(かほ)有り。面(かほ)(おのおの)相背(そむ)けり。頂(いただき)(あ)ひて項(うなじ)(な)し。各手足(てあし)有り。其(そ)れ膝(ひざ)有りて膕(よほろ)(くびす)(な)し。力(ちから)(さは)にして軽(かろ)く捷(と)し。左右(ひだりみぎ)に剣(つるぎ)を佩(は)きて、四(よつ)の手に並(ならび)に弓矢(ゆみや)を用(つか)ふ。是(ここ)を以て、皇命(みこと)に随(したが)はず、人民(おほみたから)を掠略(かす)みて楽(たのしび)とす。是(ここ)に、和珥臣(わにのおみ)の祖(おや)難波根子(なにはのねこ)武振熊(たけふるくま)を遣(つかは)して誅(ころ)さしむ。


 この話には興味を感じましたが、知らない土地の話ですからそのまま見過ごしていました。その後、原田実氏が『季刊邪馬台国・73号』で、連載中の「偽史列伝」にこの伝説を取り上げたのを読みました。そこに興味深いことが書かれていたので、伝説の起源を考えてみました。

 この伝承は以外に根が深く、起源は神武天皇の九州北部征服にさかのぼります。元の伝承者は出雲勢力、この場合は尾張氏の関係者と思われました。そこでこの伝承について考えたことを紹介します。謎解きのヒントは例によって、現代の地図の中に隠れています。

 『日本書紀』においては、凶悪な怪人とされた宿儺ですが、地元の飛騨や南の美濃地方では根強い信仰があり、今でも敬愛されています。両面様、両面僧都
(そうず)などと呼ばれ、両面宿儺を開基とする古寺が美濃や飛騨には多いといいます。このような宿儺信仰の中心地は、高山市東北部の千光寺です。千光寺には、宿儺を刻んだ円空仏が伝わっています。原田実氏は、円空仏について岡部伊都子氏の文章を引用しました。

   千光寺にある大きな宿儺の石像には、時代をこえてうけつがれた、住民の敬慕の念がこめられている。大和朝廷にとっては、許せぬ抵抗者であったが、その地方にとっては人の倍の力を持った、すぐれた人物だったのだ。飛騨を愛する心いっぱいに活躍していた貴重な存在だったからこそ、千六百年のちの今日まで、その名や像が守られているのだろう。円空が仏像を刻する熱情の中で、心をこめて両面宿儺を刻んだのもこうした土地感情に共感してのことに違いない。(梅原猛・岡部伊都子『仏像に想う・下』講談社、1974年)

千光寺山と位山

 原田実氏は宿儺に関する研究者の説をいろいろ紹介しますが、それらを呼んでも事情はさっぱりつかめません。しかし地図を見ると飛騨にもトンボの交尾の地形があり、聖地移植の跡を読み取れます。そこで伝承と地図を比べてみて、初めて意味がわかりました。

 飛騨における高千穂峯は、高山市にある千光寺の裏山です。名前を知らないので仮に千光寺山とします。千光寺山の北には荒城川が西に流れ、南では宮川の支流の小八賀川と、その支流の大萱川が西に流れています。千光寺山の周りにトンボの交尾の地形を確認できます。

 飛騨の地図を広げると、北部の神岡盆地にもトンボの交尾の地形があります。盆地の中ほどに観音山があり、そのまわりを吉田川と山田川が囲んでいます。観音山は高千穂峯と見られます。おそらく遠い昔は、この山は神岡と呼ばれ、神岡は神武天皇に由来する山名だったでしょう。後に仏教が入ると山は観音山に名前を変え、神岡は盆地をさす地名になったと思われます。

 このように飛騨の中心部だけでなく、奥地にまで高千穂峯が存在することは、邪馬台国の勢力が、意外なほど倭国の隅々にまで一気に及んだことを想像させます。邪馬台国による倭国統一はただの権力闘争ではなく、鉄器文明の導入をめぐる文明開化の要素が強いと思われます。ある時期を境に、鉄の威力が人々の心を捉えて歴史の流れが一気に変わったように思われます。明治維新に似ています。

 飛騨で注目すべきことは、千光寺が高千穂峯を背にして建つことです。これは、福岡の神武原に国津神が祭られることと似たパターンです。つまり、『日本書紀』の記事とは全く話が合いませんが、実は宿儺の正体は、神武天皇に倒された出雲王なのです。

 宿儺が仁徳朝の人物というのは全くの誤解です。思えば神武天皇は八幡神1世で、仁徳天皇は八幡神2世応神天皇の子です。誤解のもとはここにあるかもしれません。神武天皇が出雲王を倒したとき、神武天皇の子の綏靖天皇も大きな働きをしたことが、誤解のもとではないかと思います。

 神武天皇と両面宿儺が結び付くというのは一つの推理ですが、これを裏付ける伝承も残っています。飛騨国の一宮は水無
(みなし)神社で、高山市の南部にあります。神社の南方に神体山の位山(くらいやま)があります。この位山について、原田実氏は、廣田照夫氏の文章を引用します。

   高山市南方の位山について、南北朝時代の飛騨国司、姉小路基綱(1504年没)は自ら選んだ和歌集の裏書に、この山の主が「両面四手」であり、しかもそれが「神武天皇へ王位たもち給ふべき」神であったと記している。
(廣田照夫「異形の鬼神、両面宿儺の敗死」『歴史と旅』平成5年1月号、所収)


 地図を確認すると、千光寺山を福岡の若杉山に見立てた場合、位山は背振山に近い対応関係を示します。おそらく位山を背振山に見立てて、もう一つの高千穂峯にしたと思われます。千光寺山と位山は、もともと一体になって宿儺伝承を構成したのでしょう。

 このように見ると両面宿儺伝承もまた、聖地移植に基づく神話の一例となります。宿儺に二つの顔があったとする伝承は、出雲王の二面性として理解できるでしょう。出雲王もまた、一面では海外に開かれた顔を持ち、また一面では国内に開かれた顔を持っていたのです。

 最近、生駒山の裏側を自転車で走っているときに、竜田川沿いの道に千光寺と書いた手製の案内板を発見しました。後で地図を確認してみたら、生駒山の南の山中に千光寺がありました。生駒の千光寺は、飛騨の千光寺と縁のある寺でしょうか。

 生駒山は八尾の物部氏の高千穂峯ですが、生駒の裏側には龍田大社があって、龍田大社もまた生駒山を高千穂峯にしていることは先に書きました。龍田大社から見ると、生駒の千光寺もまた高千穂峯を背にした寺であり、飛騨の千光寺と同じ立地を備えています。

 両面宿儺の正体が出雲王であることは、生駒の千光寺を通じて、大和の人にも理解されたと思われます。古代の人々は我々の想像する以上に、地理や地形を認識し、把握する能力を持っていたのです。脱解王が学問をして地理にも精通したと言う伝承には、見過ごしにできない重みが感じられます。

98飛騨

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