2 考古学の登場(後)
最近の大和説 2010・5・17 追記 |
少し古いですが、北条芳隆氏のコラムを読みました。そこに小林行雄氏の年代観の定点が示されています。
10代の崇神天皇(3世紀末に崩御)
15代の応神天皇(4世紀末に崩御)
小林行雄氏は箸中山古墳を新しいと考えていたようですが、近藤義郎氏の指摘によって、箸中山古墳が最古の巨大前方後円墳として認識されるようになりました。1976年、宮内庁が箸中山古墳から採集した資料を公表して、箸中山古墳が最古という位置づけは確定したようです。
おそらくこのころから、大正時代に活躍した笠井新也があらためて注目されるようになりました。行燈山古墳を崇神天皇陵とみなせば、箸中山古墳を3世紀中頃あるいは後半に置けると期待されたのでしょう。そうすれば、箸中山古墳を卑弥呼の墓と見ることもできるというわけです。笠井新也の復活は、亡霊が唐突によみがえったようで薄気味悪く感じていましたが、これで流れが読めました。
しかし、大元の小林行雄氏の年代観にどんな根拠があるのでしょう。それがわかりません。はたして行燈山古墳が崇神天皇陵で間違いないでしょうか。これも、今はまだ答えが見つかりません。
ただ、年代観のずれは50年ほどですから、目くじらを立てるようなことではありません。森浩一氏によれば、考古学の年代観にはプラスマイナス50年ほどの判定誤差が付きまとうと言います。この言葉を信用しています。
大和説の実態は大和朝廷大和説だと、思われてなりませんが、アントニオ・ガウディのサグラダファミリアのように、ゆっくり行きましょうか。
宇佐説と徳島説 2010・5・15 追記 |
世間では邪馬台国といえば、九州説と大和説の対立がよく知られていますが、無視できない説として宇佐説と徳島説があります。
榎一雄氏は筑後説ですが、放射式読み方に素直に従った場合、宇佐にたどり着くというのが高校以来の私の考えです。
それでは順次式読み方に素直に従った場合、どこへ行き着くか。それは阿波の徳島です。この場合、投馬国を新居浜市(または四国中央市)とし、そこから先は「陸行すれば一月、水行すれば十日」と読みます。そして陸行一月は、榎一雄氏の解釈に従い、千五百里と考えます。
宇佐と徳島は、東に海がありますから、東に海を渡るとまた倭人の国があるという「魏志倭人伝」の記事によく合います。
「魏志倭人伝」の記事によく合うという点では、宇佐と徳島が二大横綱であり、これ以上の候補はありません。意外な盲点です。私も徳島は見過ごしていました。
邪馬台国の位置を考えるとき、「魏志倭人伝」の距離が誇張されているというのは、常識です。通常は4分の1程度に修正して考えます。あとは放射式か、順次式かという読み方などで、見解が分かれます。
このとき、卑弥呼の塚や各国の人口も誇張されていると考え、同じように4分の1程度に修正して考えるのがスジでしょう。卑弥呼の塚は145メートルほどの大きな古墳ではなく、35メートル前後の墳丘墓(古墳)と見るべきです。
大和説の最大の欠点は、大きな古墳に注目していることです。大和説の実態は、「大和朝廷大和説」になっています。朝廷の都はいくつもありますから、この先、自称「卑弥呼の都」がいくつも見つかって、収拾がつかなくなると予想されます。発掘情報には、あわてて飛び着かない方がいいと思います。慎重にね。
上の地図では、大和説の距離が遠いように見えますが、この程度のことは誤差の範囲だと思います。むしろ、天下の大道というべき瀬戸内航路ではつじつまが合わないところが問題です。
また、大和の東は山で、海ではないのも重大な欠点です。それは筑後説も同じです。大和説と筑後説は互いにライバル視して、まるで目くそ、鼻くその背競べという感じです。(あ、ごめん、言いすぎました)
頭を冷やして、宇佐と徳島を見直しましょう。
徳島へのルートはこちらの方が合理的・標準的です。 榎一雄氏の距離観に従えば、放射式読み方なら宇佐説、 順次式読み方なら徳島説が妥当だと思います。ちょっと近い? 山門説は近すぎます。誤差の範囲とは思いますが。 大和説は遠すぎます。誤差の範囲とは思いますが。 ついつい大和説につられていましたね。訂正。2010・6・12 |