(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
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17 百済(後)

百済と倭国(倭の五王まで)

 「百済本紀」には日本の記事はわずかしかありませんが、『日本書紀』には百済との交流記事が多く、対照的です。

 『日本書紀』によれば、366年に倭国と百済の国交が開始されたあと、早くも369年に倭国の軍が朝鮮半島に出征しました。この時の出征が、朝鮮半島に支配権を確立した画期として記憶されています。よほど大きな戦果を上げたのでしょうか。

 「百済本紀」によると、369年に百済は高句麗の侵入を撃退し、371年にも高句麗を撃退しました。特に371年には平壌まで攻め込んで、高句麗の故国原王を戦死させました。これは倭国と百済が同盟した成果だと思います。しかし同時に、高句麗の恨みを買った事件でもあったでしょう。

 「百済本紀」によれば、372年に百済は南朝の東晋に朝貢しました。その一方で、『日本書紀』によれば、同じ372年に倭国に七支刀を献じたと書かれています。その七支刀は、奈良県天理市の石上神宮に伝わり、刀身には東晋の泰和4年(372年)の銘文が刻まれています。

 高句麗に広開土王が現れた4世紀末から5世紀初めにかけては、高句麗と倭国が交互に半島南部に侵入して、軍事的圧力を加えています。応神朝の出来事です。

 この時期の新羅では、高句麗と倭国の両方に人質を送り、危機を回避しました。しかし百済は、倭国には人質を送りましたが、高句麗との間にそのような記事は見られません。そのため、談徳(広開土王)の激しい攻撃にさらされたようです。「百済本紀」の399年の条には、民は役務に苦しみ、新羅に逃げる者が多く、人口が減少したとあります。

 百済は、397年に太子の腆支を倭国に送りました。403年には、倭国の使者を丁重に迎えたとする記事もあります。これは日本史にとって重要な記事だと思われます。『日本書紀』の応神天皇の14年(283年)の条によれば、百済王が縫衣工女を送ってきたとあります。120年繰り下げると、403年になります。雄略天皇の7年(463年)にも、百済が陶部・鞍部・画部・錦部・訳語の才伎(工人等)を送ってきたとありますが、この年も403年のことかもしれません。この記事に限っては、60年繰り下がっている可能性があります。

 475年には、高句麗の長寿王が百済の都を攻略し、滅亡の危機に追いやりました。しかし、このときには倭国が援助して、都を南の公州の移し、百済を再興したことが『日本書紀』に書かれています。雄略朝のできごとです。雄略天皇(倭王武)は、478年に宋に使者を派遣して上表文を奉じましたが、そこには、高句麗の暴虐を宋に訴えて、高句麗討伐の援軍を請う目的があったと思われます。

百済と倭国(倭の五王以後)

 継体天皇の時代には、百済は倭国から馬韓地方の割譲を受けて、国の再建を図りました。おそらくこれが馬韓滅亡の時期でしょう。倭国はこの馬韓を押さえたことにより、半島南部の支配権を手に入れたと考えた節があります。その馬韓を百済に譲り渡したのです。百済は、538年には都を扶餘(ふよ)に移し、倭国に対しては、聖明王が欽明天皇に仏像その他を献上しました。これが日本への仏教伝来の初めとされます。

 551年には、聖明王が、高句麗と不和になっていた新羅と同盟して北上し、高句麗を討ちました。この結果、百済は漢山城(広州)周辺の故地を回復しました。

 欽明天皇の23年(562年)の条のよれば、大伴狭手彦
(おおとものさてひこ)が百済の計を用いて数万の軍で、高句麗を討ち破ったといいます。この年次を別伝では11年(550年)とします。おそらく大伴狭手彦は、550年に倭国を出発し、551年に高句麗を討ったのでしょう。550年(庚午年)と562年(壬午年)の間違いについては、どちらも午年(うまどし)であるために間違えたのでしょうか。

 しかし553年になると、百済が高句麗の平壌を攻めた留守を新羅に襲われて、漢山城周辺の地を新羅に奪われてしまいました。そこで554年には、新羅の裏切りに怒った百済の太子が新羅攻撃に向かいました。この時に、聖明王が心配して太子の後を追いましたが、新羅兵の待ち伏せにあって、王が戦死しました。

 7世紀になると、百済にも武王という軍事的天才が現れて、初めて自力で失地回復に努めました。ところがこのことにより、かえって唐に軍事介入の口実を与えたらしく、660年には唐と新羅の連合軍に攻撃されて、滅亡してしまったのです。倭国はこのときにも倭国にいた王子の豊璋を立てて、国の再興を図りました。しかし663年に白村江の戦いに敗れて、百済再興の望みは絶たれてしまいました。

  参考 従来、4世紀には百済が馬韓を支配したとされていましたが、今変わりつつあります。

 現在の全羅南道・栄山江流域は、原三国時代には馬韓の領域であったが、4世紀以降は百済の領域となったと考えられてきた。近年、この地域の墓制や遺物の独自性を評価し、全羅南道地域の百済への服属を5世紀末ごろと捉え、それ以前は成人甕棺葬などを特徴とする独自の勢力が存在したと考えられるようになってきた。(白井克也

 4~5世紀の全羅南道・栄山江流域を中心とした地域に,百済に属さぬ独自の政治勢力(馬韓)が存在したのではないかという議論は,最近の重要な研究課題となってきている。(白井克也
 図表25  百済王の年表
王 名  修正しない
 在位年数
   修正した
    元年 ~ 死亡年
 1 温 祚 46 165前半~187後半
 2 多 婁 50 187後半~212前半
 3 己 婁 52 212前半~237後半
 4 蓋 婁 39 237後半~256後半
 5 肖 古 49 256後半~280後半
 6 仇 首 21 280後半~290後半
 7 沙 伴 1 290後半~290後半
 8 古 爾 53 290後半~316後半
 9 責 稽 13 316後半~322後半
10 汾 西 7 322後半~325後半
11 比 流 41 325後半~345後半
12 3 345後半~346後半
13 近肖古 30 346 ~ 375
14 近仇首 10 375 ~ 384
15 枕 流 2 384 ~ 385
16 辰 斯 8 385 ~ 392
17 阿 華 14 392 ~ 405
18 腆 支 16 405 ~ 420
19 久爾辛 8 420 ~ 427
20 毘 有 29 427 ~ 455
21 蓋 鹵 21 455 ~ 475
22 文 周 3 475 ~ 477
23 三 斤 3 477 ~ 479
24 東 城 23 479 ~ 501
25 武 寧 23 501 ~ 523
26 32 523 ~ 554
27 威 徳 45 554 ~ 598
28 2 598 ~ 599
29 2 599 ~ 600
30 42 600 ~ 641
31 義 慈 20 641 ~ 660
 

   図表26  修正しない百済王の系図

 1温祚──2多婁──3己婁───4蓋婁──┐
                      │
  ┌───――――――――――――――――┘
  │
  └┬─5肖古───6仇首─┬─7沙伴
   │           └─11比流───13近肖古─┐
   └─8古爾───9責稽───10汾西───12契   │
                              │
  ┌─────────────────────――――――┘
  │
  └─14近仇首─┬─15枕流───17阿華──18腆支─┐
          └─16辰斯
              │
                              │
  ┌──────────────―――――――――─―――┘
  └─19久爾辛─┐
          │
  ┌─――――――┘
  │
  └─20毘有─┬─21蓋鹵───22文周───23三斤
         └──◯◯────24東城───25武寧─┐
                              │
  ┌─────────────――――――――――――――┘

  └─26聖─┬─27威徳
        └─28恵───29法──30武──31義慈

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