ナギサの都 |
福岡市の南区と早良(さわら)区の境にある油山は、アヒラがアビラからアブラへと訛ったものと考えます。油山の東には、二つの春日神社が並んでいます。筑紫郡那珂川町恵子(えこ)と春日市春日1丁目の春日神社です。
そしてここにも、志賀島に伸びる三宮があります。志賀海神社と、福岡市中央区今泉1丁目の若宮神社と、春日神社が一直線に並んでいます。若宮神社の祭神はトヨタマヒメ(アマテラス2世・卑弥呼)ですから、春日神社のタケミカヅチ(オシホミミ・ナギサ)の名目上の母にあたります。
ただ若宮神社のあたりは、かつては入江だった可能性があります。この神社が初めからここにあったとすれば、三宮は成立しません。そこで『筑前国続風土記拾遺』を調べてみました。すると、やはり移転した神社でした。福岡商家の巻によれば、若宮神社が回禄(火災)にあって、薬院町から八段田村に移ったと書かれています。さらに昔は、土手町にあったとも書かれています。
文化9年(1812年)に書かれた『福岡城下町と博多近隣図』と現代の地図を比較すると、昔の八段田村は今の社地です。そこから200メートル北に、昔の薬院町がありました。さらに200メートル北の大名小学校のあたりに東西に長く「土手の丁」がありました。土手町という町名は見あたりませんから、土手の丁に昔の若宮神社があったと思われます。
大名小学校のあたりは、昔、長浜のあったところです。福岡城がただの小山だった頃に、小山から東北に突き出た砂浜があって、長浜と呼ばれました。長浜の先端が今の須崎(洲崎)で、北の博多湾と南の入江を長浜が隔てていました。したがってもとの若宮神社のあたりは昔からの陸地で、おそらく遠い昔は松林だったことでしょう。この長浜は古い地図にも書かれています。博多の櫛田神社境内にある博多歴史館で、その古地図を見たことがあります。
ちなみに、『福岡城下町と博多近隣図』が書かれた1812年には、伊能忠敬が筑前国の海辺測量に来ていました。『筑前国続風土記拾遺』を書いた青柳種信が、当時黒田藩の浦方頭取に任じられていて、伊能忠敬の応接にあたりました。その折、「貴殿ほど国学に精通した人にはあったことがない。」と褒められたといいます。青柳種信は黒田藩士ですが、本居宣長の門下生で、歴史学者でもありました。
春日神社は、開化天皇(オシホミミ・ナギサ)の都の跡と思われます。
問題は墓を示す三宮です。初めに目に付いたのは東南に伸びる三宮です。春日神社と、太宰府市朱雀(すざく)4丁目の鹿島神社と、筑紫野市阿志岐の荒船神社が一直線に並んでいます。荒船神社の近くには大宮司橋や古墳群があって、春日神社との関連が想像されます。
また、北に目を向けると、こちらには前方後円墳を伴う三宮が二つ見つかりました。
一つは、博多区那珂1丁目の那珂八幡宮と、博多区諸岡6丁目の八幡宮と、春日神社を結ぶ三宮です。那珂八幡宮は、全長75メートルの前方後円墳の上に建っており、これが開化天皇の墓と思われます。古墳の形は纒向(まきむく)の古い古墳に似た出現期の前方後円墳です。
開化天皇は退位した天皇ですから、死亡年はわかりません。台与と共に、前方後円墳に埋葬された最初の天皇ではないかと思われます。また、那珂八幡古墳の主軸を東に延長すると、卑弥呼の墓があります。故意か偶然かわかりませんが、気になります。
二つ目は、春日市須玖北9丁目にある須玖御陵古墳と、春日神社を結ぶ三宮です。この三宮の中間には春日市伯玄町があります。伯玄町は伯玄社と呼ばれる古い神社から取った地名です。『筑前国続風土記拾遺』の那珂郡の巻によれば、小倉村に「伯玄か塔とて石祠あり。伯玄といひし強力の者の墳という。」とあります。この伯玄社を中津宮と考え、伯玄の墳は須玖御陵古墳をさすと考えます。伯玄を開化天皇の別名と見るのです。
須玖御陵古墳は未調査ですが、これも出現期の前方後円墳です。全長30メートル、後円部径20メートルの小さな古墳です。この古墳の主軸は志賀島を向いています。大きさから言えば、開化天皇の墓というより、他の后の墓とした方が良いかもしれません。
志賀島の謎 |
日向三代の聖地を調べていくと、志賀島が三代の聖地だとわかります。だとすれば、志賀島にニニギの墓がある可能性は小さくなります。その代わりに新たな疑問がわいてきます。志賀島はなぜ三代の聖地になったのか。志賀島は金印の出土地ですが、金印と日向三代は関係あるのでしょうか。気になるところですが、次のように考えたらどうでしょう。
かつて福岡地方に君臨した委奴(いな)国王は、西暦57年に後漢の光武帝から「漢委奴国王」の金印を授与されました。ところが、朝鮮半島から来た新王家に追われ、委奴国の王は出雲に移りました。その後新王家の日向三代が、出雲(委奴国)を吸収合併して、大和朝廷を開きました。新王家では三代の業績を忘れないように、神武天皇以来の聖地である志賀島に金印を埋めて、そこを三代に共通の聖地にしました。
