(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅲ古里の巻  七章 聖地移植 (23・24・25・26)
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26 畿内の邪馬台国(中)

奈良の邪馬台国

 ◯.次に、神武天皇は磐余(いわれ)の磯城彦の征討に向かいます。磯城彦は兄磯城(えしき)と弟磯城(おとしき)の兄弟で、弟は神武天皇に味方し、兄は敵対しました。兄が敵対して、弟が味方するのがお定まりのパターンです。何度も繰り返し現れます。弟磯城もまた、サルタビコの別名です。

 兄磯城征討にあたっては、椎根津彦(サルタビコ)が一つの作戦を提案しました。それは、敵を忍阪
(おしさか)の山中に誘い出し、挟み討ちにするというものでした。神武天皇はこの作戦を受け入れて、兄磯城を倒しました。まず、小隊を山上から忍阪方面に進出させて、敵を誘い出しました。そのすきに、本隊が墨阪から初瀬を経て、忍阪方面に回りこみ、挟み討ちにしたのです。

 ここに見る挟み討ちの作戦は、天孫降臨の挟み討ちを聖地移植したものと考えて、地図を確認しました。すると変則的ながら、笠間山を中心とする、準トンボの交尾と言える地形を確認できました。

 忍阪は須恵に対応し、粟原
(おおばら)川は須恵川に対応します。粟原はアフ原の訛りで、地理的には神武原に対応します。初瀬川と支流の吉穏川は多々良川に対応します。宇陀川の支流の笠間川は、多々良川の上流部に対応します。笠間山は若杉山に対応し、笠間峠はショーケ越に対応します。天の八重たな雲に対応するような記事はありませんが、笠置山地は南から北に流れる雨雲の通り道です。笠間山や三輪山は、雲間に隠れることが多いように思います。

 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情
(こころ)あらなむ 隠そうべしや  (万葉集18)

 この兄磯城との戦いは、東征伝承の一つのハイライトです。兄磯城の大軍が群集していたところを磐余邑
(いわれのむら)と名付けたという地名説話も登場します。桜井市の粟原(おおばら)や粟殿(おおどの)という地名は、アフ・神武天皇に由来します。磐余邑は飛鳥の別名と考えることができ、粟原や粟殿を中心とする地域をさすと思われます。ただし、古来の磐余は粟原川の左岸で、粟原や粟殿よりやや西側にあります。

 また、大軍が「群集
(いわめ)り」からイワレの地名が付いたと言うのは、「古事記」によくある駄洒落の一つです。神武天皇の和風諡号はカムヤマトイワレヒコといいますが、その意味は、邪馬台(やまと)の大元(いわれ)の彦神です。この大元彦(いわれひこ)にちなんで、磐余の地名が付けられたのです。

 『季刊邪馬台国・82号』に紹介された昭和15年の『神武天皇聖跡調査報告』によれば、宇陀市の宇陀川左岸、岩室と西山にまたがる丘陵付近に、賊軍討伐の伝承とイワレの地名があるといいます。そこは、粟原川左岸の磐余に対応し、また飛鳥川左岸の橿原神宮にも対応します。

   粟殿(おおどの) 桜井市粟殿は、敷島という地名と重なっており、欽明天皇の敷島の宮に由来すると見た方が良いかも。

 ◯.次に神武天皇は、鳥見(とみ)のナガスネヒコを討伐しました。しかし、これは話の重複です。笠間山の東北に鳥見山があり、笠間山の西にも鳥見山があります。これによって、笠間山の北から西の一帯が鳥見の地と思われます。したがって鳥見と磯城は同一地域といえます。ならば、忍坂で兄磯城を破った戦いこそが、鳥見でナガスネヒコを破った戦いとなります。

 ただし、桜井市の鳥見山を高千穂峯と見ることもできます。粟原川と寺川が鳥見山を囲んでいるからです。その場合、寺川は須恵川に対応し、寺川流域こそ磐余にふさわしいと思います。古来の磐余も正確に言うと、寺川左岸になります。しかも、磐余の中心の阿部(アフ)には、八幡神社があります。それぞれ旅石八幡宮と志賀神社に対応します。

