1 論争の始まり(前)
『日本書紀』の神功皇后の条では、『三国志』の「魏志倭人伝」や『晋書』の記事を引用して、邪馬台国の女王二人を神功皇后に比定しています。二人の女王を神功皇后一人に比定するのは無理だと思いますが、そうしています。その理由は、神功皇后の年代と二人の女王の年代が、記録の上で一致したからでしょう。『日本書紀』では、古い天皇の在位年数は長すぎます。そのため4世紀後半と思われる神功皇后の年代が、記録の上では3世紀になったのです。もっとも、歴史書と言っても『日本書紀』や『古事記』は、33代推古天皇より古い時代の記事は、あまり信用されていません。江戸時代に、大阪の商家の番頭だった山片蟠桃(やまがたばんとう)は、実在の確かな天皇は神功皇后の子である15代応神天皇からと説きました。今では広く、この説が支持されています。それ以前の天皇は、実在すら疑われています。
応神天皇の在位年代は400年ごろとされますから、3世紀の邪馬台国のこととなると、雲をつかむような話になります。しかし、もしすべての天皇が実在したとすれば、邪馬台国の時代には、すでに天皇がいたことになります。邪馬台国の二人の女王は、いずれかの天皇と同時代の人となります。江戸時代には、このような問題を含めて人々の関心が邪馬台国に集まるようになりました。
正徳6年(1716年)になると、新井白石が『古史通或問(こしつうわくもん)』を書いて、神功皇后説を支持しています。しかし、女王卑弥呼(ひみこ・ひむか)と宗女台与(たいよ・とよ)のことはわからないとして、言及を避けています。
新井白石は『魏志倭人伝』に登場する国々の地名比定を行って、邪馬台国(大和国)への道筋を始めて明らかにしました。新井白石は、行程記事の里数や所要日数には触れずに、もっぱら音の類似によって地名を比定しています。新井白石は、『日本書紀』の卑弥呼神功皇后説をひとまず肯定したものの、『魏志倭人伝』の記事が神功皇后の記事や日本の地理と
かならずしも一致しないことに気付き、そのために沈黙した部分があると思います。その沈黙は、その後に始まる邪馬台国論争を予感させます。
図表1 新井白石の地名比定 |
対馬(たいま・たま)国 |
対馬(つしま)国(長崎県対馬) |
一支(いちし・いちき)国 |
壱岐(いき)国(長崎県壱岐) |
末盧(まつろ・まつら)国 |
肥前国松浦郡(佐賀県唐津市) |
伊都(いと・いた・うた)国 |
筑前国怡土(いと)郡(福岡県糸島地方) |
奴(ぬ・な)国 |
筑前国那珂郡(福岡市中央区) |
不弥(ふみ・ほむ)国 |
筑前国粕屋郡宇美(うみ)(福岡県粕屋郡宇美町) |
投馬(とうま・つま)国 |
備後国鞆(とも)の浦(広島県福山市)
または摂津国須磨の浦(兵庫県神戸市) |
邪馬台(やまたい・やまと)国 |
大和国(奈良県) |
狗奴(くぬ・こな)国 |
肥後国球磨郡(熊本県人吉市・球磨郡) |
|
安永7年(1788年)には、本居宣長が『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』を書いて、卑弥呼は神功皇后や大和朝廷の名前を騙(かた)った熊襲(くまそ)の偽者で、女王国の位置は大和であるはずがないと言っています。伊勢国松坂の医者で国学者の本居宣長は思想的に、神功皇后が魏に服属したとは認められなかったのです。
本居宣長は、奴国を那の津、不弥国を宇美に比定し、投馬国を日向(ひむか・ひゅうが)国の都万(つま)神社(宮崎県西都市)付近に比定しています。邪馬台国は南九州の熊襲で、その女王も実は男王だろうと言います。
『日本書紀』が示した卑弥呼神功皇后説に対して新井白石は肯定し、本居宣長は否定しました。しかし、卑弥呼と神功皇后を同時代の人とする点では、二人の意見は一致します。ところが高城(たき)修三氏の『紀年を解読する』によれば、この頃から『日本書紀』の紀年に疑問を持つ人々が現れました。
実は、本居宣長も『日本書紀』の紀年に不信を持った一人です。神功朝や応神朝の朝鮮関連の記事が、『東国通鑑(とうごくつがん)』の朝鮮史より干支二運(120年)繰り上げられていることを指摘しています。しかし、朝鮮関連の記事だけ120年繰り下げればよいと考えました。卑弥呼と神功皇后を同時代の人とする見解は変えませんでした。
それでも『日本書紀』の紀年より、『古事記』に書かれた天皇の没年干支を重視し、これによって天皇の死亡年を推定しています。本居宣長は、漢文的修飾の強い『日本書紀』を嫌ったようです。
享和(きょうわ)2年(1802年)には、山片蟠桃が『夢の代』を書いて、神話を作り話として否定しました。14代仲哀天皇までの記事も作り話としました。
江戸時代には、その初期に『日本書紀』や『古事記』の版本が刊行され、やがて注釈書も刊行されるようになりました。延享(えんきょう)4年(1747年)に谷川士清(ことすが)が『日本書紀通証』を刊行し、天明5年(1785年)頃に河村秀根(ひでね)と益根(ますね)の父子が、『書紀集解』を完成しました。本居宣長も寛政10年(1798年)に『古事記伝』を完成しました。
図表2 日本書紀の在位年表 (天皇名の振り仮名は、伝統的な読み方)
|
代 |
天皇 |
在位年数 |
元年〜死亡年 |
死後空位 |
1 |
神武(じんむ) |
76 |
BC660〜BC585 |
3 |
2 |
綏靖(すいぜい) |
33 |
BC581〜BC549 |
ー |
3 |
安寧(あんねい) |
38 |
BC548〜BC511 |
ー |
4 |
懿徳(いとく) |
34 |
BC510〜BC477 |
1 |
5 |
孝昭(こうしょう) |
83 |
BC475〜BC393 |
ー |
6 |
孝安(こうあん) |
102 |
BC392〜BC291 |
ー |
7 |
孝霊(こうれい) |
76 |
BC290〜BC215 |
ー |
8 |
孝元(こうげん) |
57 |
BC214〜BC158 |
ー |
9 |
