(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅲ古里の巻  七章 聖地移植 (23・24・25・26)
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26 畿内の邪馬台国(後)

大阪の邪馬台国

 ◯.大阪府枚方市を流れる天野川をさかのぼると、生駒山の裏側(東側)に出ますが、その途中の交野市(かたのし)私市(きさいち)の山中に、磐船神社があります。この神社にはニギハヤヒの降臨伝承が伝わっていて、その西北にニギハヤヒが天降ったという哮ヶ峰(たけるがみね)があります。

 哮ヶ峰
(たけるがみね)は天野川と妙見川が作る輪の中にあり、高千穂峯です。天野川支流の免除川は猪野川に対応します。免除川沿いに展開する機物(はたもの)神社と糸吉神社と交野山(こうのさん)を結ぶ三宮は、卑弥呼や台与の都に対応します。

 しかし哮ヶ峰は、四条畷
(しじょうなわて)市の逢阪の西北にある国見嶺と見なすこともできます。天野川を多々良川に対応させることは変わりませんが、須恵川には讃良(さんら)川を対応させます。国見嶺の少し下には打上神社があります。打上神社は別名を高良神社といい、福岡県久留米市の高良山や高良大社と対応関係にあるようです。(高良大社は、「30出雲のスサノオ」で登場します。)

 この場合、枚方丘陵は天の香具山や耳成山に対応します。畝傍山に対応するのは宮山です。ただし宮山は、今ではすっかり宅地化して、四条畷市岡山東4丁目になりました。旅石八幡宮に対応するのは国中神社です。その西北にある高宮神社は、志賀神社に対応します。

 国中神社はまた、宇美八幡宮に対応すると見ることもできます。その場合は、南の飯盛山は井野山に対応し、御机神社が頓宮にあたります。飯盛山という名前は、山の姿から来ています。国中神社から見るこの山は、ご飯を山盛りにした姿に似ているのです。

 ただし飯盛山は、権現川と寺川に囲まれ、姿も若杉山によく似ていて、もう一つの哮ヶ峰と見ることもできます。

77生駒山北部

 ◯.生駒山の西のふもとの石切剣箭(いしきりつるぎや)神社にも、ニギハヤヒが祭られています。生駒山もまた、哮ヶ峰であるようです。ここでは、生駒山の中腹にも石切神社の上の宮がありますから、石切神社は生駒山を神体山とする三宮制の神社だったと思われます。おそらく近畿でも一番古い神社の一つでしょう。

 生駒山の西南にある八尾市は、ニギハヤヒの子孫である物部氏の本拠地のあったところですが、そこには神武町や許麻
(こま)神社があります。ここも邪馬台国であるようです。地図をよく見ると、生駒山は若杉山に対応することがわかります。淀川と支流の天野川は多々良川に対応し、旧大和川と支流の竜田川は須恵川に対応します。神武町や許麻神社は旧大和川左岸にあって、須恵川左岸の旅石八幡宮によく対応します。

 また、生駒山には哮峰
(いかるがのみね)という別名があり、奈良県側でもやはり聖地です。竜田川左岸の生駒郡斑鳩(いかるが)町の龍田神社は須恵川左岸の旅石八幡宮に対応します。三郷町の龍田大社は志賀神社に対応します。

 『先代旧事本紀』によれば、ニギハヤヒをニニギの兄としますが、これは無理な話です。物部氏は、神武天皇の時代まで先祖をたどれると言うのが本当のところです。ニギハヤヒは神武天皇より先に大和に来たといい、サルタビコは朝鮮半島と倭国にまたがって活躍したことを思えば、物部氏も渡来人だったに違いありません。神武天皇より先に倭国に来た氏族だったことは間違いないでしょう。

 ◯.大阪平野の北部には、茨木川と勝尾寺川とでトンボの交尾の地形を形成しています。勝尾寺川が多々良川に対応し、茨木川が須恵川に対応します。鉢伏山が若杉山に対応します。茨木市佐保は須恵に対応し、吹田市山田は久山町山田に対応します。茨木市西安威にある大織冠神社(鎌足古廟)は、旅石八幡宮に対応します。

