(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅲ古里の巻
 八章 出雲の謎 (27・28・29)
  もどる    つぎへ    目次3へ

29 細烏女の謎

平原遺跡

 細烏女は名前から判断すると、卑弥呼と同じく太陽崇拝に結びつく王女です。ところが日本神話には、細烏女にあたる女性が見当たりません。強いてあげれば、ニニギ(イザナミ)の后になったが、実家に帰されたことを恥じて自害したというイワナガヒメ(石長比売)がいます。

 細烏女は言わば忘れられた存在で、その住居や墓は知るすべがないと思っていました。ところが考古学の世界では、すでに細烏女の墓と思われるものが発掘されていました。福岡県前原市の曽根丘陵にある平原
(ひらばる)遺跡(平原王墓)です。

 柳田康雄氏の『伊都国を掘る』によれば、平原遺跡は昭和40年に果樹園造成中に発見されました。まもなく原田大六氏が中心になって調査し、当時大学生だった柳田康雄氏も調査に参加したといいます。調査の成果は原田大六氏が『実在した神話』に発表しました。原田大六氏は墓の被葬者を、天皇家の先祖の玉依姫と考えました。考古学的には、王墓の時代を弥生時代の後期後半(終末を含む)で2世紀前半としました。しかし柳田康雄氏はその後の成果を踏まえて、弥生時代の後期終末で200年頃の墓と発表しました。この年代観を信じるなら、細烏女の墓として不自然でありません。

 平原応募は径14メートルほどの小さな方形周溝墓ですが、墳丘を伴うといいます。鳥居や大柱の遺稿なども発見され、太陽信仰に関連づけて理解されています。この墓はまた大量の出土物で知られ、40面の破砕された銅鏡、素環頭太刀、勾玉、ガラス耳璫
(みみだま)等が出ました。特に銅鏡は、直径46.5センチの内行花文八葉鏡が五面分あります。この巨大な鏡は、『日本書紀』の神話に登場する八咫鏡(やたのかがみ)ではないかと見られています。

 内容を見ると、日本神話や古墳文化につながることは明らかです。柳田康雄氏は『伊都国を掘る』の中で、平原王墓の被葬者像を次のように書きました。

   平原王墓の被葬者としては、大型内行花文八葉鏡=「八咫鏡」とすると、「大柱」と太陽の門としての「鳥居」(太陽信仰)などを総合すると、実在論は別にして、神話の中の「天照大神」に象徴されるような性格の人物像が浮かび上がり、卑弥呼直系で直前の三世紀初頭に埋葬された倭国最高権威にある巫女王となるだろう。

 二世紀末、弥生伊都国最後の巫女王の死によって、その権威はより強大な権威となって卑弥呼に継承され、西日本の弥生時代が終焉を迎えるものと考えられる。

 柳田康雄氏は、原田大六氏の考えを引き継いで、伊都国がこの直後に大和に移って邪馬台国になったと考えました。そのために、このような表現になりました。しかし実際には、この後50年ほど九州邪馬台国の時代が続いたのです。

 また、柳田康雄氏は平原王墓の立地について、興味深いことを指摘しました。平原王墓は曽根丘陵の北西斜面にあって、北西の加也山と向き合い、東の三雲地区に背を向けています。これは一体なぜかと、問いかけます。あとで考えますが、この問いには、被葬者の謎を解く重要なヒントが隠れています。

 柳田康雄氏は、副葬の銅鏡が全て破砕されていることから、王墓の被葬者は悲劇の女王ではないかといいます。確かなことはわかりませんが、銅鏡をすべて破砕するほどの悲劇とは実家に帰されたことなのでしょうか。もしそうなら、王墓の被葬者は細烏女であると同時に、イワナガヒメでもあるでしょう。ただし、二人が同一人物となると、イワナガヒメは実は自害せずに200年頃まで生きたことになります。あるいは細烏女の悲劇とは、子供がなかったことでしょうか。

伊都国王女

 イザナギ・イザナミと並称されるイザナギに、実は細烏女というもう一人の后のいることがわかりました。その細烏女が延烏郎と並称されることは、大変重要な意味を持っています。一人であるべき皇后が二人いるように見えるからです。イザナミが出雲に帰ってしまった背景には、イザナミの不安定な立場が関連するのではないかと思われます。

 細烏女が伊都国に埋葬されたことを重視すれば、細烏女は伊都国の王女だったと考えられます。「魏志倭人伝」によれば、伊都国には代々王がいて、女王国に服属したといいます。王とされるからには、伊都王と出雲王は対等と考えることができ、イザナミと細烏女の力関係には微妙なものが生まれそうです。

 それにしても、邪馬台国の内部に伊都王のような王のいることをどう理解すればよいのでしょう。これは難しい問題です。そもそも伊都国は、神武天皇に征服されたはずではないのか。なぜ王として承認される必要があるのか。ここまで伊都国王についてはできる限り言及を避けてきました。それは、これが理解できなかったからです。しかしここに来て、謎解きのヒントが見えました。

 新王家は出雲との交渉にあたって、二つの考えを持って臨んだと思われます。一つは、出雲王家と婚姻を結んで和解することです。もう一つは、出雲王の後継者を別に勝手に擁立して、そちらと婚姻を結ぶことです。つまり、後醍醐天皇と対立した足利尊氏が光明天皇を擁立して、南北朝の時代になったことに似ています。南北朝に似たことが、イザナギの時代にも起こったのではないかと思うのです。かくして、伊都国に王が誕生したと考えます。

 普通なら二つの考えは両立せず、どちらか一方が採用されるはずでした。ところが何の手違いか、あるいはイザナギのわがままか、二つの策が同時進行して混乱し、二つの悲劇を生んだと想像しています。

