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序章 邪馬台国研究の系譜 12

1 論争の始まり

日本書紀と卑弥呼

 『日本書紀』の神功皇后の条では、『三国志』の「魏志倭人伝」や『晋書』の記事を引用して、邪馬台国の女王二人を神功

皇后に比定しています。二人の女王を神功皇后一人に比定するのは無理だと思いますが、そうしています。その理由は、神功

皇后の年代と二人の女王の年代が、記録の上で一致したからでしょう。『日本書紀』では、古い天皇の在位年数は長すぎま

す。そのため4世紀後半と思われる神功皇后の年代が、記録の上では3世紀になったのです。もっとも、歴史書と言っても『日

本書紀』や『古事記』は、33代推古天皇より古い時代の記事は、あまり信用されていません。江戸時代に、大阪の商家の番頭

だった山片蟠桃
(やまがたばんとう)は、実在の確かな天皇は神功皇后の子である15代応神天皇からと説きました。今では広

く、この説が支持されています。それ以前の天皇は、実在すら疑われています。


 応神天皇の在位年代は400年ごろとされますから、3世紀の邪馬台国のこととなると、雲をつかむような話になります。しか

し、もしすべての天皇が実在したとすれば、邪馬台国の時代には、すでに天皇がいたことになります。邪馬台国の二人の女王

は、いずれかの天皇と同時代の人となります。江戸時代には、このような問題を含めて人々の関心が邪馬台国に集まるように

なりました。

肯定か否定か

 正徳6年(1716年)になると、新井白石が『古史通或問(こしつうわくもん)』を書いて、神功皇后説を支持しています。しか

し、女王卑弥呼
(ひみこ・ひむか)と宗女台与(たいよ・とよ)のことはわからないとして、言及を避けています。


 新井白石は『魏志倭人伝』に登場する国々の地名比定を行って、邪馬台国(大和国)への道筋を始めて明らかにしました。

新井白石は、行程記事の里数や所要日数には触れずに、もっぱら音の類似によって地名を比定しています。新井白石は、『日

本書紀』の卑弥呼神功皇后説をひとまず肯定したものの、『魏志倭人伝』の記事が神功皇后の記事や日本の地理と かならず

しも一致しないことに気付き、そのために沈黙した部分があると思います。その沈黙は、その後に始まる邪馬台国論争を予感

させます。

 図表1 新井白石の地名比定
対馬(たいま・たま) 対馬(つしま)国(長崎県対馬)
一支(いちし・いちき) 壱岐(いき)国(長崎県壱岐)
末盧(まつろ・まつら) 肥前国松浦郡(佐賀県唐津市)
伊都(いと・いた・うた) 筑前国怡土(いと)郡(福岡県糸島地方)
(ぬ・な) 筑前国那珂郡(福岡市中央区)
不弥(ふみ・ほむ) 筑前国粕屋郡宇美(うみ)(福岡県粕屋郡宇美町)
投馬(とうま・つま) 備後国鞆(とも)の浦(広島県福山市)
または摂津国須磨の浦(兵庫県神戸市)
邪馬台(やまたい・やまと) 大和国(奈良県)
狗奴(くぬ・こな) 肥後国球磨郡(熊本県人吉市・球磨郡)

 安永7年(1788年)には、本居宣長が『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』を書いて、卑弥呼は神功皇后や大和朝廷の名前を

