(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅲ古里の巻  七章 聖地移植 (232425・26)
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24 広域対応(後)

九州と東国

 大きな地理的対応の例は他にもあります。次に、滋賀県長浜市と福岡市中央区長浜を中心とする地理的対応の例を紹介しましょう。

 不思議な縁というのか、近江長浜は、豊臣秀吉が城と港を一体的に作った城下町ですが、博多もまた豊臣秀吉が再興した港町です。しかも江戸時代に入ると、隣接して福岡城と城下町が作られ、博多と合わせて港湾都市的な城下町ができました。

 長浜市で琵琶湖に向かえば、左手に坂田郡米原
(まいばら)市があり、対岸に大津市志賀があります。長浜で博多湾に向かっても、左手に前原(まえばる)市があり、対岸に志賀島があります。

 福岡では、長浜の右手に卑弥呼(アマテラス2世)の都や墓があります。滋賀では、長浜市の右手の浅井郡に姉川が流れています。浅井から朝日が連想され、姉川から卑弥呼(スサノオの姉)が連想されます。

 長浜市の背後を見ると、量感豊かな伊吹山のふもとに関ヶ原があります。その向こうの濃尾
(のうび)平野に美濃(みの)国があり、右手に養老郡があります。福岡で長浜の背後を見ると、宝満山のふもとに大宰府があります。その向こうの筑紫平野に耳納(みのう)山地があり、右手に肥前国養父(やふ)郡があります。

 濃尾平野を流れる川の上流には、飛騨
(ひだ)国や長野県木曽郡があります。一方、筑紫平野を流れる筑後川の上流には、大分県に日田市と玖珠郡があります。また、木曽郡の北に安曇(あずみ)郡があり、玖珠郡の北に宇佐市安心院(あじむ)があります。

 この広域対応では、伊勢湾は有明海に対応します。三重県松坂市嬉野は、佐賀県嬉野市に対応します。

 これらの対応によって、近江から東国にかけての地理が一体的に理解されていたことがわかります。近江と東国の間には、古くから強く密接なつながりがあったと想像されます。ただこの対応関係の弱点は、地名移植ばかりで、聖地移植が見当たらないことです。このままでは、この地名移植にヤマト勢力が関わったのかどうか、全く判断できません。出雲勢力による地名移植かもしれません。

 そこである日、地名移植の中心と見られる長浜方面に出かけて現地調査を行いました。と言っても、虎姫町の虎御前山
(とらごぜやま)から長浜市街まで歩いただけのことです。それでもそこにはやはり、ヤマト勢力による聖地移植が認められました。

67九州北部 68東国
注意
2010年1月1日より前原市は志摩町・二丈町と合併して、糸島市になりました。

 地図を見ると、小谷山を中心としてトンボの交尾の地形ができています。姉川支流の田川は須恵川に対応し、同じく姉川支流の高時川と山田川が多々良川に対応します。小谷山は若杉山に対応し、ふもとの虎御前山は乙犬山(天の香具山)に対応します。田川左岸の三川には八幡宮があって、須恵の旅石八幡宮に対応します。

 虎御前山は古くは八相山
(やあいやま)といい、中腹に矢合(やあい)神社があります。祭神として女神のアシナダカ(葦那陀迦神)が祭られています。『古事記』によれば、この女神はオオクニヌシの孫の后とされます。しかしだからと言って、この地方が則出雲系の土地と言うことにはなりません。

 実は、オオクニヌシは三代続いていて、出雲王でありながら、日向三代でもあると言う二面性を持っています。このことは「出雲の謎」で説明するので、ここでは説明しません。ただ、この見解に立つと、オオクニヌシ(イザナギ)の孫はやはりオオクニヌシ(オシホミミ・開化天皇)となります。その后なら台与と見られます。矢合神社を祭った人々は、台与にゆかりの人々だと思われます。

 そこで宇佐の地図と比較すると、小谷山は大元山に対応し、矢合神社は宇佐八幡宮に対応します。宇佐八幡宮は、大元山のふもとの小山の上にありますから、立地の上でもよく対応します。

 また、虎御前について、JR虎姫駅前の案内板に次の文章があります。

   町の北部の山の井筒という泉のほとりに、昔、虎御前という美しい姫が住んでいました。縁あって麓の世々開(せせらぎ)長者に嫁ぎ、幸せに暮らしていました。子を宿し、月満ちて生まれてきたのはなんと15匹の小蛇だったのです。あまりのことに虎御前は山の東の女性ヶ渕(みせがふち)に身を投げてしまいました。

 これよりこの山を虎御前山と名づけて姫をしのび、虎姫の地名もこの伝説に由来しています。


 同様の話は、駅が設置した待合室の案内板にもあり、子供たちは成人して15ヵ村の長になったという後日談も書かれています。この伝説は、小蛇が絡むところが箸墓伝説に共通します。箸墓伝説のモモソヒメは一見卑弥呼のようでいて、実は台与です。その夫のオオクニヌシの正体が実は小蛇だったと言う話であり、正体を見られたオオクニヌシはそれを恥じて去り、モモソヒメは自害してしまいます。話の類似性から判断して、虎御前はアシナダカの別名であり、女王台与のことと見ても良いと思います。

69長浜・虎姫

丹後の元伊勢

 丹後は浦島太郎の民話の舞台ですが、広域対応の三番目に、この丹後地方を紹介します。ここにも、やや大きな地理的対応が見られるからです。

 京都府北部の丹後地方には、元伊勢と呼ばれる神社が三つあります。宮津市の籠
(この)神社と、加佐郡大江町(今は福知山市)にある内宮(皇太神社)と外宮(豊受神社)です。丹後にはトンボの交尾の地形はありませんが、鬼伝説の大江山は、高千穂峯を連想させます。先住の王が鬼にされたと思うからです。丹後と福岡の地図を比較すると、三つの元伊勢が作られた理由がはっきりします。天橋立の付け根にある籠(この)神社から見ていきます。