 この事態に出雲側は反発しました。一度は成立した婚姻は破談となり、結局は新王家(邪馬台国)が出雲王家を滅ぼしたのです。ところが不幸なことに、イザナミから後継者のスサノオが生まれました。スサノオは複雑な環境で育つことになりました。

伊都王家

 さて、このように考えた場合、伊都王家はその後の大和朝廷のもとで、いかなる氏族として活躍したのでしょう。それが問題です。『日本書紀』や『古事記』を読んでも、朝廷の内部に伊都王家の子孫と思われる氏族は見当たりません。そこで、この場合も地図の中にヒントがないかと考えました。すると、三宮を持つ聖地が二つ見つかりました。

 まず一つ目。井野山の北西はひばりヶ丘の新興住宅地ですが、そこに日吉神社があります。社地は宇美町と志免町の境で、志免町側にあります。この日吉神社と宇美八幡宮を直線で結ぶと、中間点の井野本村に小さな神社があります。これを三宮と考えると、日吉神社が細烏女の聖地です。なぜなら、ひばりヶ丘には以前、観音浦古墳群と岩長浦古墳群があったといい、観音と岩長が、イザナギとイワナガヒメを連想させるからです。また、宇美八幡宮の古い絵図によると、井野山に唐山
(からやま)という別名があることも無視できません。井野山の南に唐山バス停がありますが、これは井野山をさしています。

 次に二つ目。糸島富士ともいう加也山の東に、日吉神社と油比神社が一直線に並び、油比神社の南には八幡宮と平原王墓が一直線に並んでいます。油比神社は、細烏女の住居跡と見ることができます。

44宇美

90前原
注意 2010年1月1日より前原市は志摩町・二丈町と合併して、糸島市になりました。
 

加也山(糸島富士とも言います。グーグルアース画像)

 二つの聖地を比較すると、油比神社は宇美八幡宮に対応し、加也山は井野山(唐山)に対応します。平原王墓は大谷の貴船神社に対応します。貴船神社がイザナギの墓であれば、平原王墓は夫恋(つまこい)の墓というべき位置にあります。それとも貴船神社が妻恋(つまこい)の墓でしょうか。

 注目されるのは、二つの聖地に日吉神社があることです。日吉は本来ヒエと読みますが、今はヒヨシと読まれることが多いと思います。日吉神社は全国にありますが、有名なのは滋賀県大津市の日吉大社です。

 『古事記』によれば、大山咋
(おおやまくい)神は日枝(ひえ)の山(比叡山)に坐(ま)すと書かれているのが、日吉大社です。日吉大社では、今は大山咋神と大三輪神が東西の本殿にそれぞれ祭られています。これは、伊都王と出雲王が近親者(同族)であることを暗示し、かつ両王家の間に和解が成立したことをも暗示します。

 大山咋神を祭る神社で他に有名な神社といえば、京都市西京区嵐山宮町の松尾
(まつのお)大社があります。この神社は秦(はた)氏の氏神です。しかも近くの京都市右京区太秦(うずまさ)には秦氏の氏寺、広隆寺があります。広隆寺を辺津宮と見れば、松尾大社を中津宮、松尾山を奥津宮として三宮が成立するように思われます。したがって、秦氏こそ伊都王家の子孫と思われます。

91京都

 秦氏は応神朝の渡来人と考えるのが通例ですが、これは、応神天皇と神武天皇がどちらも八幡神とされたことから生まれた誤解でしょう。秦氏の三宮がある以上、秦氏の起源は神武朝にさかのぼるとするのがもとの伝承で、実際には神武朝よりさらに古い時代にさかのぼります。

 秦氏が秦の字を自らの姓としたのは先祖の徐福が秦の出身だったからでしょう。朝鮮半島に徐姓の人がいることから見て、徐福は朝鮮半島を経由して倭国に来たと思われます。もしかすると、倭国に来たのはその子孫で、徐福は朝鮮半島で亡くなったとも思われます。

 なお、秦氏の三宮は大阪府寝屋川市にもあります。秦町の加茂神社と、八幡神社と、三井小学校前の小山が一直線に並んでいます。秦町の北の川勝町には秦河勝の墓と称するものがあり、秦町の東には太秦中町に熱田大明神があります。説明は後になりますが、加茂神社は物部氏の神社で、熱田大明神は尾張氏の神社でしょう。秦氏の居住地にこれらの神社のあることは、秦氏と尾張氏と物部氏が同族関係にあることを示すのではないでしょうか。

 ◯また宇美町の周辺では、観音浦・岩長浦のほかにも山中に浦の付く地名があります。浦田や持田ヶ浦などです。下宇美には、尾根の先端部に浦尻という地名もあります。尾根の先端部ですから、山尻と言い換えても違和感がありません。どうやらこれらのウラは、ヤマという意味のようです。中央アジアにはボグドウーラという山があり、ウーラが山という意味だといいます。このウーラが日本に伝わったのでしょうか。

 ついでに言えば、利根川なども朝鮮語で読み解くことができます。利根川は坂東太郎ともいい、東国(東海)を代表する河川です。東海江(東海川)と名づけても文句は出ないでしょう。東海江を朝鮮語で読むとトネガンになります。これがトネガワという名前の起源ではないかと思います。

 今では日本人は単一の民族だと思われていますが、本を正せば、複数の民族が混ざり合って日本人になったのに違いありません。だとすれば、大和言葉の中に、すでに外国語起源の言葉が混ざっていても何の不思議もありません。

  もどる    つぎへ    目次3へ