(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅲ古里の巻  八章 出雲の謎 (27・2829)
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27 イザナミの悲劇(後)

出雲の中の高天原

 オオクニヌシは、少なくとも日向三代と同時代の人物です。ところが『古事記』によれば、スサノオから7世の子孫がオオクニヌシとされます。ここでは、『古事記』の記事に無理があります。しかし、オオクニヌシの系図と天皇家の修正系図を対比すると、さほど無理な話でもないことがわかります。

 スサノオ──②───③───④───⑤───⑥───オオクニヌシ

 始祖東明──瑠璃──再思──神武──安寧──孝昭──孝安───開化

 『古事記』によればオオクニヌシはスサノオから7世の子孫です。一方の日向三代は、高句麗の始祖東明王から数えて6世・7世・8世の子孫になります。中でもスサノオ(孝安天皇)は、東明王から7世の子孫です。これによって出雲神話のスサノオは、実は東明王と同一視されたことがわかります。

 東明王は夫余の王室で迫害されたために、南に逃れて高句麗を建国したといいます。一方のスサノオもまた、高天原での迫害から逃れて東に移り、出雲国を再興したと見られたようです。これが、スサノオと東明王を同一視した理由でしょう。スサノオは、東明王の生まれ変わりと見なされたのです。言い換えると、スサノオもまたヤマトタケルと同じように複数いたことになります。

 出雲は昔から、国中の神が集まるところとされます。その理由は、スサノオ(東明王)が出雲に祭られたからと言えるでしょう。スサノオは天皇家の一番遠い先祖の東明王の生まれ変わりですから、スサノオのいる出雲に向かって、国中の神が集まるのです。日本の旧暦では10月は神無月
(かんなづき)と呼ばれます。この月には国中の神が出雲に出かけて留守になりますから神無月だといいます。当然ながら出雲だけは、この月を神有月と呼びます。

 朝鮮語では、高句麗の故地である高原地帯を蓋馬(ケマ)高原といいます。このケマが日本に伝わり、コマ(狛・高麗・許麻・巨摩)やクマ(熊・球磨・久万)になりました。島根県松江市の熊野大社はスサノオを祭っており、出雲大社の宮司が参向する行事もあるほどに、出雲大社との関係が深いといいます。ここの熊野もケマ野であり、高句麗をさします。祭神のスサノオは始祖東明であり、国中の神が出雲に集まるときには熊野大社を目指すと思われます。

 このように見ると、出雲神話の実体は、出雲の視点で見たもう一つの高天原神話と言えます。これは、クマ(高句麗)とソ(須恵)で南九州をさす言葉(クマソ)を作ったことに似ています。日本では、出雲と邪馬台国の名残が入り乱れて混在することが多いようです。

 さて、こうしてオオクニヌシが日向三代の別名だとわかれば、また一つの新事実に気が付きます。オオクニヌシは宗像三女神の一人を后に迎えたといいますから、宗像三女神の実体は日向三代の后だと思われます。宗像三女神の実体はイザナミと、ホデミの后のトヨタマヒメと、台与の三人をさすことになります。宗像三女神が初め宇佐に天降ったとされたのは、宗像三女神が台与を含むからでしょう。しかしその宇佐をアマテラス四代に譲って、三女神は宗像に移ったと思われます。

イザナミの悲劇

 スサノオの母で出雲の王女でもあったイザナミは、悲運の女性でした。『古事記』の垂仁天皇の条に書かれたサホヒメ(沙本毘売)の悲劇は、実はイザナミの悲劇ではないかと思われます。そこでそれを簡単に紹介しましょう。

   垂仁天皇の皇后になったサホヒメには兄のサホヒコ(沙本彦)がいましたが、サホヒコには天皇に対して謀反の心がありました。

 そのためにサホヒメは、板ばさみになって苦しい日々を送っていました。

 そしてある日、謀反が露見します。天皇がサホヒコ討伐の準備を進めるのを見て、サホヒメは兄のもとに帰ります。そして最後は天皇の放った炎に包まれて、兄と共に滅んでいったのです。しかしその前に、天皇との間に生まれた幼子は、天皇の使者に託して助け出しました。

 サホヒメが炎の中に滅んだことと、炎の中から幼子を助け出したこととは、炎の中で子を産んだイザナミやコノハナノサクヤヒメの姿を連想させます。先に景行天皇と孝安天皇は和風諡号が似ているために間違えやすいと書きました。その場合、二人の一代前の天皇も一緒に間違うことがあると思います。それで、垂仁天皇と孝昭天皇(イザナギ)を間違えたのでしょう。したがって、サホヒメもまたイザナミと同一人物だと思われます。

 サホヒメの子は、名前をホムツワケ(品牟都和気命)といいます。この名前の意味は、不弥津別
(ほむつわけ)つまり宇美津別(うみつわけ)と考えられます。この名前はホムツワケが宇美で生まれたことを示し、同時に父が孝昭天皇(イザナギ)であることを示します。

