1 論争の始まり(後)
明治の紀年論 |
明治時代になると、日本にやってきた西洋人も研究に参加しました。
まずデンマーク人のウィリアム・ブラムセンが、明治12年(1880年)に画期的な論文「日本年代表」を書いています。そのなかでブラムセンは、仁徳天皇以前には天皇の寿命が著しく長いことから、半年を一年と数える古暦(半年暦)の存在を想定しています。しかし半年暦は、その後長く無視されました。ようやく昭和49年(1974年)になって、沢武人氏が『宮崎県総合博物館紀要』に「春耕・秋収-古代の紀年法についての提案」を発表し、半年暦を取り上げました。
一方、日本人の間では、本居宣長に倣って『古事記』に書かれた天皇の没年干支を重視する考えが主流でした。菅政友は、10代崇神天皇の死亡年を258年とし、14代仲哀天皇の死亡年を362年としています。
戦後になると、水野祐氏が菅政友の年表の中で、崇神天皇の死亡年を318年とする修正案を発表しました。今ではこちらが天皇の在位年代を考えるよい目安になります。
九州説の展開 |
明治25年(1892年)に菅政友は、『史学会雑誌』に「漢籍倭人考」を発表しました。菅政友は本居宣長と同じように、順次式で行程を読み取っています。菅政友は、狗奴国についても本居宣長と同じ見方をしました。
菅政友は、邪馬台国を熊襲と見たようです。また、卑弥呼の時代を崇神朝にあてています。後の景行朝に大和朝廷が南九州を征服したとする『日本書紀』や『古事記』の記事を踏まえた説と見て間違いありません。
明治40年(1907年)に久米邦武は、『日本古代史』を発表し、卑弥呼を景行朝の八女津(やめつ)姫に比定しました。これは菅政友の紀年論ではなく、崇神天皇の死亡年を198年とする紀年論を採用しています。
明治時代には、まだ菅政友の紀年論は定説とはならず、星野恒や吉田東伍が、崇神天皇の死亡年を198年とする説を発表していたのです。しかも、明治時代には、星野恒らの紀年論のほうが優勢でした。2世紀後半の倭国大乱を、崇神天皇の四道将軍の派遣と結び付けて理解したのでしょう。
久米邦武は邪馬台国を筑後国山門郡とし、博多湾から肥前の西を回って有明海に入る航路を想定しました。
明治43年(1910年)には、白鳥庫吉(しらとりくらきち)が「倭女王卑弥呼考」を発表しました。この中で白鳥庫吉は、郡より女王の都まで、総行程を一万二千里とする記事に着目しました。不弥国までの道のりは一万七百里ですから、残りは千三百里です。道のりの比率を比べて、不弥国から千三百里の邪馬台国は、肥後国内に求められると考えました。一方で、日数記事は誇大だから採用しないとしています。
邪馬台国はヤマト国と解釈できるにもかかわらず。明治時代には、邪馬台国を九州に求め、大和朝廷の敵対者と見る説が多くありました。しかし、九州説は単純ではありません。解釈に巾があるため候補地が散在し、有力候補を絞り込むのは困難です。九州説の論者は他に、星野恒・吉田東伍・那珂通世らがいます。
劣勢の大和説 |
劣勢だった大和説の論者には、内藤湖南がいます。内藤湖南は崇神天皇の没年を198年とする紀年論によって、景行朝を卑弥呼の時代にあてました。
明治43年(1910年)に内藤湖南は、雑誌『芸文』に「卑弥呼考」を発表しました。その中で、内藤湖南は卑弥呼を倭姫(やまとひめ)とし、その弟を景行天皇としています。内藤湖南は新井白石と同じく瀬戸内航路を想定しましたが、投馬国の比定地がかなり西に偏(かたよ)っています。山口県防府市(玉祖郷)を投馬国とし、山口県熊毛郡上関(かみのせき)町までを水行十日にあて、そこから陸行一月で大和に着くとしています。
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