天孫降臨の伝承が、実は神武天皇による九州北部の征服物語だったことからわかるように、神武天皇の東征伝承は、史実ではありません。奈良県に伝わった聖地移植の物語をつなぎ合わせて成立した架空の物語です。
おそらく、知らない土地や遠い土地の出来事として歴史を語るよりも、今住んでいる身近な土地に託して話を再構成したほうが、人々の興味もわき、記憶にも残りやすかったと思われます。そのために、あえて半ば架空の物語が作られたのです。これに信仰が結びつくと聖地移植になります。このことは、昔の人にとっては、知らぬ者のない常識だったでしょう。しかしいつの間にか、常識は失われてしまいました。
神武東征の伝承は、本来天孫降臨の別伝ですから、両者の間には共通点があるはずです。その共通点に着目すれば、神武東征の伝承がどのように再構成されたのかがわかると思います。神武東征の伝承をたどってみましょう。
『日本書紀』によれば、南九州の日向国を出発した神武天皇の一行は、まず速吸の門(はやすいのと)に至ります。速吸の門は潮流の早い海峡のことで、ここでは豊予海峡と見られています。ここで一行は、海人の椎根津彦の出迎えを受けました。椎根津彦は道案内として一行に加わりました。
道案内を得た一行は、宇佐に立ち寄り、菟狭(うさ)津彦と菟狭(うさ)津媛のもてなしを受けました。ここで神武天皇は、中臣氏(藤原氏)の祖の天種子命(あめのたねこのみこと)と菟狭津媛を結婚させています。
一行は宇佐を出発して、遠賀川河口の岡水門(おかのみなと)に立ち寄り、さらに安芸国(広島県)、吉備国(岡山県)を経て難波を目指しました。
史実では、高句麗の都を出発した神武天皇は、九州に向かって南征したのですが、聖地移植の結果、日向から大和への東征になってしまいました。しかも、九州北部にあるべき日向もすでに南九州に移っています。
日向から大和への東征と言う話の筋立ては、その後の邪馬台国から近畿地方への東征という史実の反映でしょう。もし神武東征の全てが聖地移植によって成立したとすれば、邪馬台国による大和や瀬戸内地方の征服物語が消滅してしまいます。それもまた不自然な話です。したがって神武東征の伝承には、日向三代による東征の記憶が重なっていると見た方がよいと思います。おそらく神武東征の伝承もまた、多重説話なのです。
神武天皇の道案内をした椎根津彦は、皇孫の道案内をしたサルタビコに対応する人物で、同一人物です。また、神武天皇が天種子命と菟狭津媛を結婚させた話も興味深いところです。皇孫がサルタビコを味方に付けたときにも、同じようなことがあったと思われるからです。
天種子は、アメノコヤネ(天児屋根命)の別名でしょう。鎌倉時代に書かれた『釈日本紀』によれば、天種子は雨のアメノコヤネの曾孫とされます。しかし史実は、神武天皇とアメノコヤネが同時代の人なのです。それなのに『釈日本紀』が天種子をアメノコヤネの曾孫としたのは、『日本書紀』の神話にすり合わせをして生まれた誤解に違いありません。
『日本書紀』の神代上第六段第三の一書によれば、宗像三女神は、初め宇佐に天降ったが、今は海北道中にいると書かれています。海北道中は宗像の三宮をさします。宇佐八幡宮には今も、筑豊とのつながりを示す行事がありますが、その筑豊は、宗像のサルタビコの勢力が強く及んだ土地柄です。したがって、神武天皇が宇佐や岡水門(おかのみなと)に立ち寄った話も、サルタビコの協力に対応する話として理解できます。おそらく、菟狭津彦もまたサルタビコの別名に違いありません。
日向三代の話が複数作られたように、天孫降臨の話(神武天皇の伝承)もまた、氏族ごとに複数作られたのでしょう。それらを一つにつなぎ合わせたために、サルタビコが椎根津彦や菟狭津彦に名前を変えて、何度も登場するのです。
図表40 釈日本紀の誤解
ニギ────ホデミ────ナギサ────神武天皇
↑ デミ────ナギサ────神武↑
(同時代)デミ────ナギサ────神武 (同時代)
↓ デミ────ナギサ────神武↓
天児屋根───◯◯◯────◯◯◯────天種子
|
|
|
さて、難波に着いた神武天皇は川をさかのぼり、河内国の草香邑(くさかのむら)、今の東大阪市日下(くさか)町に向かいます。そこから生駒山を越えて大和に入ろうとしますが、ナガスネヒコ(長髄彦)の抵抗を受けて、前に進めません。そこで太陽神の子孫が太陽に向かって戦うのはよくないと考えて、海路から熊野に向かい、そこから大和国の宇陀を目指して北上します。
ここに、天孫降臨との共通点の一つが顔を出しています。つまり、敵の背後に回る作戦です。宇陀と吾田(伊都国)は音が似ていることも、重要です。ただし、神武天皇が熊野を経由したとする点には、景行天皇(実は孝安天皇)の南九州遠征の反映が見られます。本来なら、紀ノ川から宇陀を目指したとすべきでした。熊野から宇陀に向かう途中に紀伊国に出たとする、やや奇妙な別伝がありますが、実はこれこそがもとの伝承の名残でしょう。
また、河内国の草香邑に対応するかのように、福岡にも、博多湾の入江に面して草香江の地名があります。史実における神武天皇もまた、草香江から粕屋郡に入ろうとして失敗したのかもしれません。
神武天皇が宇陀に入ると、そこには兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)という兄弟がいました。弟は神武天皇に味方しましたが、兄は敵対しました。その兄猾を倒し、神武天皇は高倉山に登って、周囲を一望しました。すると、八十梟師(やそたける)が国見丘に陣取って、奈良盆地に通じる道を塞いでいました。神武天皇は椎根津彦と弟猾に命じて、天の香具山の土を取って来させました。その土で祭祀土器を作り、祭りを執り行った後、八十梟師を討ち破りました。
ここに登場する国見丘という地名は大変気になります。御所市では国見山が高千穂峰だからです。そこで宇陀市の地図を開いてみると、高千穂峯が三つも見つかりました。一つ目は大神山で、芳野(ほうの)川と支流の大神川に囲まれています。二つ目は秋山(松山)で、芳野川と宇陀川に囲まれています。秋山のふもとは小さな城下町で、春日神社があります。三つ目は伊那佐山で、芳野川と内牧川に囲まれています。
この三つの山がみな高千穂峯です。三つの山の伝承をつなぎ、再構成した形で、宇陀の征討物語ができています。八十梟師のいた国見丘は伊那佐山か秋山で、兄猾のいた山は大神山です。弟猾はサルタビコの別名です。もとは三つの山に、それぞれ別名の出雲王やサルタビコがいたと思われます。
|