さて、その金印ですが、福岡市の教育委員会が送ってくれた志賀島調査報告書のコピーによると、金印の出土地について、最近奇妙な問題が持ち上がっています。その報告書の作成者は、塩屋勝利氏です。
金印出土地の周辺では、これまで何度か考古学の調査が行われてきました。その結果、これまで出土地とされてきた叶(かな)の崎(金印公園の下)が、14世紀以前には海だったことがわかりました。そのために本当の出土地は不明となり、あらためて出土地を探すことになったといいます。
もともと叶の崎が金印出土地とされたのは、発見当時の届出文書『那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上ル口上(こうじょう)の覚』に叶の崎と書かれているからです。届出文書を書いたのは庄屋の長谷川武蔵です。
ところが、この届出文書とは違う内容の記録も残されています。加藤一純・鷹取周成の書いた『筑前国続風土記附録』には、次のように書かれているといいます。
明神の境地より得たる故、神宝とせん事を占なひしに神鬮(しんきゅう)下らざること再三也といふ。故に府廷に呈(とど)けしとり。 (鬮……くじ。吉凶を占なうもの。 府廷……藩のこと。) |
また、青柳種信が伊能忠敬の求めに応じて書いた『後漢書金印略考』には、次のように書かれているといいます。
尋常の物ならねは民家に蔵(おさめ)おかむも憚(ハバカリ)アリ。志賀大明神に奉納(オサメ)ムトテ宮司の坊をたのみて神鬮(しんきゅう)を占ふに神慮にかなはぬ由にて遂に奉納せさりしといヘリ。 |
明神の境地を広く解釈すれば、志賀島全島が出土候補地です。しかし狭く解釈すれば、神社の境内となります。また、志賀大明神は、志賀海神社のことです。『延喜式』にも記載された古い神社で、『万葉集』にも詠われています。
ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬとも 吾は忘れじ 志珂の皇神(すめがみ) (1,230)
志賀海神社の祭神は、上津綿津見神・中津綿津見神・底津綿津見神といって、イザナギが阿波岐原でミソギをしたときに生まれた神々とされます。つまり、イザナギと縁の深い神々です。しかも三神で一組になるところは、日向三代を連想させます。
また、金印の出土遺構としては、積石塚の石棺のようなものが考えられています。届出文書に、出土したときの状況が次のように書かれているからです。
小さな石が段々に出てきて、その下に二人持ちほどの石があり、それをカナテコで除いたら石の間に光る物があった。 |
問題は、明神の境地で出土した金印が、なぜ村はずれの辺鄙(へんぴ)なところで出土したことにされたのかと言うことでしょう。届出文書を書いた庄屋の長谷川武蔵は、金印の持つ意味に恐れを抱いて、発見場所を偽ったのではないでしょうか。志賀海神社から金印が出土したとなれば、昔、神社の神官家が朝廷を差し置いて、勝手に中国に使者を派遣したという疑いがかかります。それを恐れて、神社とは無縁のところから金印が出土したことにしたかったのでしょう。神宝にしようとして拒まれたのも、このためでしょう。
当時の黒田藩には二つの藩校がありました。修猷館(しゅうゆうかん)と甘棠館(かんとうかん)です。このうち甘棠館の館長は、町家(医者)出身の亀井南冥でした。甚兵衛が金印を発見したときに、人を介して、亀井南冥に鑑定の依頼がありました。亀井南冥がいち早く『金印弁』を書いて、金印の正体を明らかにしたのは、このためです。
亀井南冥は那珂郡役所の奉行に知らせ、奉行は藩に報告することを決めました。そこで庄屋に命じて、届出文書を書かせたといいます。庄屋の長谷川武蔵は、亀井南冥から金印の持つ意味を聞いたと思われます。
塩屋勝利氏は、雑誌『歴史読本・1996年4月号』に「漢委奴国王金印の発見場所を探せ」を発表しました。その中で、『金印弁』に添えられた志賀島の地図(金印弁付図)を紹介しました。その地図を見ると、志賀島北部の海辺地形が東西逆になっています。
これは亀井南冥の記憶違いかもしれません。しかし、金印の出土地が志賀海神社であることを示す、隠されたメッセージではないかとも思われます。裏の事情を知りながらも、諸々の事情からそれを明らかにできなかった亀井南冥の、苦肉の策と思われるのです。当時の福岡藩では、金印が漢から下賜されたとする亀井南冥の見解には反対意見が多かったといいます。日本が中国に対して臣下の礼をとるはずはないと考えられたのです。
また、志賀海神社の宮司阿曇(あずみ)家の古文書によれば、掘り出した人物は農民秀治だといいます。これが事実なら、甚兵衛は偽名かもしれません。島には、甚兵衛が実在した痕跡がないともいいます。不可解なことです。
出たものが出たものだけに、様々な人々を巻き込んで、上を下への大騒ぎが密かに慌ただしく進行したと想像されます。