イザナギ以前の天皇は、朝鮮半島に都を置いていました。しかし、この時代の朝鮮半島の歴史はまだよくわかっていません。つまり朝鮮史を参考にはできないのです。むしろ邪馬台国の謎を解くことによって、半島の歴史も解明されると思います。
4代懿徳(いとく)天皇は、孝昭天皇(イザナギ)の母です。アマテラス1世と思われます。在位は半年暦の34年です。157年前半1月にこの年を元年として即位し、173年後半9月に亡くなりました。
3代安寧天皇は、懿徳天皇の夫です。ヤマトタケル1世だと思われます。この天皇が退位して、豊前・豊後を征服しました。別名は武諸木と神八井耳命です。その在位は半年暦の38年になります。137年後半7月に即位し、138年前半を元年として、156年後半12月に退位しました。
2代綏靖天皇は、安寧天皇の兄です。おそらく年令(とし)の離れた兄でしょう。在位は半年暦の33年になります。121年後半1月にこの年を元年として即位し、137年後半5月に亡くなりました。
綏靖天皇の即位した121年の秋に、高句麗では7代遂成が即位しました。『三国史記』の記事は不自然で、そのまま信じることはできませんが、「後漢書高句麗伝」によれば、121年の秋に王の宮が死んで、この遂成が即位したと書かれています。
綏靖と遂成は音が似ており、同一人物と思われます。ただし、綏靖という名前は死後の諡号のはずであり、その点が少し気になります。それでも、この二人が同一人物という疑いは消えません。それは、二人の父親である太祖大王の宮と神武天皇の間にも、奇妙な類似点があるからです。
宮は西暦53年に即位して、121年に亡くなりました。7才で即位して、75才で亡くなっています。これを日本の数え年に直すと、8才で即位して、76才で亡くなったことになります。一方の神武天皇は、東征開始から8年目に即位し、治世76年に亡くなりました。
少し変な形ですが、数字が一致します。伝承される間に数字の性格が変質したと考えられます。また、神武天皇に関わる数字が中国暦になっていることにも注目しなければなりません。これは、当時の高句麗が中国暦を用いたことが、反映されていると見られます。
「高句麗本紀」によれば、114年に宮は南海地方を視察したといいます。宮は太祖大王と呼ばれるほどですから、領土を拡張したと想像できます。したがってここにいう南海地方は、韓国と倭国(北部九州)のことでしょう。確かな記録はありませんが、2世紀の初めには、宮が倭国の一部を含む大帝国を作ったと思われます。倭国が神武天皇を始祖とする理由が、ここにあるでしょう。
「後漢書高句麗伝」によれば、121年の秋に宮が馬韓・濊(わい)・貊(はく)の数千騎を率いて、玄菟郡治を囲んだといいます。この時代の馬韓は、韓国を支配した辰王の馬韓だと思われます。宮の支配が倭国に及んでいても不思議ではありません。
しかし、大帝国は長くは続きませんでした。すぐに分裂したようです。修正した在位年表によれば、綏靖天皇は137年に亡くなりました。ところが「後漢書高句麗伝」によれば、132年より前に遂成の子の伯固が即位しました。まだ綏靖天皇が在位している間に、伯固が即位したのです。これは、高句麗王家の分裂を意味します。
日本の記録でも、神武天皇の死後に、皇子の間に皇位継承権をめぐる争いが起きました。これは史実の反映と見られます。しかし、争いの当事者の人物比定は難しいでしょう。高句麗における争いだからです。深入りはしないでおきます。
分裂した王家が南へ移る過程において、韓国や倭国の文化を受け入れ、半年暦が復活したと思われます。このような事情を考えれば綏靖天皇の在位に親子合算がされていないのもうなずけます。一方、「高句麗本紀」では2世紀の記事に不自然さが目立ちますが、国家の分裂という混乱の只中にあったことを思えば、それもやむを得ないことだと思われます。
広開土王碑文では、百済と新羅はもと高句麗の領民だったといい、また倭国でも、五王が百済と新羅に対する支配権を主張したことが思い出されます。これらの主張は、2世紀初めに高句麗王が韓国全土を支配したことに由来します。百済と新羅は帝国分裂後の混乱の中から生まれた国なのです。
『後漢書』によれば、宮は生まれながらに目を開き、よく見ることができたといい、そのために国人に慕われたといいます。しかし『三国志』によれば、国人に嫌われたともいいます。おそらく人々の期待に応えて宮が対外侵攻を好み、そのために国土が荒れ、結果的には嫌われたのでしょうか。
107年に後漢に朝貢した倭面土国王の帥升は、おそらく遂成でしょう。121年の秋に宮の跡を継いで高句麗王になるまでは、遂成は倭国王として九州にいたと思われます。107年に百六十人の生口(奴隷)を献じたという帥升の行為からは、土着の王を想像することはできません。帥升は征服者です。
