2代綏靖天皇(①・②・3・4・5・6・7・8・9) |
『古事記』や『日本書紀』によれば、神武天皇だけでなく、欠史八代の都も墓もみな奈良盆地にあるといいます。しかし神武天皇の場合と同様に、みな地理的対応に基づいて移植された聖地で、実体はありません。ただしそれらの中には、対応関係の不明なものや、不正確なものもあり、いろいろなケースがあります。高千穂の峯を中心とする地理的対応という座標軸を見つけたことにより、聖地移植の様子がよくわかるようになりました。わかりやすいものから見ていきます。
綏靖天皇の葛城の高岡の宮は、御所市森脇に比定地があります。ここは、粕屋郡では宇美町西南部に対応します。井野川流域には、二つの貴船神社が並びます。大谷と原田上にある貴船神社です。大谷から原田上へ向かうときに、正面に見える山(仮に日の丸山)が神体山でしょうか。これが三宮だとすれば、大谷(貴船2丁目)の貴船神社は綏靖天皇の都の跡でしょう。
ただし大谷にいたのは倭面土国王の帥升(遂成)です。帥升は、121年には高句麗王として、高句麗に移ったと思います。また、貴船神社の小山はイザナギの墓と思われますから、貴船神社はもとは大谷の他の場所から移ってきたと思われます。
大谷の貴船神社の祭神は、案内板に寄ればタカオカミとクラオカミの二神です。共に水の神ですが、一般に水の神といえばこの二神にミツハノメを加えて、一姫二太郎の姿をしています。
これらの水の神は、イザナギとイザナミが生んだとされますから、アマテラス2世とツクヨミとスサノオをさすとも考えられます。とすれば、ここはツクヨミの都だった可能性もあります。しかし、神武天皇の子もまた、一姫二太郎の姿をしています。ここは、綏靖天皇(帥升)の都としてもふさわしいと思います。
綏靖天皇の墓は、今のところ全く所在がわかりません。おそらく朝鮮半島にあるでしょう。
5代孝昭天皇(①・②・3・4・⑤・6・7・8・9) |
孝昭天皇の都は、葛城の掖上(わきがみ)の宮といいます。掖上は、御所市東部のJR掖上駅のあたりでしょうか。今の地名は御所市柏原(かしはら)です。多武嶺が若杉山に対応するとした場合、御所市は宇美町に対応します。曽我川は宇美川に対応します。曽我川左岸にある柏原の神武天皇神社は、宇美川左岸の宇美八幡宮に対応します。神武天皇と孝昭天皇には最初の天皇という共通項があるため間違えやすいのですが、奈良でもやはり間違えられたようです。孝昭天皇の墓は、掖上の博多山にあるとされ、葛城山のふもとに比定地があります。そこは、宇美町では井野山のふもとに対応します。孝昭天皇の墓を探すときに、よいヒントになります。また、博多の地名がトンボの交尾の左岸方向にあることは粕屋郡と同じであり、興味深いところです。
7代孝霊天皇(①・②・3・4・⑤・6・⑦・8・9) |
孝霊天皇の墓は、片岡の馬坂にあるとされます。馬坂という地名は、博多の天王山に伝わる芦毛の馬の話を連想させて大変興味深いところです。北葛城郡王子町本町の片岡神社の西の山に比定地があります。片岡神社には五社が合祀され、祭神の中にアマテラスの名があります。
片岡という地名は、片岡神社の西の山から東の馬見丘陵にまたがっています。この馬見という地名も芦毛の馬を連想させます。片岡の丘陵地帯は、多武嶺を若杉山に対応させるときには、福岡の月隈丘陵に対応します。したがって、片岡神社は牛頭天王八幡宮に対応し、西の山は天王山に対応します。
以上の通り、孝霊天皇の墓の比定地は卑弥呼の墓によく対応します。しかし、都の比定地については、対応関係が難しいです。
孝霊天皇の都は、黒田の庵戸(いおと)の宮といいます。桜井市北部の黒田にある孝霊神社、あるいはその近くの法楽寺が、宮跡とされています。現地の道案内表示には、孝霊神社は盧戸(いおと)神社と書かれています。
その宮跡は寺川左岸にあり、粕屋郡では伊賀薬師堂に対応します。しかし伊賀薬師堂は、孝霊天皇の都の跡ではなく、中津宮です。そこで黒田の宮跡も本当は中津宮だったと考えて、東南の方角を調べてみました。すると、三輪山の西北に桧原神社のあることがわかりました。
