(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
U古暦の巻  六章 邪馬台国の年代論 (19・202122)
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19 日向三代(前)

3世紀の天皇

 10代崇神天皇より前の時代は3世紀、邪馬台国の時代です。歴史をさかのぼって、ここまでやってきました。しかし崇神天皇と初代神武天皇の間の八代は、欠史八代と呼ばれてその事跡が伝わっていません。それでも在位年数は伝わっています。在位年代と系図は復元できます。しかも、天皇の事跡が実は神話に姿を変えたこともわかっています。

 開化天皇は、崇神天皇の兄であるかのように見えます。在位は60年とされますが、その中に孝元天皇の57年が含まれます。差し引き3年ですが、これは半年暦です。これを信じれば、274年前半11月に即位し、274年後半を元年として、275年後半4月まで在位したことになります。

 孝元天皇は、開化天皇の母であるかのように見えます。在位は半年暦の57年です。246年前半1月にこの年を元年として即位し、274年前半9月に亡くなったことになります。この天皇の治世は、女王台与の時代とよく重なります。孝元天皇が女王なら、女王台与と同一人物の可能性が強くなります。もちろん、女王に違いないと思います。

 ただし「伝説の巻」で説明したとおり、開化天皇は実はオシホミミ・難升米です。また、孝元天皇はトヨアキヅシヒメ・女王台与です。したがって、二人の即位の順番は入れ替わっています。そこで二人の順番を入れ替えて、在位年代を修正します。

 孝元天皇は崇神天皇の母で、在位は半年暦の57年です。247年後半1月にこの年を元年として即位し、275年後半9月に亡くなりました。

 開化天皇は孝元天皇の夫で、在位は半年暦の3年です。245年後半11月に即位し、246年前半を元年として、247年前半4月に退位しました。

 孝霊天皇は開化天皇の伯母にあたります。在位は半年暦の76年です。208年前半1月にこの年を元年として即位し、245年後半2月に亡くなりました。この天皇もおそらく女王で、卑弥呼(アマテラス)のことでしょう。孝霊天皇の霊の字は、鬼道(宗教)に仕えたという女王卑弥呼にふさわしいと思います。

 孝安天皇は孝霊天皇の弟(スサノオ)で、開化天皇の父です。在位は102年ですが、その中に孝昭天皇の83年が含まれます。差し引き19年ですが、これは半年暦です。198年後半1月にこの年を元年として即位し、207年後半1月に退位しました。

 孝昭天皇は、孝安天皇と孝霊天皇の父(イザナギ)です。在位は83年ですが、その中に懿徳
(いとく)天皇の34年が含まれます。差し引き49年ですが、これは半年暦です。174年前半1月にこの年を元年として即位し、198年前半8月に亡くなりました。

神話の中に神話

 倭国統一への動きはイザナギの時代に始まり、スサノオの時代を経て、オシホミミの時代に完了します。この三代の活躍は、当時の人々によほど強い印象を与えたようです。三代をモデルにして、複数の神話が作られました。注意して読むと、高天原神話の中から、また別の高天原神話が顔を出します。

 たとえば、高天原から三人の武将が次々に派遣されて、葦原中国
(あしはらのなかつくに)を平定した話がそれにあたります。葦原中国は倭国をさします。出雲は、葦原中国の盟主的な存在だったのでしょう。三人の武将は、アメノホヒ(天菩比神)・アメノワカヒコ(天若日子)・タケミカヅチ(建御雷神)の三人です。

 アメノホヒとアメノワカヒコは、出雲に好意的なところがイザナギとスサノオによく似ています。三人目のタケミカヅチだけは、出雲に対して特別な感情を持ちませんでした。タケミカヅチは、出雲勢力を信濃国(長野県)の諏訪にまで追い詰めて、ついに葦原中国(倭国)を平定しました。

 タケミカヅチは、「葦原中国はひどく騒がしい。」と言った、あの頼りなげなオシホミミの別名です。中国では難升米と呼ばれ、天皇系譜では開化天皇と呼ばれます。開化という諡号は、倭国を統一して新時代を開いたこの天皇にふさわしいと思います。

日向三代

 葦原中国の平定のあとには、日向三代の神話が続きます。ニニギ(日子番能迩々芸命(ひこほのににぎのみこと))・ホデミ(日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと))・ナギサ(日子波限建(ひこなぎさたけ)鵜葺草(うがや)葺不合命(ふきあえずのみこと))の三代の神話です。しかしこの三代も実は、イザナギ・スサノオ・オシホミミの別名です。

 イザナミはヒノカグツチ(火之迦具土神)を生んだ時に、その火に焼かれて亡くなりましたが、ニニギの后のコノハナノサクヤヒメ(木花佐久夜毘売命)もやはり、炎に包まれてホデミを生んだとされます。ヒノカグツチはスサノオの別名でしょう。これによって、イザナギはニニギと同一人物となります。当然ながら、スサノオとホデミも、またオシホミミとナギサも同一人物となります。

 三代の活躍を間近に見た人々は、氏族ごとに違う視点で三人を見つめ、死後には違う諡号を送ってその物語を伝えたのでしょう。後に神話の集大成をする人が現れたときに、その人は、一つの史実から複数の神話が作られたことに気付きませんでした。そのために誤って、今あるような形に神話をつなぎ合わせたのです。

 神話をつないで再構成した人は、おそらく聖徳太子でしょう。『日本書紀』の推古天皇の条によれば、聖徳太子は一度に十人の話を聞くことができたといいます。これは、神話の集大成をしたときの仕事ぶりを大げさに、あるいは象徴的に表現したものです。舎人親王らの悪戦苦闘は、すでに聖徳太子の頃に始まっていたのです。


 図表29  再構成された神話


 ◯本来の神話の姿(並列)

 ──┬─→高天原………………(別伝1)─→┐
    ├─→三武将………………(別伝2)─→┤
    ├─→日向三代……………(別伝3)─→┤
    └─→神武天皇と欠史八代(別伝4) ─→┴─→崇神天皇

 ◯再構成された神話の姿(直列)


 ─→高天原(別伝1)──→三武将(別伝2)──┐
   ┌──────────────────┘
   └─→日向三代(別伝3)─┐
       ┌────────┘
       └─神武天皇と欠史八代(別伝4)─→崇神天皇
 

 日向三代は、三代そろって日向に都を置いたのでそう呼ばれます。しかし同じ時代に在位した二人の女王は数えられていません。ホデミの姉と、ナギサの后のタマヨリヒメ(玉依毘売命)のことです。この二人は、アマテラス2世と3世であり、また卑弥呼と台与でもあります。

 女王が数えられていないことは奇妙なことであり、また重要なことでもあります。それは、思想的に女王を認めたくない人々がいたこと、それも日本の建国に関わった人々の中にそういう勢力のあったことを示すからです。のちの世に、孝霊天皇(卑弥呼・アマテラス2世)や孝元天皇(台与・アマテラス3世)を男性とする誤解が生まれたり、神功皇后が天皇として認められなかったりするのは、そのためでしょう。

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