(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅲ古里の巻  七章 聖地移植 (23・24・25・26)
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25 天皇はアフキミ(後)

オオ君

 アワが太陽を意味すると言う事例は、探してみると以外にたくさんあります。にもかかわらず、実は国語辞典や古語辞典にも、太陽を意味するアワという単語は記載されていません。太陽を意味するアワは、いまや失われた日本語です。

 伊勢湾の神島に、太陽に見立てた輪を棒でたたいて、太陽の再生を促す祭りがあります。名前をゲーター祭りといいます。水谷慶一氏が『謎の北緯34度32分をゆく・知られざる古代』の中に、その祭りをカラーグラビアで紹介しています。その説明書きに、次のように書かれています。

   伊勢湾の神島に残る、この古い太陽信仰の祭りは、12月31日の深夜から元日の朝まだ暗いうちに行われる。ぐみの木を束ねて編んだ直径六尺の輪に白布や白紙を巻き、さらに麻ひもを巻きつけて「アワ」(日輪)をつくる。これは「日の御像(ひのみかた)」と呼ばれる太陽のシンボルである。

 アワという語からは、アワキという語が派生しました。キは男性を意味し、アワキなら太陽の男性となります。イザナギが九州に帰ったとき、阿波岐原でミソギをしたといいますが、この阿波岐原はイザナギに由来し、阿波岐(アワキ)はイザナギをさしています。

 古代の日本語では、キとミの対で、あるいはコとメの対で男女を表わしました。例を挙げれば次のようになります。

 ◯男性(キ)……イザナ
・オ
  女性(ミ)……イザナ・オ

 ◯男性(コ)……ヒ・ムス・オト
  女性(メ)……ヒ・ムス・オト

 アワキと同じ意味の語にアフキ(アオキ)があります。森孝一編『前方後円墳の世紀・日本の古代5』によれば、天武天皇と持統天皇の合葬陵を、鎌倉時代の人は青木御陵と呼んだといいます。又、その陵が鎌倉時代に盗掘されたときの記録に『阿不幾乃山陵記
(あおきのさんりょうき)』があり、明治13年に京都市右京区梅ヶ畑の高山寺で発見されました。

 阿波岐原は今は青木と呼ばれ、阿不幾もアオキと読まれます。どちらのアオキも過去の天皇にゆかりの土地、または墓地です。これらの例は、遠い昔、天皇がアワキまたはアフキと呼ばれたことを示します。おそらく、アフキがより古い言葉でしょう。

 「隋書倭国伝」によれば、当時(7世紀)の天皇は、阿輩鶏弥
(あへきみ)と呼ばれたといいます。これもアワキミまたはアフキミのことで、太陽の君と言う意味です。

 これまでの歴史理解では、昔の天皇はオホキミと呼ばれ、大王や大君と表記されたと考えられました。しかし、これには誤解が含まれています。天皇は大王でも大君でもなく、太陽の君でした。アフキミが訛って、アウキミからオウキミになり、オホキミ(大君)が訛ったオオキミと混同されたのです。この誤解、または洒落
(しゃれ)から、大王や大君という表記がうまれたと思われます。

 また、正親町
(おうぎまち)という地名の正親(おうぎ)も、アフキの訛ったものと見られます。正親をアフキと読むのは、正親が天皇をさすからです。正親という言葉は、一つの思想表現です。天皇を民族の親と考えて正親の文字で表し、天皇をさすアフキの音で呼んだと思われます。

 京都市上京区の正親小学校は、旧平安京の御所の跡地に建っています。これによっても、天皇を正親と呼んだことがわかります。

オオ山とオオ島

 日本には昔から、神(先祖の霊)が山や島に天降るとする信仰がありました。それに加えて太陽信仰もありました。この二つの信仰が結びついて、神聖な山や島、あるいは墓のある山や島が、アフ山・アフ島と呼ばれたようです。アフが訛った名前を持つ山や島が、日本各地にたくさんあります。

 山……青山・青ヶ峰・阿武山・大山・大峰山

 島……粟島・淡島・青島・大島・奥武島(おうしま)

 この中で奥武島というのは、沖縄の地名です。谷川健一編『南方熊楠・その他』によれば、谷川健一氏と仲松弥秀
(なかまつやしゅう)氏が対談で、この奥武島を紹介しています。

 奥武
(おう)という地名は、琉球王府が1713年に完成した『琉球国由来記』の中では、片仮名でアフ・アウ・アホなどと書かれています。つまり奥武島は、オホ島(大きな島)が訛ったのではなく、アフ島(神聖な島)が訛ったのです。