(かた)った熊襲(くまそ)の偽者で、女王国の位置は大和であるはずがないと言っています。伊勢国松坂の医者で国学者

の本居宣長は思想的に、神功皇后が魏に服属したとは認められなかったのです。


 本居宣長は、奴国を那の津、不弥国を宇美に比定し、投馬国を日向
(ひむか・ひゅうが)国の都万(つま)神社(宮崎県西都

市)付近に比定しています。邪馬台国は南九州の熊襲で、その女王も実は男王だろうと言います。


 『日本書紀』が示した卑弥呼神功皇后説に対して新井白石は肯定し、本居宣長は否定しました。しかし、卑弥呼と神功皇后

を同時代の人とする点では、二人の意見は一致します。ところが高城
(たき)修三氏の『紀年を解読する』によれば、この頃

から『日本書紀』の紀年に疑問を持つ人々が現れました。

紀年論の登場

 実は、本居宣長も『日本書紀』の紀年に不信を持った一人です。神功朝や応神朝の朝鮮関連の記事が、『東国通鑑(とうご

くつがん)
』の朝鮮史より干支二運(120年)繰り上げられていることを指摘しています。しかし、朝鮮関連の記事だけ120年繰

り下げればよいと考えました。卑弥呼と神功皇后を同時代の人とする見解は変えませんでした。


 それでも『日本書紀』の紀年より、『古事記』に書かれた天皇の没年干支を重視し、これによって天皇の死亡年を推定して

います。本居宣長は、漢文的修飾の強い『日本書紀』を嫌ったようです。


 享和
(きょうわ)2年(1802年)には、山片蟠桃が『夢の代』を書いて、神話を作り話として否定しました。14代仲哀天皇ま

での記事も作り話としました。


 江戸時代には、その初期に『日本書紀』や『古事記』の版本が刊行され、やがて注釈書も刊行されるようになりました。延

(えんきょう)4年(1747年)に谷川士清(ことすが)が『日本書紀通証』を刊行し、天明5年(1785年)頃に河村秀根(ひで

ね)
と益根(ますね)の父子が、『書紀集解』を完成しました。本居宣長も寛政10年(1798年)に『古事記伝』を完成しまし

た。

 図表2  日本書紀の在位年表 (天皇名の振り仮名は、伝統的な読み方です)

天皇 在位年数 元年〜死亡年 死後空位
 1 神武(じんむ) 76 BC660BC585
 2 綏靖(すいぜい) 33 BC581BC549
 3 安寧(あんねい) 38 BC548BC511
 4 懿徳(いとく) 34 BC510BC477
 5 孝昭(こうしょう) 83 BC475BC393
 6 孝安(こうあん) 102 BC392BC291
 7 孝霊(こうれい) 76 BC290BC215
 8
孝元(こうげん)  57  BC214BC158 
 9
開化(かいか)  60 BC157BC98
10 崇神(すじん)  68 BC97BC30
11 垂仁(すいにん)  99 BC29〜 70
12 景行(けいこう)  60 71130
13 成務(せいむ)  60 131190
14 仲哀(ちゅうあい)   9 192200
神功(じんぐう)  69 201269
15 応神(おうじん)  41 270310
16 仁徳(にんとく)  87 313399
17 履中(りちゅう)   6 400405
18 反正(はんぜい)   5 406410
19 允恭(いんきょう)  42 412453
20 安康(あんこう)   3 454456
21 雄略(ゆうりゃく)  23 457479
22 清寧(せいねい)   5 480484
23 顕宗(けんぞう)   3 485487
24 仁賢(にんけん)  11 488498
25 武烈(ぶれつ)   8 499506
26 継体(けいたい)  25 507531
27 安閑(あんかん)   2 534535
28 宣化(せんか)   4 536539
29 欽明(きんめい)  32 540571
30 敏達(びだつ)  14     572585
31 用明(ようめい)   2     586587
32 崇峻(すしゅん)   5

    588592

33 推古(すいこ)  36     593628
 図表4  天皇没年の西暦比定 (ただし、BC186 BC1Cは即位年)
天皇 日本書紀 古事記 本居宣長 星野恒 菅政友
那珂通世

水野祐

1 神武 BC585 BC186 BC1C
綏靖 BC549
安寧 BC511
懿徳 BC477
孝昭 BC393
孝安 BC291

孝霊 BC215
孝元 BC158
開化 BC98
10 崇神 BC30 戊寅  BC43 198 258 318
11 垂仁 70
12 景行 130
13 成務 190 乙卯 175 295 355 355
14 仲哀 200 壬戌 182 302 362 362
神功 269 274
15 応神 310  甲午 334 394 394 394
16 仁徳 399 丁卯 367 427 427 427
17 履中 405 壬申 372 432 432 432
18 反正 410  丁丑 377 437 437 437
19 允恭 453  甲午 454 454 454 454
20 安康 456
21 雄略 479  己巳   489 489 489  489
22 清寧 484
23 顕宗 487
24 仁賢 498
25 武烈 506
26 継体 531  丁未   527 527 527

