(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
U古暦の巻  章 邪馬台国の年代論 (192021・22)
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20 日向三代の都(前)

ニニギの都

 宇美町の井野山は宇美八幡宮の神体山です。八幡宮の参道は、まっすぐ井野山に向かい、そのまま山頂まで続きます。山の登り口に頓宮(はやみ)(産宮(うぶみや))があります。この神社のあり方からは、古い信仰の様子が想像できます。

 昔、美しい山や海上の島には、神(先祖の霊)が天降るという信仰がありました。その神を山頂(奥津宮)から頓宮(中津宮)に招き、さらに里宮である八幡宮(辺津宮)に迎えたのです。そこで先祖の霊をもてなして豊作を祈願したり、感謝を伝えたりしたようです。

 三宮のことは若い頃に建築史の本を読んで知りましたが、今は残念ながら書名も著者名も覚えていません。集落の発生と宗教の関係を主題として、東京のある私大の研究室が地方にフィールドワークに出たことがあり、そのときの報告書でした。

 宇美町の外に視野を広げると、宇美から二つの方向に三宮の線が伸びています。志賀島の志賀海神社と、博多区の箱崎八幡宮と、宇美八幡宮が一直線に並んでいます。また、福岡市東区三苫の綿津見神社と、同じく東区の香椎宮と、宇美八幡宮も一直線に並んでいます。

 これらの三宮は今は忘れられています。しかし三宮制の名残らしい慣習が、香椎宮の行事の中に残っています。仲哀天皇を祭る古宮祭のときに、志賀島と箱崎の漁師が、海産物を香椎宮に奉納するといいます。また、綿津見神社と香椎宮を結ぶ行事もあり、そのときには新しく作られた頓宮が中津宮の役割を担います。これらの行事は昔は宇美を辺津宮として行われたのでしょうが、今では宇美は忘れられた存在です。

 宇美を中心にして三宮が伸びる姿から判断して、宇美八幡宮は孝昭天皇(イザナギ・ニニギ)の都の跡です。祭神を調べると、八満宮本来の神々に交じって、イザナギの名前が見えます。また、前原市川付(本のすぐ南)にも宇美八幡宮がありますが、こちらはニニギを祭っています。

43日向三代

 孝昭天皇の墓は、宇美を中心とする三つの奥津宮のいずれかにあると思われます。第一の候補地は井野山ですが、その山頂は岩場で墓はありません。もし墓があるとすれば山の周辺でしょう。

 井野山の北側のひばりヶ丘の住宅地には、以前古墳群がありました。ひばりヶ丘に隣接して立つ日吉神社と、井野本村の小さな神社と、宇美八幡宮が一直線に並ぶことは注目されます。井野山の東南側では、貴船2丁目の貴船神社が気になります。この神社は長円形の小山の上に建っていて、その小山はもしかして古墳ではないかと思うからです。大きさを測ってはいませんが、見た目の高さは5メートルほど、径は40メートルほどでしょうか。また、宇美八幡宮の裏手では、宇美川右岸の丘の上に神領古墳群があります。これもひとまず候補に含めておきたいところです。

 第二の候補地は、三苫の綿津見神社の裏山です。神社の裏には南北1キロほどの丘陵があります。蛇や蚊を嫌って、冬の晴れた日に丘の上を探し歩いてみました。しかし墓らしいものは見つかりませんでした。

 第三の候補地は志賀島です。東西2キロ、南北3キロほどのこの島は全島山がちで、北部の勝馬
(かつま)にわずかな水田があります。南部では山にびわ畑があるだけです。島全体を歩くのは大変だと思ったので、福岡市の教育委員会に古い古墳の有無を聞いてみました。答えは、7世紀の古墳があるが、古いものは見つからないとのことでした。

44宇美

ホデミの都

 前原市の高祖山(たかすやま)は、タカオヤ山と読むこともできます。タカオヤが正しければ、大和言葉は二重母音を嫌いますから、昔はタカヤと発音されたに違いありません。そこで、タカス山の古い名前はタカヤ山(高屋山)だったと考えます。

