出雲的地名群 |
名神高速道路の尼崎インターがある尼崎市名神町には、名和小学校や名和橋があって、名和という地名を残しています。伯耆国でも米子市の東に大山町名和があります。また、難波の入江に北から注ぐ川を猪名川といいます。尼崎市立花という地名もあります。
尼崎市名和の東には久々知という地名もあります。久々知は、狗奴国の狗古智卑狗を連想させる地名です。出雲の人々が住み着いた土地に久々知の地名があることは、出雲が狗奴国であることを思わせます。狗古智卑狗は、玖珂津彦とも菊池彦とも考えられますが、菊池が久々知に近いことから、菊池彦が有利と言えます。狗古智卑狗は卑弥呼と争った人物で、南九州にいて、東方の出雲勢力と同盟関係にあったと想像されます。
尼崎市から大阪市にかけては、出雲(委奴国)の人々が移住して、出雲や福岡の地名を移植したと思われます。出雲の人々が大阪に持ち込んだと思われる地名に、寝屋川市の仁和寺と守口市の佐太・大庭・淀江・八雲などがあります。この五つの地名は淀川の南岸に並んでいます。少し下流の豊里大橋には昔、平田の渡しがありましたが、平田も出雲の地名です。さらに、大阪市旭区には赤川、都島区には大東・毛馬(熊野)、吹田氏には高浜という出雲の地名があります。また、茨田(万田)も出雲にある地名です。
これらの出雲的地名群が淀川沿いにあることは注目されます。これは、アカルヒメを祭る神社が平野川沿いにあることと、合わせて考えるべきでしょう。大阪に出雲の地名群を移植し、アカルヒメの神社を建てた人々は、おそらく水運や交易に従事したのであり、そのために川沿いの地に広がり住んだと思われます。大阪商人の遠い先祖は、出雲の人々だったのかもしれません。
『日本書紀』によれば、比売語曽の社は難波のほかに、大分県国東郡の姫島にもあるといいます。宇佐市と粕屋郡を対比したときには、姫島は宗像の大島や沖の島に対応します。したがってこの点からも、アカルヒメは宗像三女神の一人で、イザナミの別名と考えられます。
東海の延烏郎と細烏女 |
アメノヒボコの渡来伝承に呼応して、韓国には延烏郎と細烏女の渡海伝承があります。『三国史記』と並ぶ朝鮮半島の古い歴史書である一然(いちねん)著『三国遺事』に、その話が出ています。金思燁(きんしよう)訳『三国遺事』で読むことができました。延烏郎と細烏女の条を要約してみましょう。
昔、東海の浜に、延烏郎と細烏女という夫婦があった。ある日、延烏郎が倭国に渡って、その王になった。そこで細烏女も夫の後を追って倭国に渡り、再会して貴妃になった。 ところがその後の新羅では、日月が光を失ってしまった。そこで王が使者を倭国に派遣して、二人の帰国を求めた。しかし二人は帰らず、代わりに細烏女の織った絹を使者に渡して、これで天を祭るようにと言った。使者の報告を聞いて王がその通りにすると、日月に光が戻った。その絹は国宝になった。天を祭った地は迎日県といい、また都祈野という。 |
辞書を引くと延烏郎は、イザナギを中国風、あるいは韓国風に翻訳した表現であることがわかります。
延の第一義は引くで、招くとか引き寄せると言う意味があります。いざなうと訳してもよいでしょう。烏はカラスです。昔、月にはウサギ、太陽には三本足のカラスが住むと考えられました。それで、烏は太陽を意味することがあります。郎は男性です。烏郎で、太陽の男性(ヒコ・アフキ)となります。したがって延烏郎は、韓国から見たイザナギ(アメノヒボコ)です。
『三国遺事』には、延烏郎が倭国に渡った理由が書かれていません。これを日本の伝承で補うなら、延烏郎のもう一人の妻であるイザナミが倭国に帰ったので、その後を追ったことになるでしょうか。それとも宇美の新居にイザナミを迎える為に、倭国に渡ったのでしょうか。
『日本書紀』によれば、アカルヒメが倭国に帰ったときに、ツヌガアラシト(ヒボコ)はそれを妻から聞いたといいます。これは、ツヌガアラシト(ヒボコ)にはアカルヒメのほかにも妻がいたことを示します。それが細烏女でしょう。細烏女は美しい太陽の女性、可愛日女(エヒメ)という意味になります。細烏女も、日本語の可愛日女(エヒメ)を中国・韓国風に翻訳した表現です。
◯『三国遺事』によれば延烏郎は、新羅の8代阿達羅王の4年に、倭国に渡ったとされます。阿達羅王の修正前の在位(154~184)は、一見、イザナギの時代と重なるように見えます。しかし、半年暦によって修正した在位(255~270)は、イザナギの時代とは一致しません。それではなぜ阿達羅王の4年に延烏郎の記事を置いたのか。それが問題です。その答えは、『三国史記』の阿達羅王の記事の中にありました。
阿達羅王の20年の条によれば、倭の女王卑弥呼が使者を送って来訪させたとあります。この年を年代修正すると265年になります。したがって卑弥呼は台与の誤りとすることは、すでに書きました。『三国遺事』の作者は、卑弥呼の記事の前史として、延烏郎の伝承をとらえたのではないか。そのために、年代不詳だった延烏郎の記事を、阿達羅王の治世の初め(4年)に設定したと言えないでしょうか。
阿達羅王の4年を修正しないで考えると157年ですが、この年はイザナギの母の懿徳天皇の元年にあたります。イザナギが活躍する年代には少し早そうです。しかしイザナギとイザナミの婚姻の話がこの頃に持ち上がったとするなら、それはないこともありません。後の世に、この年が、イザナギが倭国に渡った年と混同されたと言うのなら、少しは可能性があるかもしれません。