 『古事記』によれば、ホムツワケはひげが伸びて胸元に届く頃まで、物を言わなかったといいます。それは出雲大神の祟りだったと書かれています。この伝承は、ホムツワケの人生に、幼児期の体験が暗い影を落としたことを暗示します。統一戦争の最中という難しい時代の難しい家庭に生まれ育ったのです。

82米子

83熊野

イザナミの墓

 『古事記』によれば、イザナミの墓は出雲国と伯岐(ははき)国の境の比婆山にあるといいます。比婆山は日野川上流の、鳥取県と島根県と岡山県にまたがる山地をさします。このような山奥に墓があるというのは信じられません。しかし出雲と伯岐(ほうき・伯耆)の境と言う言葉には注目したいと思います。

 一方、『日本書紀』の神代上第五段第五の一書によれば、紀伊国の熊野の有馬村にイザナミを葬ったと書かれています。今は三重県に含まれる七里美浜の北部に小さな潟湖があり、その北に熊野市有馬があります。そこの花窟
(はなのいわや)神社にイザナミが祭られています。社殿はなく、高さ70メートルの巨大な岩が御神体とされます。これはもちろん本物の墓とは思えません。移植された聖地でしょう。地図を比較すると、出雲と紀伊でよく似た地形を確認できます。出雲から紀伊に向かって聖地移植がされたと思われます。

 熊野の七里美浜は、鳥取県西部の弓ヶ浜(夜見ヶ浜)に似ています。そして有馬の小さな潟湖が中海に対応するなら、有馬は松江市の島根半島に対応します。島根半島の美保神社は、花窟神社に対応します。

 美保神社の今の祭神はミホツヒメ(三穂津姫命)とコトシロヌシ(事代主神)ですが、この二神は本来の祭神ではないといいます。『出雲国風土記』によれば、オオクニヌシと越(
こし・北陸)のヌナガワヒメ(奴奈宜波比売命)との間に生まれたミホススミ(御穂須須美命)が美保神社の祭神だといいます。

 ミホススミがイザナミと同一人物なら、美保神社の近くにイザナミの墓があることになります。現在、それらしい墓は見つかりません。そこで境港市の対岸、福浦の三保神社も候補地に加えます。ただし、イザナミの亡くなったときの状況を考えれば、墓は初めからなかったかもしれません。

 福岡では、海ノ中道が弓ヶ浜に対応し、志賀島が島根半島に対応します。そこで、志賀島にイザナギの墓があると考えたことがあります。

  あなにやし、えをとこを。

  あなにやし、えをとめを。

 これは、イザナギとイザナミがであったときに、互いに相手を褒めた言葉です。二人の墓もこの言葉のように地理的に対応し、心ならずもイザナミを滅ぼしたイザナギの心が、このような妻恋の墓という形を借りて表わされたと考えました。実際には墓は作られず、代わりに出雲王を象徴する金印が埋納されました。

 近年、弓ヶ浜の付け根に近い、米子市と大山町の境にある丘陵地に、妻木晩田
(むきばんだ)遺跡群が発見されました。標高100メートルほどの丘の上で、弥生時代中期から古墳時代初頭にかけての高地性集落や四隅突出型墳丘墓などが発見されて注目されました。もしかしてイザナミは、ここで亡くなったのではないかと想像しています。このあたりは伯耆国ですが、神話の時代には、むしろここが出雲の中心だったのではないかと思います。

 妻木晩田遺跡群は弓ヶ浜南部の日野川右岸にありますが、ここは紀伊国では、七里美浜の南の熊野川右岸(新宮市)に対応します。新宮市には蓬莱山
(ほうらいさん)があり、徐福の墓碑があります。このことは、出雲王の聖地と徐福の聖地が対応することを示し、出雲王が徐福の子孫であることを暗示します。

 また妻木晩田遺跡群は、福岡では海の中道の付け根の三苫付近に対応します。そうすると三苫の綿津見神社は、イザナミの亡くなったところに対応します。綿津見神社は、イザナミの霊を慰めるために建てられたと思われます。

 三苫のある旧粕屋郡北部は、多武嶺を中心に見ると、奈良盆地北部の佐保川流域に対応します。これもまた、サホヒメがイザナミであることを示します。

 サホヒメは亡くなる前に天皇の問いに答えて、自らの後任に丹波(丹後をふくむ)の女性を指名したといいます。当時の山陰地方に、連合国家のようなまとまりのあったことが想像されます。気が付いてみると丹後の大江山の鬼伝説には、イザナミやサホヒメを連想させるところがあります。

追記 2009・9・14
イザナミの墓の伝承地が見つかったので参考までに紹介します。
『季刊邪馬台国62号』で出雲の特集を組み、その第1にイザナミの墓を取り上げています。
そのうちの第1候補が比婆山久米神社の奥の宮です。場所は島根県伯太町横屋、今は安来市伯太町横屋です。
本居宣長もここを訪ねて紹介しています。
知りませんでしたが、知っても、特に見解を変更することはありません。

地図はこちら。

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