桧原神社は元伊勢と称され、もとはアマテラスの聖地だったといいます。『日本書紀』の崇神天皇の6年の条に、アマテラスの聖地として登場する笠縫邑(かさぬいのむら)は、この桧原神社のこととされます。残念なことに、桧原神社の三宮は短命に終わりました。作られて間もない垂仁天皇の時代に、辺津宮が伊勢に移されたのです。今の桧原神社は、かつての名残に過ぎません。おそらくこのときに、黒田の中津宮が、新たに宮跡の聖地にされたのでしょう。
桧原神社から南に目を移すと、桜井市外山(とび)に鳥見山(とみやま)があります。さらにそこから東北に目を移しても、桜井市と宇陀市の境にまた鳥見山があります。二つの鳥見山は、粕屋郡久山町の遠見岳に対応します。江戸時代には、遠見岳はトミガタケと呼ばれましたから、山の名前は一致します。桧原神社は、粕屋郡の卑弥呼の都によく対応します。
9代孝元天皇(①・②・3・4・⑤・6・⑦・8・⑨) |
孝元天皇の都は、軽の境原の宮といいます。橿原市大軽町に比定地があり、墓の比定地も近くにあります。比定地は都も墓も、飛鳥川の左岸にあります。しかしこの比定地は、実は完全に地理的対応を無視しています。
孝元天皇の都は宇佐にありますが、宇佐においてもトンボの交尾の地形を確認できます。向野川と寄藻川が大元山を囲んでいるのです。向野川は寺川に対応し、寄藻川は飛鳥川に対応します。大元山は多武嶺に対応します。これによって、宇佐と奈良の間でも、都の地理的対応関係をチェックできます。
宇佐では、孝元天皇(台与)の都は向野川右岸、墓は寄藻川右岸にあります。これを奈良に置き換えると、都は寺川右岸、墓は飛鳥川右岸にないといけません。ところが、比定地は共に飛鳥川左岸にあります。墓の場合は、池の中ノ島という条件を満たす場所が簡単には見つからないでしょうから、多少ずれてもやむを得ません。しかし、都の比定地が大きくずれているのは問題です。何か事情がありそうですが、謎解きのヒントは、またしても笠縫の地にあります。
桜井市西北部には、寺川の両岸に笠縫の地名があります。左岸には近鉄線の笠縫駅、右岸には笠縫バス停があります。笠縫はアマテラスの聖地ですが、孝元天皇もアマテラスの一人です。したがって、笠縫バス停のある寺川右岸に、初め孝元天皇の都の比定地が設定されたと考えられます。桜井市千代の市杵島姫神社がその場所だったと思われます。市杵島姫は、孝元天皇(台与)の別名ではないでしょうか。
あるいは、桜井市千代の南に隣接する橿原市十市の十市御県坐(とおちのみあがたにいます)神社も候補です。十市御県坐神社の祭神は豊受大神であり、伊勢の外宮と同じですから、こちらが本命かもしれません。見逃していました。2009・8・7追記 |
しかしその聖地も桧原神社と共に、伊勢に移ったと思われます。そのために墓の比定地の近くで、新しく都の比定地が設定されたのでしょう。それではなぜ、孝霊天皇や孝元天皇の都を示す神社は伊勢に移ったのでしょうか。その謎解きは少し長くなります。後にまわすことにします。
御所市・6代孝安天皇(①・②・3・4・⑤・⑥・⑦・8・⑨) |
聖地移植をした人々は、一つの国に邪馬台国が一つなどとは思っていませんでした。トンボの交尾の地形を見つけるたびに邪馬台国を聖地移植しました。そのために奈良県内には高千穂峯がいくつもあります。多武峰だけではないのです。
御所市東部の国見山は、粕屋郡の若杉山に対応します。曽我川が多々良川に対応し、満願寺川が須恵川に対応します。国見山のふもとには柏原(かしはら)の地名があります。満願寺川左岸の八幡宮は、橿原神宮や須恵の旅石八幡宮に対応します。八幡宮の背後にある本馬山は、畝火山に対応します。
満願寺川右岸には神武天皇神社があります。この神社は孝昭天皇の都に対応するとして紹介しましたが、国見山を中心にすると、粕屋町の志賀神社に対応します。神武天皇の墓にあたりますから、ここでは聖地が重なっています。
