(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  序章 邪馬台国研究の系譜(12
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2 考古学の登場(前)

大和説の巻き返し

 大正11年(1922年)に、高橋健自が『考古学雑誌』に「考古学上より観たる邪馬台国」を発表しました。

 高橋健自は、卑弥呼が径百歩(140メートル)ほどの墳墓に埋葬されたことと、前方後円墳は大和で発生して東西に広がったことを結びつけ、また前漢境は九州北部で発見されるが、後漢鏡は近畿中心に発見されることを示して、邪馬台国大和説を主張しました。これより、邪馬台国大和説は、考古学を中心とする新しい時代に入りました。

 これに対して、文献史家の橋本増吉は、古墳の成立年代は不明であること、鏡の年代観は研究者の間で一致しないことを指摘して反論しました。

 大正11年には、笠井新也も「邪馬台国はヤマトである」を『考古学雑誌』に発表しました。笠井新也は、
投馬国を出雲国に比定し、上陸地点を敦賀(つるが)とする日本海航路を主張しています

 笠井新也は、その後も『考古学雑誌』に論文を発表し、卑弥呼をモモソヒメ(倭迹迹日百襲(やまととびももそひめ))に比定し、その弟を崇神天皇に比定しました。これは、258年に崇神天皇が亡くなったとする菅政友らの紀年論によっています。

 『日本書紀』の崇神天皇10年の条によれば、モモソヒメが夫の大物主神の正体(子蛇)を見たために、夫は三輪山に帰ってしまい、姫は箸で陰部を突いて亡くなりました。そこで姫を大市に葬り、その墓を箸墓と呼んだと書かれています。今は桜井市箸中にある箸中山古墳が箸墓とされています。全長およそ280メートル、後円部径およそ160メートルの出現期の前方後円墳です。

 笠井新也は、箸中山古墳の後円部径が百歩(145メートル)にほぼ等しいことから、これを
卑弥呼(ひむか)の墓と考えました。

 しかし最近は、箸中山古墳を
台与(とよ)の墓(3世紀後半)とする見解も出てきました。笠井新也の説は、そろそろ卒業でしょうか。箸中山古墳の周りには、全長100メートルほどのもっと古い前方後円墳(ホケノ山古墳など)がありますから、将来卑弥呼の墓の比定地はそちらに移ることもあり得ます。

 また、大正11年の『考古学雑誌』には、山田孝雄や三宅米吉も邪馬台国大和説を発表しました。

 昭和2年(1927年)には、志田不動麿が『史学雑誌』に「邪馬台国方位考」を発表しました。志田不動麿の大和説は、ユニークです。投馬国を
の浦に比定し、続く水行十日陸行一月を、水行すれば十日、陸行すれば一月と読んでいます。この読み方は、後に放射式読み方の重要な要素になりました。

中山平次郎

 中山平次郎は、九州医科大学(現九州大学医学部)の病理学教授でしたが、本業のかたわら遺跡の発掘を行って、しばしば「考古学雑誌」に論文を発表しました。江戸時代に、出土した古代遺物の詳細な観察記録を残した青柳種信とともに、福岡では考古学の先駆者とされています。

 昭和6年(1931年)に中山平次郎は、「邪馬台国および奴国に関して」を発表しました。中山平次郎は、初期の鏡剣玉(三種の神器)尊重の文化が福岡にあったことを示し、その年代を前漢から後漢のはじめ(BC1C〜AD1C) としました。

 そして、後漢中期以後の中国鏡は福岡で発見されないことから、鏡剣玉尊重の文化が東へ移動したと考えました。107年に後漢に朝貢した
倭面土国を、近畿に成立して間もない邪馬台国のこととしたのです。邪馬台国の前身は福岡の国で、神武天皇の東征伝承は、奴国東遷の史実を反映したものと考えました。

 中山平次郎の考えは、その後原田大六氏から柳田康雄氏に引き継がれています。しかし考古学の進歩によって、その年代観は大きく変化しました。奴国東遷を100年ごろとする年代観は、今では通用しません。柳田康雄氏は、東遷の時期を3世紀はじめとし、東遷の主体を
伊都国と考えています。

 しかし、柳田康雄氏の考えも、考古学の世界ではなかなか受け入れてもらえません。それは弱点があるからです。大和に前方後円墳を生み出した勢力は庄内式土器を使用しましたが、庄内式土器の時代に福岡には西新式土器という在地土器がありました。庄内式土器は近畿から福岡に持ち込まれたとされます。柳田康雄氏もこれを認めています。そのため、福岡から大和への権力移動は認めにくいようです。ただし、大和の纏向遺跡でも庄内式土器と弥生後期の土器が一緒に使われていたようです。変ですね。


 その一方で、大和の弥生文化と古墳文化には断絶があります。古墳文化は、むしろ地方の影響を受けています。大和の古墳文化には、山陽地方の特殊器台が持ち込まれています。四国地方の
積石塚の前方後円墳の影響を受けています。さらに、板石積竪穴式石室の源流は南九州にあるといわれます。東海地方の土器が大和に多く持ち込まれたことも確認されています。