 天橋立は、昔の福岡にあった長浜(という名の砂州)に対応します。天橋立の内海は、長浜の内海に対応します。したがって籠神社は、昔、長浜の付け根にあった若宮神社に対応します。つまり、籠神社はオシホミミの聖地に対応し、実際にはアマノホアカリ(オシホミミの子)が祭られています。籠神社の神官家はその子孫といいますから、丹後では籠神社が信仰の中心だったと思われます。籠神社の東北には、若狭湾に沓島と冠島があって、籠神社の沖津宮とされます。二つの島は福岡の志賀島に対応します。したがって籠神社は、本来なら中津宮にあたります。神社の西南の野田川流域に、昔は辺津宮があったと思われます。野田川町三河内には倭文
(しとり)神社があります。祭神のタケハヅチ(武葉槌神)はオシホミミと関連がありそうです。

 野田川は、福岡では御笠川や那珂川に対応します。この場合、由良川が多々良川水系に対応します。したがって由良川流域にある内宮と外宮は、粕屋郡の卑弥呼の聖地に対応します。

 あるいは丹後を宇佐に例えるなら、野田川は駅館
(やっかん)川に対応し、由良川は向野川と寄藻川に対応するともいえます。その場合、由良川の内宮と外宮は台与の聖地に対応します。

 伊勢の外宮は、台与の都に対応し、しかも丹後から移植したと伝承されます。だとすると、由良川の内宮と外宮は、台与の聖地と見るほうが正しいかもしれません。その場合、大江山は宇佐の大元山に対応することになり、やはり高千穂峯といえそうです。

70丹後

浦島太郎

 籠神社から北に目を移せば、与謝郡伊根町の中央に、筒川が流れています。筒川の下流には宇良(うら)神社(浦島神社)があって、浦島太郎が祭られています。ここは『丹後国風土記』に記された浦島太郎の民話の舞台です。

 浦島太郎は名前を筒川の島子といい、通称を水江
(みずのえ)の浦島子(うらしまのこ)といいます。浦島太郎は後世の呼び名です。その民話は、もとは伊都国の一大率(スサノオ)をモデルにして成立したと思われます。

 天橋立と長浜が対応すると考えた場合、伊根町は伊都国に対応します。宇良神社はオシホミミの父のスサノオの聖地(細石神社)に対応します。籠神社の祭神の中には浦島太郎の名前がありますが、その理由がこれでわかります。籠神社を中心とする信仰体系の一部として、宇良神社が祭られているのです。

 退位後のスサノオ(都市牛利)は、海外との交渉を担当する外交官でしたが、神話のスサノオは大海原を治めたと書かれています。これが民話になると、浦島太郎は漁をして暮らしたとされてしまいました。

 「出雲の謎」で触れることですが、スサノオは出雲で生まれた可能性があります。そして最後は、古里の出雲に戻りました。浦島太郎もまた、丹後に生まれ、竜宮城から丹後に戻っています。共に山陰地方にゆかりの人物です。浦島太郎が亀姫(乙姫)と共に過ごした日々は、スサノオが卑弥呼と過ごした日々や、中国に渡った日々に対応すると思われます。

 浦島太郎が古里に帰ったときには、300年の年月が流れたために、人々や家々の姿は変わりましたが、変わらない山川の姿が迎えてくれたはずです。一方、スサノオが出雲に帰ったときも、違う土地なのに、福岡によく似た懐かしい景色が迎えてくれたことでしょう。弓ヶ浜と海ノ中道の海岸線がよく似ているように、スサノオと浦島太郎の一生も、どこかよく似ています。

 『万葉集』巻九を見ると、浦島太郎を呼んだ歌(1740・1741)があります。そこでは『丹後国風土記』と違って、浦島太郎は摂津国住吉
(すみのえ)の人とされます。しかし、奈良盆地と粕屋郡を中心とする広域対応においては、住吉は浜寺と共に、伊都国に対応すると見ることができます。

 舞台は一見、丹後と摂津に遠く離れていますが、実はどちらも伊都国に対応します。その意味ではどちらも同じ土地なのです。やはり浦島太郎のモデルは、スサノオと見るほかありません。


訂正しました。2008・04・15

 籠神社の祭神は天火明命(あまのほあかりのみこと)で、ニギハヤヒの別名とされているようです。オシホミミは天火明命とニニギの父とされているのでしょうか。
 祭神はオシホミミと思い込んだのはどういう事情だったか思い出せませんが、早合点かもしれません。父親が祭神の列に加わっても不自然ではないということでご理解ください。

説明します。 2008・04・26

 上の記憶は主に、籠神社で以前配布されていた小冊子によるものです。ふと気がついてインターネットを覗いてみると、籠神社のホームページがありました。それによれば、祭神について異伝・別伝などがいろいろあって、混乱が見られます。必ずしも私の記憶違いや勝手な思い込みではなさそうです。

 簡単に整理すると、次のようになります。

  ①.古い時代の祭神は、ホデミでした。ホデミの兄弟にホアカリがいました。(天皇家につながる。)
②.今の祭神は、ホアカリと言い、ニギハヤヒの別名です。1のホアカリとは同名の別人です。(物部氏につながる。)
③.京都のカモ神社の祭神と同一の神です。(天皇家と物部氏につながる。)

 3の、同一の神という言葉には注意してください。たとえば、卑弥呼と台与は別人ですが、どちらもアマテラスであり、同
一の神です。昔の人は生まれ変わりの思想などを信じていましたから、こういうことが起こります。

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