水郷の東国三社 |
また、鬼怒川の下流にも有名な隠れた三宮があるので紹介します。それは、東国三社と呼ばれるもので、香取神宮・息栖(いきす)神社・鹿島神宮の三社をさします。この三社は、祭神に関連性があること、三社詣での習慣があること、一本の水上ルートで結ばれることなどから、本来は一体のもの、つまり三宮と認められます。
紀行作家の吉田茂氏が『歴史と旅・平成7年6月号』に書いた「利根川流域紀行」によれば、香取神宮の祭神は経津主(ふつぬし)神です。鹿島神宮の祭神は武甕槌(たけみかづち)神を主神とし、経津主神と天児屋根(あめのこやね)命を祭っています。息栖神社の祭神は岐神(くなどのかみ)を主神とし、天鳥船神・住吉三神を祭っています。岐神(くなどのかみ)は、鹿島・香取の大神が東国経営に赴いて来た時、それを補佐した神、天鳥船神はそれを先導した神、住吉三神は海上守護・漁業の神です。
鹿島神宮の代表的な神事は、12年毎の午年(うまどし)に行われる御船祭です。そのときには、香取神宮の北にある利根川の津宮(つのみや)の鳥居河岸(とりいかし)から、大神輿(おおみこし)が御座船に乗って出発します。この御座船の後を二千人もの供奉(ぐぶ)の人々が数十隻もの小船で追いかけるといいますから、さぞかし壮観な光景でしょう。
吉田茂氏は御座船の行く先を明記しませんが、息栖神社を中継点にして、鹿島神宮に向かうと思われます。香取神宮に天降った神を鹿島神宮に迎えるのであり、神事が終われば来た道をお帰りいただくのでしょう。したがって香取神宮は奥津宮、息栖神社は中津宮、鹿島神宮は辺津宮にあたります。
おそらく開化天皇が出雲勢力を追って関東まで来たことによって、この三宮が成立したと思います。その起源は北関東の三宮と同じく、邪馬台国の時代にさかのぼります。鹿島・香取の両神宮と並び称される神社も、現地に来てみると実は三社が一体であることを、この紀行文は教えてくれます。
しかし話はこれだけでは終わりません。利根川三社の神事を聖地移植の観点から分析すると、隠れた意味が見えてきます。
房総半島の南部は安房(あわ)国です。安房国はアフ国で、加羅国に対応しますから、房総半島は朝鮮半島に対応します。香取神宮は北の高句麗の都に対応します。一方の鹿島神宮は日立国にありますから、日向(福岡)の旅石八幡宮に対応します。那珂川は那珂川に対応し、那珂湊は博多(那の津)に対応します。筑波山は若杉山に対応します。桜川と恋瀬川が筑波山を囲んでいます。両神宮を隔てる利根川は日本海に対応し、息栖神社は宗像大社に対応します。
このように見ると、香取神宮から鹿島神宮へ向かう大神輿と、その後に従う二千人を乗せた船団は、朝鮮半島から倭国に向かう神武天皇の船団を連想させます。それゆえこの神事は、神武天皇に始まり開化天皇によって終結した、倭国統一を象徴する一大歴史絵巻となります。
追記 2009・9・9
1996年、長野県木島平村の根塚遺跡(弥生終末の墳丘墓)から、3振りの鉄剣が出土しました。
そのうち2号鉄剣には渦巻文の装飾があり、大塚初重氏と西谷正氏が伽耶(加羅)の鉄剣と判断されたようです。
(図20)。
のちに鉄素材の成分分析によって、3振りとも朝鮮半島製と確認されたようです。
この木島村には北鴨・南鴨という地名があり、物部氏の土地であるようです。
この地の物部氏が邪馬台国に協力し、オシホミミ(開化天皇)が鉄剣を下賜したと考えられます。
逃げる方も追う方も、つてを頼って東へ向かったのですね。
弥生時代にも全国的なネットワークが存在したのかもしれません。
そのネットワークによって情報が駆け巡り、弥生時代終末期に一気に倭国統一の機運が盛り上がった印象があります。
追記 2009・11・23
木島平の南に邪馬台国(トンボの交尾)を発見しました。