アワの国・4代懿徳天皇(①・②・③・④・⑤・⑥・⑦・⑧・⑨) |
広域対応の四番目に、アワの国(阿波国・徳島県)を取り上げます。奈良盆地と粕屋郡を中心とする広域対応では、淡路島は志賀島に対応し、四国は朝鮮半島に対応します。このことが4代懿徳(いとく)天皇の都を探すヒントになります。
『古事記』と『日本書紀』によれば、4代懿徳天皇の都は軽の境岡の宮といいます。そして9代孝元天皇(台与)の都も、軽の堺原の宮といいます。どちらもカルノサカイにあるとされ、比定地も近接しています。それなら、孝元天皇の都が宇佐にある以上、懿徳天皇の都も宇佐にあるでしょう。
5代孝昭天皇以前の四人の天皇は、都を朝鮮半島に置いていました。そのうち三人は日本に来たことがあって、日本に聖地が設定されています。4代懿徳天皇(アマテラス1世)だけは,日本にきたことがないと思われます。にもかかわらず、宇佐に聖地が設定されています。そこには何か理由付けがあるはずです。その理由付けこそ、朝鮮半島を地理的対応に取り込むことだったと思います。
奈良盆地と粕屋郡を中心とする広域対応においては、淡路島は志賀島に対応し、四国は朝鮮半島に対応します。この対応では、阿波国(徳島県)は、朝鮮半島の入り口にあった加羅国に対応します。
次に、松山と粕屋郡を中心とする広域対応を考えると、九州が朝鮮半島に対応します。松山の対岸にある宇佐は、加羅国に対応します。これが四番目の広域対応です。この対応によれば、宇佐と加羅と阿波は、互いに対応します。したがって、懿徳天皇の都が置かれた加羅は、別名がアワの国だった可能性があります。懿徳天皇はアマテラス1世ですから、その都のあるところが、太陽の国と言う意味でアワの国と呼ばれたと思われます。四国の阿波国は、加羅国(アワの国)に対応することから阿波国の名がついたのではないかと思います。
図表38 日出ずる国
日立国(ヒタチ)= 総国(フサ)= 安房国(アワ)
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扶桑(fu sang・フサン)
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釜山(fu shan・フシャン)(プサン)
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アワが太陽を表わす事例としては、安房(あわ)国(千葉県の南端)もあります。千葉県の大部分は総(ふさ)国(上総と下総)といいますが、フサは扶桑(ふそう)からきた地名でしょう。扶桑は日出ずる国の神木のことと言い、またその神木のある国をも扶桑といいます。総(ふさ)国は日本列島の東南の隅にあって、日出ずる国と呼ぶにふさわしいと思います。総国の北には日立国(常陸国・茨城県)があります。これも日出ずる国です。南北に二つ並んだ日出ずる国の南、最も太陽に恵まれた国が安房(あわ)国です。アワは太陽と見て間違いないでしょう。
また、朝鮮半島の東南の隅にある釜山も、扶桑と音が似ています。しかも温暖で、日光に恵まれています。釜山もまた日出ずる国、扶桑に由来する地名と思われます。
ちなみに、日立国は通常は常陸国と書きますが、これは陸地がずっと続くと言う意味でしょう。津軽海峡が発見される前の古い地名表記ではないでしょうか。邪馬台国とその後に続く東国開拓時代の名残ではないかと思われます。当時はまだ、東北地方の地理がよくわかっていなかったのでしょう。文字の通りに読むなら常陸をヒタチと読むことには無理がありますが、常陸とヒタチが同じ場所をさしたことから、常陸と書いてヒタチと読むようになったのだと思います。