(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅲ古里の巻  八章 出雲の謎 (27・28・29)
  もどる    つぎへ    目次3へ

27 イザナミの悲劇(前)

スワとイナ

 地理的対応による聖地移植を調べると、予想以上に多くの成果が得られました。そこで今度は、出雲に関連する地名移植等についても調べようと思います。

 『古事記』によれば、タケミカヅチに追われた出雲勢力は、長野県諏訪市にまで逃げています。このスワと言う地名は、粕屋郡の須恵(日向の襲)が起源だと思います。ただし発音の上では、逆にスワが古く、スワが訛ってスエやソになったと思います。

 また、諏訪の南に隣接して長野県伊那郡がありますが、粕屋郡にも猪野があります。伊那郡の西隣は岐阜県恵那
(えな)郡ですが、粕屋郡では井野山の古い名前が可愛之山(えのやま)でした。諏訪も伊那も恵那も、粕屋郡に起源を持つ地名ではないでしょうか。東国に追われた出雲の王族にとって、これらの山中が最後の逃げ場になったのかもしれません。

 福岡の志賀島で発見された金印には、「漢委奴国王」と刻まれています。この印文は、普通は「漢の倭の奴国王」と理解されます。しかし本当の読み方は、「漢の委奴
(いな)国王」ではないでしょうか。猪野や伊那の地名は、委奴(いな)国の名残ではないかと思われます。

 スワに似た地名としては、山口県東部に周防
(すおう)国や佐波(さわ)川・佐波山があります。ここは出雲勢力の西の最前線と言えるところです。周防国の玖珂(くか)盆地は、狗奴国の官である狗古智卑狗の居たところかもしれません。狗古智卑狗は、玖珂津彦と解釈できるからです。諏訪も周防も、あるいは佐波も、出雲系の人々が古里の須恵をしのんで名づけたと思われます。

 ただし、スワを起源とする地名でも、邪馬台国勢力が名づけた地名もあります。たとえば、日向という地名が南九州に移るときに、一緒にいくつかの地名が南九州に移りました。宮崎県那珂郡や鹿児島県曽於
(そお)郡などです。ここのソオも、粕屋郡の須恵が起源でしょう。両県の県境には、高千穂峰と韓国(からくに)岳もあります。また、熊本県球磨郡の須恵村も北から移った地名です。

追記 2009・11・21
滋賀県犬上郡や愛知県犬山市もイナの仲間に加えたいと思います。
滋賀県犬上郡多賀町には聖地移植があり、愛知県犬山市では古い前方後方墳(東之宮古墳)が見つかっていて、無視できません。

 図表41  スワの変化

諏訪(すわ)┬周芳(すわ)─周防(すおう)┬須恵(すえ)
諏訪(すわ──周芳(──周防(すおう)─
訪(す わ──周芳───周防(すおう)─└曽於(そお)┬襲(そ)
 訪(すわ──周芳(すわ周防(すおう)─└─曽於(そお
訪( すわ─└娑麼(さば)┬佐保(さほ)──添(そう)―┘
訪( すわ)─└─娑麼(─
訪( すわ)─└─娑麼(─└─佐波(さわ)

79出雲系地名の移動


木の国と毛野の国

 出雲の神話には、出雲の人の心が反映していると初めは思っていました。しかし実際に読んでみると、それだけではありません。出雲は邪馬台国に吸収合併されたために、その神話には高天原神話がかぶさっています。出雲神話もまた多重神話でした。

 出雲神話の主人公であるオオクニヌシ(大国主命)は、その物語の中で二度死んで二度復活しました。三度目の死は書かれていませんが、三度死んだはずです。これはオオクニヌシが三代続いたことを示し、日向三代を連想させます。

 もしかするとイザナギ・スサノオ・オシホミミの三人が、別名をオオクニヌシと言うのかもしれません。本来ならオオクニヌシは歴代出雲国王を表わしますが、スサノオが出雲に来たときから、話が混乱したのでしょうか。それとも、イザナギとイザナミが結婚したときから、イザナギが出雲国王を兼任する形になったのでしょうか。

 出雲神話によれば、八十神
(やそがみ)の迫害から逃れるために、オオクニヌシが出雲を出て木の国に向かったといいます。この話の本来の意味は、福岡を追われたスサノオが、山陰地方に向かったと言うことではないでしょうか。

 出雲とは、もとは粕屋郡をさしましたから、木の国は山陰地方だと思っています。木の国は畿の国、つまり都のあるところではないでしょうか。木の国は読み替えだと思います。木の国はまた、狗奴
(くな・こな)国の語源でもあるでしょう。のちに出雲の人々が和歌山県に移住してから、そこを畿の国の思いをこめて、キノクニ(木の国・紀伊国)と呼んだのではないでしょうか。

 また、関東の鬼怒
(きぬ)川や毛野(けの)国も、おそらく出雲(木の国・狗奴国)の人々が持ち込んだ地名だと思います。毛野国は、のちに下野(しもつけ)国(栃木県)と上野(こうづけ)国(群馬県)に分かれますが、それぞれに二荒山(ふたらやま・ふたらさん)神社と赤城神社の三宮があることは注目されます。三宮は邪馬台国の遺制で、崇神朝の宗教的事件を境に、新たに作られることは無くなりました。したがって毛野国の三宮は、邪馬台国の人々がここに移住して残したものでしょう。

 二荒山神社の奥津宮は日光市の男体山です。中津宮は今市市
(いまいちし)文挟(ふばさみ)の二荒山神社で、辺津宮は宇都宮市街の二荒山神社です。今では忘れられた三宮ですが、三つの神社は一直線に並び、一本の道で結ばれています。赤城神社の奥津宮は赤城山(群馬県富士見村)の赤城神社です。その南に前橋市三夜沢の赤城神社と、同じく前橋市二之宮の赤城神社が、一直線に並んでいます。

 地図に残された毛野国や鬼怒川の地名と、二荒山や赤城山の三宮は、追われた出雲勢力と追った邪馬台国の勢力が、3世紀後半にはこの地に及んだことを雄弁に物語ります。

80関東
  ちょっと解説 ニコウからニッコウヘ

 二荒山神社の二荒を音読みにすると、ニコウになりますが、このニコウに別の良い文字を当てて生まれたのが日光という地名です。江戸時代の初めのことで、名付け親はさて、誰でしょう。天海和尚でしょうか。

 また、宇都宮市街の二荒山神社は蒲生君平ゆかりの神社だったような気がします。蒲生君平は江戸末期の学者で、前方後円墳の名付け親だったような気がします。うろ覚えで、どうもすみません。


 それにしても、青柳種信、本居宣長、新井白石、蒲生君平と、江戸時代の学者も結構頑張っていますね。
 

  もどる    つぎへ    目次3へ