『日本書紀』の神武天皇の31年の条によれば、天皇が掖上の?間丘(ほほまのおか)に登り、国の形を見渡して、大和の国をトンボの交尾に例えたと書かれています。?間丘の比定地には二つの説があります。一つは満願寺川をはさんで、神武天皇神社の北にある本馬山です。もう一つは神社の南にある国見山です。地名の一致を重視するなら本馬山でもよいでしょう。しかし意味内容を重視するなら、国見山こそ?間丘となります。国見山は満願寺川と曽我川に囲まれていて、トンボの交尾の地形があるからです。
孝安天皇の都は、葛城の室(むろ)の秋津島の宮といいます。比定地は国見山の西の御所市室にあります。この比定地は、若杉山の西にある秋葉神社に対応します。他の天皇の都は多武嶺を若杉山に対応させる聖地移植ですから、孝安天皇のケースは異例です。もしかすると、在位年数は別にして、天皇の事跡などは天皇ごとに違う人々が伝承したのかもしれません。
国見山の北には玉手山があり、そこに孝安天皇の玉手丘上陵の比定地があります。粕屋郡では、玉手山は乙犬山に対応します。乙犬山の西のふもとで墓が見つかるのでしょうか。
奈良市・8代開化天皇(①・②・3・4・⑤・⑥・⑦・⑧・⑨) |
奈良市の地図を開くと、ここにも高千穂峯があります。春日大社の裏にある春日山が高千穂峯です。佐保川と能登川が春日山を囲んでいます。佐保川が多々良川に対応し、能登川が須恵川に対応します。春日山は若杉山に対応します。奈良市にある添や佐保という地名は、日向の襲(須恵)を移植した地名だと思われます。
気が付けば、能登川右岸には飛鳥小学校や飛鳥中学校があり、奈良市は第三の飛鳥です。能登川は飛鳥川に対応し、佐保川は寺川に対応します。春日山は多武嶺に対応します。
古郷の 飛鳥はあれど あをによし 平城(なら)の 明日香を 見らくし好しも(万葉集992)
アスカという地名については、誤解されるといけないので書きたいことがあります。アスカは安宿(あすか)と書くのが古い表記で、飛ぶ鳥は安宿の枕詞(まくらことば)でした。安宿は渡来人にゆかりの地名だと思います。渡来人を飛ぶ鳥に例え、その安住の地を安宿と呼んだのです。
高千穂峯のふもとにアスカの地名があるのは、天皇家も渡来人だからです。和歌山県新宮市には徐福の墓碑がありますが、その近くにも阿須賀の地名があります。徐福は中国(秦)からの渡来人ですから、聖地の近くに阿須賀(安宿)の地名があるのだと思います。
飛鳥(とぶとり)の
安宿(あすか)の里を 置きて去(い)なば
君が辺(あたり)は 見えずかもあらむ (万葉集78)
さて、見た目で比較しても、春日山は若杉山に似ています。若杉山の左手の岳城山は、昔は若草山に似た草山でした。今では杉の苗木が大きくなって、昔の面影はありません。それでも春日山の杉木立のシルエットは、若杉山を思い出させてくれます。
佐保川が多々良川に対応するとなれば、秋篠(あきしの)川は久山町の久原(くばる)川に対応します。富雄(とみお)川は猪野川に対応します。富雄川の上流に登弥神社や鳥見、登美ヶ丘の地名があることは、猪野川の上流に遠見岳(トミガタケ)があることに対応します。
8代開化天皇の都は、春日の伊邪河の宮といいます。比定地は、奈良市本子守町の率川(いざかわ)神社がよいと思います。率川神社の祭神は神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)ですから、もとは神武天皇の聖地だったと思われます。率川神社の東には春日大社と春日山が一直線に並んでいます。もとは三宮だったのでしょう。神武天皇の聖地の上に、開化天皇の聖地を重ねたと思われます。開化天皇の墓は、率川神社の北の前方後円墳(念仏寺山古墳)とされますが、5世紀の古墳だといい、時代が合いません。
ちなみに平城宮跡は佐保川右岸にあります。ここはトンボの交尾の右岸にあたり、女王台与の都に対応しています。
開化天皇の墓は、トンボの交尾の内側に聖地移植されていますが、実は福岡でも春日神社や那珂八幡古墳が、トンボの交尾の内側にあります。