 527

 高城修三『紀年を解読する』より、一部訂正して抜粋した。

明治の紀年論

 明治時代になると、日本にやってきた西洋人も研究に参加しました。


 まずデンマーク人の
ウィリアム・ブラムセンが、明治12年(1880年)に画期的な論文「日本年代表」を書いています。そ

のなかでブラムセンは、仁徳天皇以前には天皇の寿命が著しく長いことから、半年を一年と数える古暦(半年暦)の存在を想

定しています。しかし半年暦は、その後長く無視されました。ようやく昭和49年(1974年)になって、沢武人氏が『宮崎県総

合博物館紀要』に「春耕・秋収−古代の紀年法についての提案」を発表し、半年暦を取り上げました。


 一方、日本人の間では、本居宣長に倣って『古事記』に書かれた天皇の没年干支を重視する考えが主流でした。菅政友は、

10代崇神天皇の死亡年を258年とし、14代仲哀天皇の死亡年を362年としています。


 戦後になると、水野祐氏が菅政友の年表の中で、崇神天皇の死亡年を318年とする修正案を発表しました。今ではこちらが

天皇の在位年代を考えるよい目安になります。

九州説の展開

 明治25年(1892年)に菅政友は、『史学会雑誌』に「漢籍倭人考」を発表しました。菅政友は本居宣長と同じように、順次

式で行程を読み取っています。菅政友は、狗奴国についても本居宣長と同じ見方をしました。


 菅政友は、邪馬台国を熊襲と見たようです。また、卑弥呼の時代を崇神朝にあてています。後の景行朝に大和朝廷が南九州

を征服したとする『日本書紀』や『古事記』の記事を踏まえた説と見て間違いありません。


 明治40年(1907年)に久米邦武は、『日本古代史』を発表し、卑弥呼を景行朝の八女津
(やめつ)姫に比定しました。これ

は菅政友の紀年論ではなく、崇神天皇の死亡年を198年とする紀年論を採用しています。


 明治時代には、まだ菅政友の紀年論は定説とはならず、星野恒や吉田東伍が、崇神天皇の死亡年を198年とする説を発表し

ていたのです。しかも、明治時代には、星野恒らの紀年論のほうが優勢でした。2世紀後半の倭国大乱を、崇神天皇の四道将

軍の派遣と結び付けて理解したのでしょう。


 久米邦武は邪馬台国を筑後国山門郡とし、博多湾から肥前の西を回って有明海に入る航路を想定しました。


 明治43年(1910年)には、白鳥庫吉
(しらとりくらきち)が「倭女王卑弥呼考」を発表しました。この中で白鳥庫吉は、郡よ

り女王の都まで、総行程を一万二千里とする記事に着目しました。不弥国までの道のりは一万七百里ですから、残りは千三百

里です。道のりの比率を比べて、不弥国から千三百里の邪馬台国は、肥後国内に求められると考えました。一方で、日数記事

は誇大だから採用しないとしています。


 邪馬台国はヤマト国と解釈できるにもかかわらず。明治時代には、邪馬台国を九州に求め、大和朝廷の敵対者と見る説が多

くありました。しかし、九州説は単純ではありません。解釈に巾があるため候補地が散在し、有力候補を絞り込むのは困難で

す。九州説の論者は他に、星野恒・吉田東伍・那珂通世らがいます。


劣勢の大和説

 劣勢だった大和説の論者には、内藤湖南がいます。内藤湖南は崇神天皇の没年を198年とする紀年論によって、景行朝を卑

弥呼の時代にあてました。


 明治43年(1910年)に内藤湖南は、雑誌『芸文』に「卑弥呼考」を発表しました。その中で、内藤湖南は卑弥呼を倭姫

(やまとひめ)とし、その弟を景行天皇としています。内藤湖南は新井白石と同じく瀬戸内航路を想定しましたが、投馬国の比

定地がかなり西に偏
(かたよ)っています。山口県防府市(玉祖郷)を投馬国とし、山口県熊毛郡上関(かみのせき)町までを

水行十日にあて、そこから陸行
一月で大和に着くとしています。


 
図表3  古事記の天皇系図

               イザナギ  ┌─アマテラス──┐
コトアマツカミ カミヨナナヨ   ├───┼─ツクヨミ   │
               イザナミ  └─スサノオ   │
          ┌───────────────────┘
          │          トヨタマヒメ      コノハナノサクヤヒメ
          └─オシホミミ    ├────ホデミ     ├─────┐
               ├────ニニギ    ├────ナギサ     │
            トヨアキヅシヒメ      タマヨリヒメ        │
┌───────────────────────────────────────┘

└1神武──2綏靖──3安寧──4懿徳─┐
              ┌─────┘
              │
              └─5孝詔──6孝安──7孝霊──8孝元──9開化─┐
┌───────────────────────────────────────┘
│                          神功
└10崇神─11垂仁─12景行─┬─13成務      ├─┐
                └─ヤマトタケル─14仲哀 │
          ┌───────────────────┘
          │
          └15応神─┬─16仁徳─19允恭─┬─20安康
                │           └─21雄略──22清寧
                ├─17履中───押羽─┬─24仁賢──25武烈
                ├─18反正      └─23顕宗
                └──○◯────◯○────◯○────◯○─┐
┌───────────────────────────────────────┘

└─26継体──┬─27安閑
        ├─28宣

        └─29欽明─┬─30敏達──以下省略
               ├─31用明──聖徳
               ├─33推古
               └─32崇峻



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