出雲について考えるときに、いつも気になる遺跡があります。それは神籠石(こうごいし)と呼ばれる列石遺跡です。以前は謎の遺跡とされましたが、最近では7世紀の山城の跡とする見解が定着したようです。それでもなお気になることがあるので紹介します。
神籠石は九州北部を中心に分布し、九州以外では山口県と岡山県に一ヶ所ずつあります。九州では、福岡県に六ヶ所と佐賀県に二ヶ所あります。全部で十ヶ所ですが、情報が古いので十ヶ所です。最近の情報では、十六ヶ所あると聞いたことがあります。
佐賀県 |
武雄市 |
①おつぼ山 |
佐賀市 |
②帯隈山(おぶくまやま) |
福岡県 |
山門郡瀬高町 |
③女山(ぞやま) |
久留米市 |
④高良山(こうらさん) |
朝倉市 |
⑤杷木(はき) |
前原市 |
⑥雷山(らいざん) |
飯塚市 |
⑦鹿毛馬(かけのうま) |
行橋市 |
⑧御所ヶ谷 |
山口県 |
光市 |
⑨石城山 |
岡山県 |
総社市 |
⑩温羅遺跡(うらいせき) |
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神籠石は、神社や観音信仰と共存することがあり、聖域を囲むように見えることから、神籠石の名が付いたといいます。気になるのは、六ヶ所の神籠石(①~⑥)が宮(神武天皇)の征服地に重なることです。神籠石のあるところから、弥生時代の高地性集落が見つかることはないのか。あるいは、共存する神社や寺に、神武天皇や先住の王に関わる伝承が残ることはないのか。そんなことが気になっています。
たとえば、帯隈山神籠石の近くには、徐福を祭る金立(きんりゅう)神社がありますが、その伝承には神武天皇の姿と重なる部分があります。それは、徐福が北の山中に分け入ったことや、背振山の別名を金龍山と呼ぶことです。
雷山神籠石の近くには千如寺(雷山観音)がありますが、ここの聖地(寺)は仏教渡来以前からあると、住職が話していました。起源が古いのです。
高良山は、神籠石の名前が生まれたところです。高良山のまわりには、トンボの交尾の地形と久留米市諏訪野町という地名があります。筑後川支流の高良川と下弓削川とで高良山を囲んでいます。ここにも聖地移植がされたと見られます。
高良山の高良大社は筑後国の一の宮で、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)を祭神とします。高良玉垂命は他にその名を伝える記録がなく、謎の神とされます。しかしトンボの交尾の地形があることから見て、おそらく神武天皇の別名でしょう。
須恵川に対応する高良川の左岸には玉垂御子神社があって、須恵の旅石八幡宮に対応します。玉垂御子神社は野中町にありますが、その西隣に諏訪野町があります。玉垂御子というのは、幼少で即位した宮(神武天皇)を暗示する名前です。
現在では、玉垂御子神社と高良山の間に、高良下宮と高良大社があって四宮のようになっています。おそらく高良山と高良大社を一体的に見て奥津宮とするのでしょう。高良大社の北には、下弓削・上弓削という物部氏ゆかりの地名と高良という地名が一緒に並んでいます。高良は高麗で、高句麗をさすと思われます。
筑後川の流域はもともと出雲系の土地だったらしく、出雲系・物部系の聖地が点在します。佐賀市の金立神社や、福岡県八女市の川崎地区には徐福伝承が伝わっています。小郡市大崎には媛社(ひめこそ)神社があります。久留米市の西南の三潴(みずま)郡は、宗像三女神を奉祭した水沼君(みぬまのきみ)の本拠地です。
ちょっと解説 橘・立花・竜華・弓削
博多区の月隈丘陵に立花寺(りゅうげじ)という地名があります。このリュウゲという地名は大阪の八尾市にもあります。JR八尾駅の南側に竜華市場や竜華小学校があります。リュウゲは朝鮮語で発音するとユウゲになりますが、これが弓削(ゆげ・ゆうげ)という地名の起源でしょう。こう考えると、弓削は神話時代の立花に由来する地名だとわかります。
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その後、ヤマトタケル1世が筑豊から豊前地方を征服しました。そこには鹿毛馬神籠石と御所ヶ谷神籠石があります。邪馬台国の時代になると、山口県の玖珂盆地に狗古智卑狗がいたと思われます。玖珂盆地の南に石城山神籠石があるのは、狗古智卑狗ゆかりの神籠石でしょうか。
