慶州・新羅の建国と聖地移植 (2010・4・18ブログよりコピー) |
韓国慶州市街の南方の高位山のふもとには、新羅の初期の王墓といわれるものがあります。五陵と三陵などです。
五陵とは、初代赫居世王とその王妃、2代南解王、3代儒理王、5代婆娑王の陵墓がまとまってあることから五陵と呼ばれています。真偽のほどはわかりません。『三国史記』では紀元前後の王たちであり、そのまま史実と考える人は韓国でもそんなにいないでしょうね。しかし私の復元年表では2世紀半ばから3世紀初めの王たちです。少し現実味を帯びてきます。
三陵は、8代阿達羅王とその血を引くという後の時代の王の陵墓といいます。近くには6代祇摩王の陵墓もあります。
1.赫居世 150年~180年
2.南 解 180年~190年
3.儒 理 190年~207年
4.脱 解 207年~218年
5.婆 娑 218年~234年
6.祇 摩 234年~245年
7.逸 聖 245年~255年
8.阿達羅 255年~270年
地形をみると、高位山は高千穂峯であるようです。
高位山の東に南川が流れ、西に麟川が流れて高位山を囲んでいます。トンボの交尾の地形です。これだけなら単なる偶然ですが、トンボの交尾の内側に新羅の初期の王墓が築かれたとなると無視できません。高位山という名前も意味ありげですが、麟川の麟の字は、麒麟(キリン)という意味です。高位山の一帯が聖域とみなされた可能性があります。
しかも、初代王の年代が2世紀後半となると、かなり古い聖地移植であり、日本における聖地移植に先行する可能性すらあります。新羅の初期の王は、倭国(邪馬台国)の建国に深くかかわった氏族の子孫と見て良いでしょう。『三国史記』によると、初期の新羅は倭国と敵対せず、むしろ仲が良かったと考えられますが、もしかすると一心同体に近い関係だったかも知れません。地図を見てそう思います。
問題は考古学と話がかみ合うのかということですが、これがよくわかりません。日本でも、粘土包み木棺墓というべきものを粘土槨木棺墓といいますが、韓国でも、石囲い甕棺墓というべきものを石槨甕棺墓というのかな?棺や槨のありようが多様性に富んでいて、言葉が追い付かず混乱しているように見えます。現物を見ない限り、実態はつかめそうにありません。というわけで、ネット情報を読んでもさっぱりわかりません。どうなっているのでしょう。気になります。
ついでに。
『ようこそ サロン吉田山へ』というサイトの中の『積石塚を訪ねて』では、冒頭に高句麗15代美川王(300年~331年)の墓とされる積石塚の写真が紹介されています。最近は集安を訪ねる人も多いのでしょうね。貴重で、珍しい写真です。こういう写真が見たかったですね。中央部分がへこんでいるのは中の木槨が腐ってつぶれたのでしょうか。
追記2010・4・19
鮮卑族の慕容氏に敗北して美川王の墓が破壊されたのだそうです。
その破壊の跡とみなされているのですね。
そういえば、高句麗はたびたび国家存亡の危機に見舞われておりました。