 鉢伏山の東では、竜王山が茨木川と安威川に囲まれています。また阿武山も、安威川と芥川に囲まれています。

 これらのトンボの交尾の地形の周辺には、アフ関連の地名が多く見られます。西から紹介すると、箕面市(
みのおし)粟生(あお)、茨木市の安威と太田、高槻市の阿武野と阿武山です。

78大阪平野

神祇官の中臣氏

 近畿では、高千穂峯の近くに藤原氏の神社が作られていることがよくあります。桜井市の多武嶺には談山神社を作り、藤原鎌足を祭っています。また、奈良市の春日大社は藤原氏の氏神です。奈良市西部の中町には大和国鹿島香取本宮神社があります。宇陀市の秋山の西のふもとには春日神社があります。この春日神社には五十猛(いたける)命が一緒に祭られていて注目されます。イタケルはタケミカヅチの別名ですから、一緒に祭られたのでしょう。そして茨木市には、大織冠神社があります。

 藤原氏は、鎌足のときに中臣氏から改正した氏族です。中臣氏は普通、大和朝廷の祭祀を司った氏族と説明されます。しかし具体的なことは知りませんでした。それだけに高千穂峯を独占する姿を見て、なるほどこれが神祇官かと初めて気が付きました。

 物部氏も石切神社を祭っていますし、御所市の国見山は、物部氏の聖地と思われる節があります。しかし何しろ中臣氏は、断然他を圧倒しています。おそらく物部氏のニギハヤヒと同様に、中臣氏のアメノコヤネもまた、神武天皇の九州北部の平定行に同行したことは間違いないでしょう。そのことを誇りとして、かくもにぎやかに高千穂峯の祭祀を独占したと思われます。

 とは言え独占はしましたが、よく見ると三宮のうちの一宮だけを中臣氏が占居しています。一宮を占めた物部氏が没落したために、中臣氏だけが目立つのかもしれません。

 『日本書紀』の景行天皇の12年の条によれば、豊後国平定の際に志我神・物部神・中臣神に祈ったと書かれています。志我神は、粕屋郡粕屋町の志賀神社の神で、神武天皇のことと思われます。

 この記事は、天皇家と物部氏と中臣氏の三氏が協力して、九州北部を平定したことを思い起こし、三氏の先祖に祈って助力を求めたことを伝えています。日本国の基礎は、この三氏が築いたと言う認識があったのです。

 生駒山と、八尾市久宝寺の許麻神社を直線で結ぶと、その中ほどの東大阪市出雲井町に枚岡
(ひらおか)神社があります。河内国一の宮で、藤原氏の氏神です。その祭神は、タケミカヅチ・フツヌシ・アメノコヤネ・ヒメガミとされます。春日大社と同じです。位置関係を考えると、枚岡神社は許麻神社の中津宮でしょう。この三宮には、物部氏・中臣氏・天皇家の三者の聖地がそろっています。これが本来の姿でしょう。

 奈良市の春日山の西には春日大社と率川神社があり、多武嶺と橿原神宮の間には飛鳥座神社があります。これらももとは三宮だったと思われます。今は注目されることの少ない率川神社や飛鳥座神社は、かつては物部氏の神社だったのではないかと思います。昔は、天皇家と物部氏と中臣氏の聖地を結んで、高千穂の三宮を構成したのだと思います。

和歌山の邪馬台国

 当然ながら、聖地移植は和歌山にも及んでいます。和歌山市の岩橋(いわせ)千塚古墳群を調べていて気が付いたので、遅まきながら紹介します。

 和歌山市では、和歌川と和田川が大日山を囲んでいます。これがトンボの交尾の地形です。大日山は高千穂峯にあたります。

 トンボの交尾の左岸側にある竃山(かまやま)神社は、神武天皇の都にあたります。この神社には神武天皇の兄の彦五瀬命の墓があるとされていて、宮内庁が陵墓指定しています。

 トンボの交尾の内側には日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮があり、神武天皇の墓にあたります。ここには和歌山県最古という秋月1号墳があります。おそらく秋月1号墳の被葬者は、この場所にこういう意味があることをよく知っていて、ここに自らの墓を造ったのでしょう。

 和歌山市の地図はこちら。

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