 また、岡谷公二・山下欣一共編『青の民俗学・谷川健一の世界』の中で、石井忠氏が、二つのアヘ島がアイ島に名を変えた事例を紹介しています。これもアフ島の変化形です。一つは北九州市小倉北区の藍島で、もうひとつは粕屋郡新宮町の相ノ島です。いずれも古墳の多い島です。

 藍島は『日本書紀』の仲哀天皇の8年の条に阿閉島として登場します。島の北端に貝島という小島があり、そこに13基の、横穴式石室を持つ古墳があるといいます。

 続いて、『日本書紀』の神功皇后摂政前紀に、吾瓮海人烏摩呂
(あへのあまのおまろ)という人物が登場します。貝原益軒は『筑前国続風土記』の中で、この吾瓮海人(あへのあま)の住地を相ノ島としています。相ノ島は、勾玉を横向きに置いたような形の島で、江戸時代には朝鮮通使が立ち寄った島だといいます。島の北側には、239基もの積石塚群があるといいます。

 アフから変化した地名は数が多く、当てられた文字は多様です。

 図表39 アフから変化した地名

アハ─→アワ……阿波
(あわ)・安房(あわ)・淡(あわ)・粟(あわ)

アウ─→オオ……大
(おお)・奥武(おう)

アブ─→アベ……阿武
(あぶ)・阿倍(あべ)・安部(あべ)

アヘ─→アイ……阿閉
(あへ)・藍(あい)・吾瓮(あへ)・相(あい)・安威(あい)

アホ─→アオ……阿不
(あお)・阿保(あお)・青(あお)・粟生(あお)

オオ阪

 大阪には、高津の宮や難波京が置かれ、聖徳太子が四天王寺を建てました。そのためでしょうか。アフ起源の地名が三つあります。それは大阪(おおさか)・逢阪(おうさか)・阿倍野(あべの)という三つの地名です。

 大阪城の南に難波京の宮殿跡がありますから、ここからアフ阪(大阪)の地名が生まれたと思います。そしてもう一つのアフ阪(逢阪)は、四天王寺の西の門の近くから西に下る坂道に付けられた地名です。

 二つのアフ阪に共通することですが、特に逢阪の坂道がアフ阪と呼ばれた理由は、現実に即して考えることができます。この坂道が聖徳太子ゆかりの坂道だから、アフ阪かもしれません。あるいは、四天王寺の朱塗り(丹塗り)の建物が夕日のように美しいから、アフ阪かもしれません。それとも、坂道から眺める夕陽
(ゆうひ)が美しいからアフ阪でしょうか。実はみな正解です。

 奈良にかかる枕詞
(まくらことば)にアヲニヨシがありますが、このアヲも、アフ(太陽・夕陽)が訛ったものでしょう。夕陽のように朱塗りの建物が美しいという意味です。

 夕陽丹美し
(あをによし) 奈良の都は 咲く花の 匂ふがごとく 今盛りなり  (万葉集328)


 ここで注意すべきことは、夕陽丹美
(あをによ)しという枕詞は古い歴史を持つことです。『日本書紀』の仁徳天皇の条に、皇后磐之媛(いわのひめ)の歌があります。

  つぎねふ 山背
(やましろ)河を
    宮泝
(のぼ)り 我が泝(のぼ)れば
  青丹よし 那羅を過ぎ
    小楯 倭(やまと)を過ぎ
  我が見が欲し国は
    葛城高宮 我家(わぎへ)のあたり

 この歌が本当に磐之媛の作なら、平城京のできる300年も前から、夕陽丹美し奈良
(あをによしなら)という表現があったことになります。つまりこれは、夕陽丹美しがもともと都の美しさをたたえる言葉ではなかったことを示しています。だとすれば、奈良とは一体いかなる土地なのか。それが問題です。ヒントは、楽浪の朝鮮語読みがナであり、ナラの音に近いことです。

 倭国にとって楽浪郡は、長い間中国文明の窓口でした。その中国文明の象徴が朱塗りの建物だったと思います。そのために朱塗りの建物のあるところが、楽浪(ナ
・奈良)と呼ばれたのではないでしょうか。つまり、奈良の地名の近くには、春日大社のような朱塗りの建物があったと思われます。たとえば鈴鹿市に奈良池や奈良バス停がありますが、近くには昔、伊勢の国府がありました。

 おそらく、夕陽丹美し
(あをによし)の起源は古く、奈良時代にはすでにアヲニヨシのもとの意味は忘れられて、青丹よしと書かれたのだと思います。

 また四天王寺の南では、仁徳天皇が川を掘ろうとした可能性があります。失敗はしましたが、西の方に太子という地名があるのは、仁徳朝の太子に由来するかもしれません。堀川跡の南に阿倍野区がありますが、この阿倍野の地名もまたアフ関連の地名でしょう。仁徳天皇の都に由来するのではないかと思っています。


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