「百済本紀」の本文によると、始祖は朱蒙の子の温祚(おんそ)だといいます。北の夫余から朱蒙の子が高句麗にやってきて太子になったので、温祚と兄の沸流(ふつりゅう)は対立を恐れて南に下り、百済を建国したといいます。
しかし「百済本紀」は、兄の沸流を始祖とする別伝も紹介しています。こちらの伝承では、二人の兄弟は優台の子で、夫余の解扶婁(かいふる)王の子孫としています。母が兄弟を連れて朱蒙と再婚したあとで、夫余から朱蒙の子がやってきて太子になったので、兄弟は南に下り別に国を建てたといいます。
本文では百済王を高句麗初代の朱蒙の子孫としますが、別伝では夫余王の子孫としています。ただし解扶婁の子孫といいますから、朝鮮半島の東海岸に移住した濊(わい)王の子孫です。いずれにしても、遠い先祖は夫余から出たといえます。しかし始祖を朱蒙と同時代とする点には無理があります。「百済本紀」の紀年では百済の建国はBC18年ですが、これは半年暦によっています。年代修正をすると、時代が合いません。
「百済本紀」の紀年を修正するときには、313年が歴史上の定点になります。
「高句麗本紀」の15代美川(びせん)王の条によれば、313年に楽浪郡に進入し、314年には帯方郡に侵入したと書かれています。高句麗が二郡を滅ぼしたのです。このとき、帯方郡では百済に救援を求めたようです。
「百済本紀」の9代責稽(せきけい)王元年の条によれば、帯方の王女を夫人とした縁で百済が帯方を救ったが、再度高句麗が攻めてくることに備えて、城を修理したと書かれています。この記事が、314年の直後に対応します。「百済本紀」の紀年ではこの記事は286年ですが、これが314年直後に収まるように年代修正すればよいのです。
結論を言うと、13代近肖古(きんしょうこ)王のときに中国暦が採用されたと考えれば、286年は316年後半になります。近肖古王の時代には、博士の高興を得て、初めて文字で記録するようになったといいますから、近肖古王(在位346~375)は、中国暦を採用した王にふさわしいと思われます。
この修正によれば、百済の建国は165年前半になります。百済が建国した広州は、北の高句麗・楽浪郡の勢力と、南の馬韓の勢力がぶつかるところです。温祚王の24年の条によれば、昔、馬韓が東北の地を割いて、百済に与えて安住させたといいます。
その温祚王のときに、百済が馬韓を滅ぼしたとありますが、信用できません。3世紀の馬韓には辰王がいたからです。馬韓の辰王が滅ぶのは、明確な記録はありませんが、6世紀の継体天皇の頃ではないかと思われます。
2代多婁(たろう)王の6年の条には、この年に初めて稲田を作らせたと書かれています。この記事は、百済が北方起源であることを示しています。年代修正すると、190年になります。その後、百済は次第に力を蓄えました。314年には、高句麗に攻められた帯方郡に救援の軍を送りました。そしてこの後しばらくの間、楽浪郡の残存勢力と百済の間に、争乱が続いたようです。
9代責稽王は、322年(修正年)に漢人と貊(はく)の侵入を受けて戦死しました。貊は高句麗系の民族です。10代分西(ふんせい)王は、325年(修正年)に楽浪西部の県を奪いましたが、その太守の放った刺客に殺害されたといいます。
楽浪郡は、やがて高句麗の手中に帰しました。334年に故国原王が平壌城を増築したと書かれています。やがてこの城は高句麗の副都のようになり、427年には長寿王がここに都を移しました。
一方、帯方郡を吸収した百済もまた、中国風の制度・文化を受け入れて、急速に国家としての成長を始めました。そして、近肖古王の時代には中国暦を採用して、最初の繁栄期を迎えるのです。
『日本書紀』は、百済から伝わった歴史書を用いて日韓関係を記録しています。その最初を飾るのは、神功皇后の条の近肖古王の記事です。
『日本書紀』の紀年では、神功皇后は3世紀の人で、4世紀の近肖古王の時代とは重なりません。にもかかわらず、二人を同時代の人として扱っています。年代論は抜きにして、二人を同時代の人とする強い伝承(記憶)があったからに違いありません。
『日本書紀』は、編者舎人親王らの悪戦苦闘する様子がうかがえる歴史書です。本来なら半年暦や親子合算の習慣に基づく記録については、年代修正すべきでした。しかし奈良時代までの間に、過去にそうした習慣のあったことは忘れられました。
そこで二人を同時代の人とするために、『日本書紀』では近肖古王の年代を120年繰り上げる操作を行いました。つまり近肖古王の死亡年である375年(乙亥年)を、255年(乙亥年)としたのです。なぜ120年かというと、昔は干支で年代を表わす方法を取っていましたが、その方法では60年ごとに同じ干支が巡ってくることを利用したのです。それで120年ずらしたら近肖古王と神功皇后の時代が重なったというわけです。