 いずれにしても、ナガスネヒコは兄磯城の別名です。ナガスネヒコには妹がいて、ニギハヤヒに嫁いでいたといいます。したがってナガスネヒコは、ニギハヤヒの義兄にあたります。義弟のニギハヤヒが神武天皇に味方したことは、弟猾や弟磯城が神武天皇に味方したことに対応します。ニギハヤヒもまた、サルタビコの別名なのです。ナガスネヒコは、宇美町神武原で滅んだ出雲王にあたります。

   *鳥見山 20091031追記
 29日に桜井茶臼山古墳の現地説明会に行ったついでに磐余地区を歩き、今日(30日)も歩きました。私の理解には、少し訂正が必要のようです。
 鳥見山が高千穂峯であることは間違いないと思います。
 桜井市谷の石寸(いわれ)山口神社と、桜井市桜井の等弥(とみ)神社と、鳥見山が一直線に並んでいます。石寸(いわれ)山口神社が旅石八幡宮(神武天皇の都)に対応します。石寸(いわれ)山口神社には大山祇神が祭られ、等弥神社には猿田彦が祭られています。出雲系と物部系の神社です。
 神武天皇の墓に対応するのは、何と桜井茶臼山古墳です。この古墳は、鳥見山から伸びる丘陵の先端を切り離して造られています。つまり、カシの尾の上(丘のしっぽの上)に墓が作られています。茶臼山古墳の被葬者は、神武天皇の墓を強く意識して墓地を選定したと思われます。
 鳥見山のふもとから磐余地区にかけては、出雲系と物部系の神社が目立つように思われます。茶臼山古墳の東には宗像神社(物部系)があり、桜井市池ノ内の稚桜神社にも物部氏の先祖が祭られています。さらには、桜井市谷の若櫻神社にはオオヒコが祭られているのですが、オオヒコの母は物部氏(ウツシコメ)です。となると、茶臼山古墳の被葬者は、オオヒコという可能性がありそうです。オオヒコは崇神天皇の時代に四道将軍の一人とし
て活躍した人物(皇族)です。

地図と写真はこちら。

 ◯.鳥見のナガスネヒコは、富雄(とみお)川の流域にいたとする見解もあります。そこで地図を調べてみると、富雄川の流域にもトンボの交尾の地形と聖地移植が認められます。

 富雄川と杣
(そま)川とで、トンボの交尾の地形ができています。奈良市西千代ヶ丘の三碓(みつがらす)小学校の東にある水道局の給水タンクは、山頂に建てられています。この山を仮に三碓山とすれば、三碓山は若杉山に対応します。三碓山から南へ700メートルのところにある大和国鹿島香取本宮神社は、粕屋郡の志賀神社に対応します。

 本宮神社の近くにある大倭
(おおやまと)神宮は、神武東征伝承の聖跡とされます。『日本書紀』によれば、神武天皇がナガスネヒコとの戦いに苦戦したときに、金色の鵄(とび)が飛んで来て天皇の弓の弭(はず・ゆはず)にとまりました。するとナガスネヒコの兵士は鵄の放つ雷光に幻惑されて、戦意を失ったといいます。その鵄の現れたところが、大倭神宮だといいます。鳥見(とみ)の地名は、鵄(とび)が訛ったものとされます。

 『日本書紀』によれば、ナガスネヒコが倒されたあとで、ニギハヤヒが神武天皇のもとに参上したとされます。しかしそれでは、子孫の物部氏が朝廷で重きを成すこともなかったでしょう。実際にはニギハヤヒはもっと積極的に、神武東征に関わったはずです。しかし多くの氏族の伝承をつないだために、椎根津彦や弟猾あるいは弟磯城など,自らの分身たちに,出番を奪われた形です。その上、サルタビコと同一人物であることも忘れられました。

76富雄


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