開化(かいか) |
60 |
BC157〜BC98 |
ー |
10 |
崇神(すじん) |
68 |
BC97〜BC30 |
ー |
11 |
垂仁(すいにん) |
99 |
BC29〜 70 |
ー |
12 |
景行(けいこう) |
60 |
71〜130 |
ー |
13 |
成務(せいむ) |
60 |
131〜190 |
1 |
14 |
仲哀(ちゅうあい) |
9 |
192〜200 |
ー |
― |
神功(じんぐう) |
69 |
201〜269 |
ー |
15 |
応神(おうじん) |
41 |
270〜310 |
2 |
16 |
仁徳(にんとく) |
87 |
313〜399 |
ー |
17 |
履中(りちゅう) |
6 |
400〜405 |
ー |
18 |
反正(はんぜい) |
5 |
406〜410 |
1 |
19 |
允恭(いんきょう) |
42 |
412〜453 |
ー |
20 |
安康(あんこう) |
3 |
454〜456 |
ー |
21 |
雄略(ゆうりゃく) |
23 |
457〜479 |
ー |
22 |
清寧(せいねい) |
5 |
480〜484 |
ー |
23 |
顕宗(けんぞう) |
3 |
485〜487 |
ー |
24 |
仁賢(にんけん) |
11 |
488〜498 |
ー |
25 |
武烈(ぶれつ) |
8 |
499〜506 |
ー |
26 |
継体(けいたい) |
25 |
507〜531 |
2 |
27 |
安閑(あんかん) |
2 |
534〜535 |
ー |
28 |
宣化(せんか) |
4 |
536〜539 |
ー |
29 |
欽明(きんめい) |
32 |
540〜571 |
ー |
30 |
敏達(びだつ) |
14 |
572〜585 |
ー |
31 |
用明(ようめい) |
2 |
586〜587 |
ー |
32 |
崇峻(すしゅん) |
5 |
588〜592
|
ー |
33 |
推古(すいこ) |
36 |
593〜628 |
ー |
|
図表4 天皇没年の西暦比定 (ただし、BC186 ・BC1Cは即位年) |
代 |
天皇 |
日本書紀 |
古事記 |
本居宣長 |
星野恒 |
菅政友
那珂通世 |
水野祐
|
1 |
神武 |
BC585 |
ー |
ー |
BC186 |
BC1C |
ー |
2 |
綏靖 |
BC549 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
3 |
安寧 |
BC511 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
4 |
懿徳 |
BC477 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
5 |
孝昭 |
BC393 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
6 |
孝安 |
BC291 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
7
|
孝霊 |
BC215 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
8 |
孝元 |
BC158 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
9 |
開化 |
BC98 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
10 |
崇神 |
BC30 |
戊寅 |
BC43 |
198 |
258 |
318 |
11 |
垂仁 |
70 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
12 |
景行 |
130 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
13 |
成務 |
190 |
乙卯 |
175 |
295 |
355 |
355 |
14 |
仲哀 |
200 |
壬戌 |
182 |
302 |
362 |
362 |
― |
神功 |
269 |
ー |
274 |
ー |
ー |
ー |
15 |
応神 |
310 |
甲午 |
334 |
394 |
394 |
394 |
16 |
仁徳 |
399 |
丁卯 |
367 |
427 |
427 |
427 |
17 |
履中 |
405 |
壬申 |
372 |
432 |
432 |
432 |
18 |
反正 |
410 |
丁丑 |
377 |
437 |
437 |
437 |
19 |
允恭 |
453 |
甲午 |
454 |
454 |
454 |
454 |
20 |
安康 |
456 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
21 |
雄略 |
479 |
己巳 |
489 |
489 |
489 |
489 |
22 |
清寧 |
484 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
23 |
顕宗 |
487 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
24 |
仁賢 |
498 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
25 |
武烈 |
506 |
ー |
ー |
ー |
ー |
ー |
26 |
継体 |
531 |
丁未 |
527 |
527 |
527 |
527
|
高城修三『紀年を解読する』より、一部訂正して抜粋した。 |
|