それでは干支(えと)とは何かといえば、十干と十二支から一文字ずつを組み合わせて、年代を特定する方法です。まず十干は、甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)戊(ぼ)己(き)庚(こう)辛(しん)壬(じん)癸(き)の十文字です。これを各年に一文字ずつ順に当てていきます。10年で一巡します。
十二支は、子(し)丑(ちゅう)寅(いん)卯(ぼう)辰(しん)巳(し)午(ご)未(み)申(しん)酉(ゆう)戌(しゅつ)亥(がい)の十二文字です。これを各年に一文字ずつ順に当てていきます。12年で一巡します。
以上のことを毎年繰り返すと、干と支の組み合わせが60通りできます。つまり干支は60年で一巡します。そこで、甲子(こうし)年から癸亥(きがい)年まで60年分の組み合わせを一つの表にして、西暦を一つ記入しておくと、任意の年の干支がすぐに計算できます。
たとえば、2009年は、60年かける33あまり29年です。29年は次の表により、己丑(きちゅう)年ですから、2009年も己丑年になります。和風の読みかたでは、ツチノト・ウシの年といいます。
4甲子(コウシ・きのえね) |
34甲午(コウゴ・きのえうま) |
5乙丑(オツチュウ・きのとうし) |
35乙未(オツミ・きのとひつじ) |
6丙寅(ヘイイン・ひのえとら) |
36丙申(ヘイシン・ひのえさる) |
7丁卯(テイボウ・ひのとう) |
37丁酉(テイユウ・ひのととり) |
8戊辰(ボシン・つちのえたつ) |
38戊戌(ボシュツ・つちのえいぬ) |
9己巳(キシ・つちのとみ) |
39己亥(キガイ・つちのとい) |
10庚午(コウゴ・かねのえうま) |
40庚子(コウシ・かねのえね) |
11辛未(シンミ・かねのとひつじ) |
41辛丑(シンチュウ・かねのとうし) |
12壬申(ジンシン・みずのえさる) |
42壬寅(ジンイン・みずのえとら) |
13癸酉(キユウ・みずのととり) |
43癸卯(キボウ・みずのとう) |
14甲戌(コウシュツ・きのえいぬ) |
44甲辰(コウシン・きのえたつ) |
15乙亥(オツガイ・きのとい) |
45乙巳(オツシ・きのとみ) |
16丙子(ヘイシ・ひのえね) |
46丙午(ヘイゴ・ひのえうま) |
17丁丑(テイチュウ・ひのとうし) |
47丁未(テイミ・ひのとひつじ) |
18戊寅(ボイン・つちのえとら) |
48戊申(ボシン・つちのえさる) |
19己卯(キボウ・つちのとう) |
49己酉(キユウ・つちのととり) |
20庚辰(コウシン・かねのえたつ) |
50庚戌(コウシュツ・かねのえいぬ) |
21辛巳(シンシ・かねのとみ) |
51辛亥(シンガイ・かねのとい) |
22壬午(ジンゴ・みずのえうま) |
52壬子(ジンシ・みずのえね) |
23癸未(キミ・みずのとひつじ) |
53癸丑(キチュウ・みずのとうし) |
24甲申(コウシン・きのえさる) |
54甲寅(コウイン・きのえとら) |
25乙酉(オツユウ・きのととり) |
55乙卯(オツボウ・きのとう) |
26丙戌(ヘイシュツ・ひのえいぬ) |
56丙辰(へイシン・ひのえたつ) |
27丁亥(テイガイ・ひのとい) |
57丁巳(テイシ・ひのとみ) |
28戊子(ボシ・つちのえね) |
58戊午(ボゴ・つちのえうま) |
29己丑(キチュウ・つちのとうし) |
59己未(キミ・つちのとひつじ) |
30庚寅(コウイン・かねのえとら) |
60庚申(コウシン・かねのえさる) |
31辛卯(シンボウ・かねのとう) |
61辛酉(シンユウ・かねのととり) |
32壬辰(ジンシン・みずのえたつ) |
62壬戌(ジンシュツ・みずのえいぬ) |
33癸巳(キシ・みずのとみ) |
63癸亥(キガイ・みずのとい) |
|
|
コラム 和風の読み方の解説 例・甲子(コウシ・きのえね)
き………五行説の木・火・土・金属・水のうちの一つ。
の………格助詞の「の」
え………「え」は年上の意味(例 えひめ)。一般に兄を当てる。
「と」は年下の意味、正しくは「おと」(例 おとひめ)。
一般に弟・乙を当てる。
「えおと」が訛って、「えと」で、「兄・弟」の意味、
後に干支・十二支の意味に転用された。
ね………ね(鼠)・うし(牛)・とら(虎)・う(兎)
・たつ(竜)・み(蛇)・うま(馬)・ひつじ(羊)
・さる(猿)・とり(鳥)・いぬ(犬)・い(猪)
のうちの一つ。
|
|