 高祖山の西には、高祖神社と、前原市三雲の細石
(さざれいし)神社が一直線に並んでいます。二つの神社には、母と子が祭神として祭られています。高祖神社にはホデミが祭られ、細石神社にはコノハナノサクヤヒメが祭られています。そしてここでも、志賀海神社と、福岡市西区今宿2丁目の祇園神社と、細石神社が一直線に並んでいます。

 細石神社はホデミ(スサノオ・孝安天皇)が一大率だったときの住居のあとでしょう。高屋の宮の跡です。その墓は出雲にあると考えますが、出雲のことは「古里の巻」で検討します。ここでは、高天原(日向・邪馬台国)の謎解きを優先します。

45前原
注意 2010年1月1日より前原市は志摩町・二丈町と合併して、糸島市になりました。

 次は、孝安天皇が天皇だったときの都を探してみましょう。

 若杉山の西のふもとの須恵町須恵に、秋葉神社があります。秋葉神社といえば、静岡県周智郡春野町の秋葉山にある神社が有名です。祭神はヒノカグツチ(スサノオ・ホデミ)です。須恵の秋葉神社も、祭神はヒノカグツチと見られます。

 現在の地図では秋葉神社と書かれることは少なく、多くは宝満宮と書かれています。『筑前国続風土記拾遺』にも、須恵村の宝満宮と書かれています。ところが現地へ行くと、鳥居の額に秋葉神社とあります。

 初め、この神社には全く注目しませんでした。しかし、JR香椎線の車窓からよく見えるこの神社は、若杉山を背にして神社の森が美しく、どこか意味ありげに見えました。そこである日、予定を変更して訪ねてみました。そのときに、名前が秋葉神社であることを知りました。そこの案内板によると、昔この神社には山岳信仰があり、宝満山が信仰の対象だったといいます。宝満宮と呼ばれる理由がここにあります。

 そこで地図を調べると、秋葉神社と宝満山の間に、宇美町障子岳本村の大山祇神社があります。あるいは、スサノオを祭る障子岳今屋敷の須佐神社を中津宮にすることもできます。いずれも出雲系の神社ですから、三宮が成立します。これによって、秋葉神社は孝安天皇の都の跡と見ることができます。

 ただし今の宝満山は、太宰府市内山にある竈門
(かまど)神社の神体山です。その祭神は玉依姫・応神天皇・神功皇后で、宇佐から移ってきたといいます。一般の宝満宮でも同様に八幡宮の神々を祭っています。スサノオ(ヒノカグツチ)とは無縁のように見えます。しかし調べてみると、無縁ではありません。

 竈門神社は、古くは竈門山寺とも言って、大宰府を守護する神仏習合の官寺でした。『筑前国続風土記拾遺』の御笠郡竈門山寺の条には、宝満山の地主神として、イザナミとオオナムチ(オオクニヌシ)の名前を上げています。

   末社大田社は麓の石鳥居の南辺にあり、大己貴(おおなむち)神を祠る。始は上宮の辺に在しが、後此所に移す。小田社は休堂の下、琵琶の首といふ所の上に在、伊奘冊(いざなみ)尊を祭る。此小田大田の二神を当山の地主神と云ふ。大田社を俗に濡衣(ぬれぎぬ)社ともいふ。

 この濡衣社については、森弘子氏が『宝満山歴史散歩』の新稿(2000年)の中で、次のように書いています。

   静嘉堂文庫蔵の『竈門山宝満宮伝記』には、大田之社、小田之社が御笠山の地主神で、竈門大神にこの山を譲った時、「あやしくもわれ濡れ衣を着つるかな御笠の山を人にとられて」と詠って、一の鳥居の側の濡衣宮に遷ったと記している。

 これによって、宝満山がもとは秋葉神社の神体山だったことを理解できます。秋葉神社の神は後に、博多の天王山に移って祇園社になったと考えてよいでしょう。秋葉神社(宝満宮)の古い神を祭っているからこそ、牛頭天王八幡宮は宝満旧社といえるのです。

 そして秋葉神社でも、志賀島に向かって伸びる三宮を確認できます。志賀海神社と、粕屋町仲原の日守神社と、秋葉神社が一直線に並んでいます。

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