新羅と倭国 |
「百済本紀」と違って、「新羅本紀」には倭という文字が数多く登場します。そのほとんどは倭の兵が攻めて来たというような記事で、憎むべき敵として登場します。ところが初期の記事には、そうでないものがあります。
始祖赫居世(かくこせ)は、馬韓への使者として瓠公(かくこう)を派遣しましたが、瓠公はもと倭人だといいます。昔、ひょうたんを腰に下げて海を渡って来たと書かれています。瓠はひょうたん類の総称と辞書にあります。
4代脱解(だっかい)尼師今は、昔氏の初めの王ですが、倭人の疑いのかかる人物です。脱解は多婆那(たばな)国の生まれといい、その国は、倭国から東北へ千里のところにあるといいます。倭国を福岡と見なせば、東北へ千里のところは出雲付近になります。出雲の先には、但馬(たじま)や丹波(たんば)があります。タバナ国は、タンバノ国とも理解できます。脱解は瓠公を大臣にしましたが、同じ倭人だから重く用いたと思われます。
『日本書紀』の神功皇后の条には、波沙(はさ)王や宇流(うる)という人物が登場します。波沙王は新羅の5代婆娑(はさ)尼師今で、在位は218年~234年(修正年)です。卑弥呼の時代と重なりますから、卑弥呼とは交流があったかも知れません。宇流は、10代奈解(なかい)尼師今の太子の于老(うろう)です。新羅の高官でしたが、12代沾解(てんかい)尼師今の時代の303年(修正年)に、倭人に殺害されました。于老の時代は神功朝より古く、崇神朝の時代にあたります。朝鮮出兵の起源は、思いのほかに古いことがわかります。
神功皇后の条によれば、波沙王の子の微叱己知(みしこち)を人質として倭国に送ったと書かれています。しかし、この二人は親子ではありませんし、時代も全く合いません。波沙王は3世紀の人で、微叱己知は5世紀の人です。
18代実聖(じっせい)尼師今の元年(402年)の条によれば、前王の子の未斯欣(みしきん)を人質として、倭国に送ったと書かれています。この未斯欣が、微叱己知です。19代訥祇(とつぎ)麻立干(まりつかん)の2年(418年)には、未斯欣が倭国から逃げ帰ったといいます。未斯欣は、応神天皇から仁徳天皇の時代の人なのです。日本側にはしっかりした記録がなかったようです。年代は把握されておらず、記憶も断片的です。そのために、安易に神功皇后に結び付けたようです。
5世紀までは、新羅にとっては強国に囲まれて苦しい時代でした。しかし、新羅はこの時代をよく耐え、6世紀になって大きく飛躍しました。新羅では王号に古い言葉を用いています。初代は居西干(こせかん)、2代は次次雄(ししゆう)、3代からは尼師今(にしきん)、19代からは麻立干(まりつかん)を用いました。6世紀初めの23代法興王(在位514~540)から王を称するようになりました。法興王の時代に、新羅の第二の画期があると思われます。
新羅は530年に金官加羅国(金海市)を併合しましたが、これが新羅にとっては画期的なことだったと思われます。金海の王家は、おそらく準王の流れを汲む王家でしょう。それが馬韓に制せられたのは、下克上といえるでしょう。馬韓は辰王を自称しましたが、必ずしも韓王(辰王)を正当に引き継いではいないかも知れません。その点で、新羅は違っていました。新羅は金海の王家を尊重し、その後も重く用いたので、両王家は車の両輪のように新羅を支えました。
新羅はおそらく、加羅を箕氏朝鮮の後継者と認めた上で、その権威を取り込んだと思われます。それは、新羅が箕氏朝鮮の後継者になることを意味しました。その自覚が、法興王という王号に表れたと思います。
これ以後、新羅は目覚しく発展しました。553年には、帯方郡の故地で百済の故地でもある地方を、百済から奪い取りました。560年には旧弁辰地方を併合しました。660年には太宗武烈王が唐と連合して、百済を滅ぼしました。668年には文武王が唐と連合して、高句麗を滅ぼしました。その後は、文武王が唐と戦って、大同江以南の地を確保して独立を守りました。
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