やがて邪馬台国の勢力は、東に進出して岡山県に現れます。岡山市の吉備津神社の伝承によれば、孝霊天皇の皇子大吉備津彦が温羅(うら)遺跡の鬼を退治したとされます。大吉備津彦は、岡山県の民話の桃太郎のモデルと言われます。『古事記』の孝霊天皇の条によってその系譜を図示すると、次のようになります。
図表44 大吉備津彦の系譜
孝霊天皇
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├―――――――――─┬─夜麻登登母母曽比売
│ │(やまととモモソヒメ)
意富夜麻登玖迩阿礼比売─ ─│
(おほやまとクニアレヒメ) ├─日子刺肩別
│(ひこさしかたわけ)
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├─大吉備津日子
│(おおきびつひこ)
│
└─倭飛羽矢若屋比売
(やまととびはやわかやひめ)
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この系譜のクニアレヒメは国生姫(くにあれひめ)で、国生み神話のイザナミをさします。孝霊天皇は孝昭天皇の間違いで、モモソヒメが実は孝霊天皇です。日子刺肩別はツクヨミで、大吉備津日子は孝安天皇です。この系譜はもともとモモソヒメ(孝霊天皇)の出自を示す系譜だったものが、子孫を示す系譜と誤解されたのでしょう。
出雲で亡くなったはずのスサノオ(孝安天皇)が、南に山を越えて岡山に姿を現したのです。そこで地図を確認しました。すると、ここにも聖地移植が認められました。温羅遺跡は神武原に対応し、その裏山が若杉山に対応します。
温羅遺跡は鬼ノ城(きのじょう)とも言い、高梁川と足守川に囲まれています。二つの川の河口は離れていますが、高梁川の水は倉敷川に取り込まれて旧児島湾に注いでいます。古代には倉敷川は高梁川の支流だった可能性もあります。足守川も旧児島湾に注いでいましたから、準トンボの交尾の地形が認められます。仕手倉山は天の香具山に対応し、吉備中山は畝傍山に対応します。吉備津神社は橿原神宮に対応します。
したがって桃太郎の民話は、天孫降臨の別伝という一面も持っています。おそらく神武天皇の記憶と孝安天皇の記憶が重なり、やがて桃太郎の民話へと変化したのでしょう。これもまた、多重説話のようです。それでも桃太郎がおばあさんに拾われたという話は脱解王と共通であり、幼児期に母をなくした孝安天皇(スサノオ)を連想させます。
岡山の地理を御所市に置き換えると、仕手倉山は玉手山に対応します。仕手倉山のふもとの王墓山丘陵には楯築古墳がありますが、玉手山には孝安天皇陵の比定地があります。となれば楯築古墳は孝安天皇(スサノオ)の墓と見てもよいでしょう。
楯築古墳は、径40メートルほどの不整円丘の両側に突出部の付いた中円双方墳です。墳丘の上にある大石は、大吉備津日子が鬼と戦ったときに盾にしたと伝承されます。墳丘の中央には楯築神社という小さな祠があり、そこに亀石と呼ばれる大石があるといいます。亀石には人面と弧帯文が彫刻されています。弧帯文は、古墳時代を特徴づける直弧文のもとになったとされています。楯築古墳には、スサノオの墓にふさわしい特徴が備わっているようです。
2010・5・16追記
むかし、総社市街を東西に貫流して、足守川に合流する川があり、高梁川の本流とされていたと言います。
この場合、楯築古墳(墳丘墓)はトンボの交尾の右岸側に位置することになります。これではスサノオの墓とはいえなくなります。スサノオの墓探しは、またも振り出しに戻ります。やっぱり、スサノオが最後の難問になりそうです。
それとも、仕手倉山を高千穂峯に昇格させましょうか。弱りました。
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桃太郎には姉がいます。竹取物語の主人公、かぐや姫です。かぐや姫は一生独身でしたが、卑弥呼も生涯独身でした。かぐや姫は求婚者に難題を与えて、大陸に使者を派遣させましたが、卑弥呼もまた中国の魏に使者を派遣しました。卑弥呼の伝承を基にしてかぐや姫の話が作られたとしても、不自然ではありません。
奈良県北葛城郡広陵町に竹取公園があります。ここは竹取物語ゆかりの地でしょうか。ここは古代には片岡と呼ばれたところです。西北の王寺町には、孝霊天皇の馬坂の陵の比定地があります。南の広陵町平尾にも孝霊天皇の墓を聖地移植した天照皇大神社があります。このような土地柄であれば、孝霊天皇(卑弥呼)の話が人々の間に伝承されて、それをヒントにある日かぐや姫の話を創作する人が現れたとしても不思議ではありません。