帥升の使者はヤマト国を名乗ったのでしょうが、先入観のある中国人には倭マト国と聞こえたのでしょう。倭面土国と書かれてしまいました。ヤマト国のデビューは失敗に終わりましたが、それでよかったと思います。この時期の倭面土国は、まだ高句麗の一部だったからです。イザナギが、出雲からイザナミを迎え、都を倭国に移した時が、邪馬台国(ヤマト国)の始まりです。さらには、崇神天皇の即位が大和朝廷の始まりです。
太祖の宮と神武天皇が同一人物とすれば、日本に八幡宮が多い理由がわかります。八幡宮には応神天皇と神功皇后と玉依姫が祭られていますが、応神天皇と太祖の宮(神武天皇)が大変よく似ています。
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①.二人は幼くして王(天皇)になった。そのために母親が摂政を務めた。
②.二人は成長すると、体外的な武力侵攻を行った。
③.二人の子供たちのうち、三人が王(天皇)になった。ただし義理の子(懿徳天皇)を含めて三人です。 |
これらの一致により、宮を八幡神1世とするなら、応神天皇は八幡神2世といえます。したがって応神天皇は神武天皇の生まれ変わりと見なされた可能性があり、八幡宮の隠れた祭神は神武天皇だといえます。
また、八幡神は八幡大菩薩とも呼ばれ、神仏習合によって生まれた新しい神でもあります。おそらく国家の後押しを受けて、全国に普及したことでしょう。古い神社が八幡宮に変えられて、元の祭神が隅に追いやられるケースも多かったと思います。
八幡宮に祭られる女神のうち、神功皇后はアマテラス4世です。玉依姫はアマテラス3世(台与)で、崇神天皇の母です。これは、アマテラスを介して、応神天皇が崇神天皇の生まれ変わりでもあることを示します。さらには、イザナギ(孝昭天皇)も父母がヤマトタケル1世とアマテラス1世です。したがって、応神天皇はイザナギの生まれ変わりと見ることもできます。
こうなると応神天皇は、日本で最初の天皇とされる神武・孝昭・崇神の生まれ変わりとなります。中でも大和朝廷を開いた崇神天皇が重視され、母の玉依姫(台与)が八幡宮に祭られています。八幡宮の総本社が宇佐になったのは、宇佐が玉依姫の聖地だからです。八幡宮は日本の建国史を象徴する神社として成立し、全国に普及したと思われます。
天皇の漢風諡号(かんふうしごう)は、推古や孝霊の例でわかるように、天皇の事跡や時代の性格などがよく反映され、歴史の復元に大きく貢献してくれます。
漢風諡号に神の字を含む天皇が四人いますが、その四人にも共通点が見えてきました。その共通点とは、海外に軍を派遣し、一定の成果を上げたことです。神功・応神は言うまでもありません。崇神天皇のときには新羅の高官の于老を殺害したといいますから、その裏に軍事侵攻のあったことが想像されます。神武天皇は海を渡って倭国の一部を征服しました。
これらのことから、漢風諡号の撰上はかなり古いことがわかります。天皇の記憶が薄れないうちに、諡号が贈られたのです。ところが、漢風諡号は奈良時代の末に撰上されたとする説があります。あり得ない話です。どこで間違ったのでしょう。
ただし、和風諡号については、女王が男王に間違えられていることが気になります。こちらは撰上された時期が新しいかもしれません。それでも、奈良時代よりはずっと古いと思います。
図表32 高句麗初期の年表 |
代 |
王 名 |
修正した
在位年数 |
即位年 ~ 死亡年 |
一 |
東 明 |
9.5 |
3年後半 ~ 12年後半 |
二 |
瑠 璃 |
18.5 |
13年前半 ~ 31年前半 |
三 |
大武神 |
13.5 |
31年前半 ~ 44年前半 |
四 |
閔 中 |
5 |
44年 ~ 48年 |
五 |
慕 本 |
6 |
48年 ~ 53年 |
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図表33 1・2世紀の修正年表 ◯印は即位年の翌年が元年 他は即位年が元年 |
代 |
天皇 |
修正した
在位年数 |
即位年 ~ 死亡年 または退位年 |
① |
神武 |
68 |
53年 ~ 121年 |
② |
綏靖 |
16.5 |
121年後半1月~137年後半 5月 |
③ |
安寧 |
19.0 |
◯137年後半7月~156年後半12月 |
④ |
懿徳 |
17.0 |
157年前半1月~173年後半 9月 |
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図表34 1・2世紀の修正系図
◯高句麗
①東明──②瑠璃─┬─③大武神──⑤慕本
├─④閔中
└──再思
└── 再├─⑥宮───⑦遂成───⑧伯固
└──女性├─↓ ↓
└──女性├─↓ ↓
◯倭国├─└── ↓ ↓
◯倭国├─└── ↓ ↓
└──再 ├─1神武─┬─2綏靖
└── 再├─1神武─└───3安寧
└── 再├─ └───3安├─5孝昭
└── 再├─ └───4懿徳
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