 最近では、これらを総合的に見て、大和朝廷を一種の連合政権とする見解が浮上しています。考古学では、邪馬台国問題をひとまずおいて、大和朝廷の起源を探ろうとする立場もあるようです。


榎一雄

 邪馬台国への道をたどるには、文法的に正しい順次式を取るか、総行程一万二千里を取るかという二つの立場があります。一般的に大和説では順次式を取ります。九州説では本居宣長は順次式、白鳥庫吉は総行程を取りました。

 二つの立場は両立しません。元を正せば、陳寿の集めた情報に混乱があったのでしょう。そこで、解釈を工夫して両立を目指す人々が現れました。それは、元の正しい情報を復元する試みだったと思います。先駆者は久米邦武です。

 昭和2年(1927年)に安藤正直は、雑誌『歴史教育』に「邪馬台国は福岡県
山門郡にあらず」を発表しました。その中で安藤正直は、福岡県山門郡を伊都国として、国も不弥国も投馬国も邪馬台国も、伊都国を起点とする道のりが書かれているとしました。

 図表5  放射式読み方
 
帯方郡
  │ 東南へ七千里、沿岸を航行
  │
  └─
狗邪韓国
      │  南へ千里、海を渡る
      │
  
└─対馬国
      │  南へ千里、海を渡る
      │
  
└─一支国
      │  千里、海を渡る
      │
  
└─末盧国
      │  東南へ五百里、歩行
      │
      └─
伊都国───東へ百里、歩行──不弥国
          │││
          ││└─東南へ百里、歩行──奴国
          │└─┐
          │   │南へ、水行すれば十日
          │   │   陸行すれば二十日
          │   │(または千五百里・合計一万二千里)
          │  
邪馬台国
          │
          │南へ水行一月
         
投馬国

 これが放射式読み方の始まりです。

 昭和18年(1943年)には、藤田元春が『上世日支交通史』の中で、『唐(とうりくてん)』に陸行は一日に五十里とあることを指摘しました。

 以上の説に志田不動麿の「水行すれば十日、陸行すれば一月」という読み方を加えれば、榎一雄氏の放射式読み方が完成します。榎一雄氏は、昭和22年(1947年)に雑誌『学芸』に「魏志倭人伝の里程記事について」を発表し、翌年には雑誌『東洋史学』と『オリエンタリカ』に「邪馬台国の方位について」を発表しました。(榎一雄氏の放射式読み方は過去の研究者の成果をまとめたものというのは、邦光史郎氏の指摘です。ちょっと驚きでした。2010・6・9追記)

 榎一雄氏は、まるでパズルを解くように、総行程と日程記事を満足させる読み方を説明して、邪馬台国を福岡県山門郡に比定しました。さらに榎一雄氏は、昭和35年(1960年)に『邪馬台国』を書いて、邪馬台国東遷説を主張しました。邪馬台国東遷説は、邪馬台国の時代に大和に大和朝廷がなかったことを意味します。これは、大きな問題提起となりました。

 昭和27年(1952年)には、考古学者の小林幸雄氏が雑誌『ヒストリア』に「邪馬台国の所在論について」を発表して、次の三点を指摘しました。これは、邪馬台国と前方後円墳の関係を考える上で重要です。

  @. 大和の古墳開始が3世紀前半にさかのぼるかどうか、確言できない。
  A. 九州北部の古墳開始は4世紀である。
  B. あり(墓室)なしという「魏志倭人伝」の記事は、大和の古い古墳の構造と一致しない。

 このうち@は今も正しいと思います。Aは誤りです。柳田康雄氏は、大和と九州北部の古墳には同時代性があると言います。Bは大和では正しいと思います。たとえばホケノ山古墳は、出現期の前方後円墳で、石囲い木槨の中に木棺を納めています。木槨は棺を納める墓室のことです。つまり棺も槨もあります。しかし、九州北部では事情が違います。たとえば粕屋郡宇美町の光正寺古墳は出現期の前方後円墳ですが、主体部は箱式石棺墓で墓室がありません。棺あり槨なしの記事に一致します。

 したがって、大和の前方後円墳は、(とよ)の墓にはふさわしいとしても卑弥呼(ひむか)の墓にはふさわしくありません。卑弥呼の墓がもし前方後円墳であれば、光正寺古墳のようなものに違いありません。(とはいうものの、木槨木棺墓の古いものは、福岡県の筑豊地方で見つかっています。遠賀川上流にある嘉麻市(旧嘉穂町)の鎌田原遺跡です。弥生時代の中期前半とされています。こうなると、「あり(墓室)なし」という記事は、数少ない見聞に基づく魏使の事実誤認の疑いもかかります。2009・2・2追記。)

 今のところ、大和説と九州説のいずれにも壁があるようです。

 ちなみに、このホームページでは考古学に頼ることなく、日本建国史を追及していきます。ただし、考古学を無視するつもりはありません。勉強はします。ただ考古学には予想外の新発見が付き物です。古い考古学と共倒れになったりすると、泣くに泣けません。文献中心に追及した結果と、考古学中心に追及した結果が、将来合致すれば良いと考えています。10年先、50年先を見据えたいと思います。

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