(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅲ古里の巻  九章 名誉回復 (30・31・32・33)
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30 出雲のスサノオ(前)

新羅の脱解王

 東海の延烏郎はついに韓国に帰りませんでしたが、その子が韓国に渡って王になった可能性があります。その子は新羅の4代脱解王です。この王の生まれ育ちには、スサノオを連想させるところがあります。『三国史記』から王の話を要約してみましょう。

   脱解は昔、倭国から東北へ千里のところにある多婆那国で生まれた。その国王が女国の王女を迎えて王妃としたところ、妊娠して七年後に、大きな卵を生んだ。そこで王は、人でありながら卵を産むというのは不吉なことだから、捨ててしまいなさいと言った。しかし、王妃は捨てるに忍びず、卵を絹布で包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。

 金官国の人はこれを拾わず、辰韓の海辺に住む老婆が箱を引き寄せた。ふたを開けると一人の少年がいた。老婆は少年を育てた。

 やがて少年は魚を取って、母(老婆)を養うようになった。後には学問をし、地理にも精通した。王にも認められて王女を后にし、ついには王になった。

 多婆那国は、丹波国や但馬国を連想させる地名です。ここにいう倭国を九州北部と考えた場合、東北へ千里といえば、鳥取県付近になります。多婆那国の地名も道のりも、スサノオにゆかりの深い山陰地方を示しています。脱解が魚を取って母を養った話は、丹後の浦島太郎を連想させて興味深いところです。脱解は生まれてすぐに海に流されましたが、実はイザナギとイザナミも、最初の子を水蛭子(ひるこ)だからと言って、葦船に入れて流したといいます。あるいはイザナギがスサノオを嫌って、追い出したともいいます。

 スサノオと脱解王の一致点は、在位年代にも及びます。二人の在位年代を修正して比較すると、スサノオの退位した207年に、脱解王が即位しました。スサノオには新羅に渡ったとする伝承もあるだけに、二人は同一人物と思われます。

 しかし、退位して新羅に渡ったスサノオが脱解や水蛭子と同一人物とすると、話として不自然なところがあります。スサノオが即位したときには、イザナギもイザナミもすでに死んでいたはずで、即位後のスサノオに干渉することはないはずです。にもかかわらずイザナギがスサノオを追い出したとか、水蛭子を海に流したとか言う話が伝わっています。

 ここでは、死者の霊が現世に干渉すると言う信仰のために、話が混乱したと思われます。つまり、スサノオを嫌ったイザナギが、死んだ後も霊となって現世のスサノオに干渉したとする解釈が生まれ、その説が伝承されるうちに生前と死後の区別があいまいになり、話が混乱したと思います。

 景行天皇の在世中に、ヤマトタケルが兄を殺した話がありますが、これなども、霊の干渉という解釈が後に変質して、生前の話と死後の話との区別ができなくなったのだと思います。

大神山神社

 後に母を慕うようにして、スサノオが山陰地方にやってきました。スサノオはどこに都を定め、どこに墓を作ったのでしょうか。福岡と出雲地方を比較すると、海の中道が弓ヶ浜に対応し、博多湾が中海に対応します。粕屋郡の多々良川水系は、島根県安来市の飯梨川と伯太川に対応します。

 そこでまず、安来市の田園地帯を歩いてみました。しかし宝満山や若杉山のような存在感のある山は見当たりません。そのために焦点が定まらず、それらしい聖地も発見できませんでした。ところが日野川下流域の壺瓶山
(つぼかめやま)の周辺を歩いてみると、妙に景色が懐かしく感じられます。東南にはどっしりとした大山が見え、宝満山を連想させます。東に見える孝霊山は、三上山の姿をしていて、立花山に似ています。あるいは孝霊山は高くそびえていて、若杉山のようにも見えます。JR伯備線の車窓から見た壺瓶山の姿に惹かれて歩いてみたことが、正解だったようです。

 弓ヶ浜の付け根にあたる壺瓶山の周辺は、福岡では粕屋郡の北部に対応します。そして粕屋郡北部は奈良盆地北部、サホヒメ伝承の地に対応します。母の亡くなった場所で、しかも、古里の粕屋郡を連想させる日野川下流域には、スサノオの都や墓が見つかりそうな気がしました。

 地図を見てまず目に付いたのは、大神山神社です。祭神は大己貴命
おおなむち・オオクニヌシ)です。大山山頂のすぐ北に大神山神社(下山神社)があり、西北のふもとの米子市尾高にも大神山神社があります。ここには大山を神体山として、三宮が成立するように見えました。ところが尾高の大神山神社の案内板によれば、この神社はもと別の場所にあったといいます。以前は、大山の西の西伯郡伯耆町丸山にあったものが、米子市福万を経て、江戸時代に尾高に移ったといいます。尾高なら辺津宮として問題ありませんが、丸山を辺津宮とした場合、下山神社が北に外れるのが気に入りません。丸山の地は、辺津宮にふさわしくないと思われます。したがって、尾高の大神山神社は辺津宮ではないと思います。

92米子

三輪神社

 そこで、他に辺津宮の候補になる神社はないかと探したところ、米子市小波に三輪神社が見つかりました。祭神はオオクニヌシですから、大神山と同じです。そこは尾高の2~3キロ北になります。大山から尾高に下る途中に分かれ道があり、右へ行くと小波に出ますから、辺津宮として問題がありません。三輪神社の案内板によれば、昔の神社は1キロほど東南の三輪山丘陵にあったといいます。旧三輪神社は周辺五十村の氏神だったといいますから、かなり大きな神社だったようです。

 三輪山丘陵は、大山から北西に延びる尾根の一つが、壺瓶山にぶつかる手前で大地に沈むところにあたります。大山から下る道の途中にあります。丘の上は平らな台地で、北のほうへの見晴らしの良いところです。

 旧三輪神社は、スサノオの都の跡と思われます。ここを須恵の秋葉神社に見立てると、大山は宝満山に対応し、孝霊山は若杉山に対応します。トンボの交尾の地形はありませんが、景色の類似からそのように感じられます。壺瓶山はボタ山(畝傍山)に対応するでしょう。

 旧三輪神社から東北の方角に妻木晩田遺跡群を見通すことができます。遺跡群のふもとには武崎神社がありますから、遺跡を奥津宮とし、武崎神社を中津宮とする三宮のあったことも想像されます。これは、イザナミとその兄の鎮魂のための三宮でしょう。また、弓ヶ浜の中ほどにある夜見神社を中津宮とし、美保神社か三保神社を奥津宮とする三宮も考えられます。

 ここを御所市に置き換えると、孝霊山は国見山に対応し、妻木晩田遺跡群は玉手山に対応します。そうすると、遺跡のあたりは孝安天皇陵の比定地に対応します。遺跡には四隅突出方墳丘墓が多数ありますから、その中にスサノオの墓があるのでしょうか。それにしても、米子市に孝霊山があることは注目されます。博多で孝霊天皇の墓にスサノオが祭られることと、良い対照を見せています。神話によれば二人は仲違いをして別れましたが、その後、互いの誤解が解けたことを示します。

 また、三輪神社の西北には、大和郵便局や大和橋などがあって、隠れた地名は大和であるようです。一方、大和の三輪山のふもとでは、古代の地名が出雲庄でした。出雲と大和で、地名が逆転するところが面白いです。三輪神社の周辺は、粕屋郡を強く意識するだけでなく、大和をも意識した土地なのです。ここは昔、出雲の中心だったに違いありません。

93御所

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