(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
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16 高句麗(前)

高句麗本紀1

 『三国史記』の「高句麗本紀」によれば、BC37年に、朱蒙(しゅもう)(鄒牟(すうむ))が高句麗を建国したといいます。その出自については神話めいた話が伝わっています。神話的な表現を取り除いて要約すると、次のようになります。

   初め、夫余(ふよ)王の解夫婁(かいふる)がいた。宰相が天神の勧めだと言って、都を移すように進言した。東海の浜辺の迦葉原(かしょうげん)は五穀の生育に良いと言って、そこに都を移すことを勧めたのである。王はその言葉に従った。その国を東夫余と名づけた。

 夫余の旧都に、どこからか解慕漱
(かいぼそう)と自称する人がやって来て、都を開いた。その死後、解慕漱の子の朱蒙と、母の柳花がやって来た。成長すると、朱蒙の技能は他の王子たちよりすぐれていた。そのためにねたみを買って、殺されそうになった。

 朱蒙は、母の勧めを聞いて南に移り、卒本川(渾江)に来て都(遼寧省桓仁)を開いた。国号を高句麗とした。

 夫余王の姓は解氏とされていますが、朝鮮語では解を「へ」と読みます。「へ」は太陽の意味だといいます。日本語の日(ひ)と語源が同じだと思われます。夫余王は太陽氏(解氏)と理解できます。

 東海の浜辺の東夫余は、朝鮮半島の東海岸の濊をさすと思われます。「後漢書夫余伝」によれば、夫余(中国東北地方)は、もとは濊の地だったとされるからです。さらに、夫余国内に古城があり、濊城と呼ばれるとも書かれています。濊が朝鮮半島の東海岸に移住したあとに、別の夫余族がやって来たようです。

 朱蒙は諡号
(おくりな)を東明といいますが、夫余の始祖も名を東明といい、その神話はよく似ています。「後漢書高句麗伝」によれば、高句麗は夫余の別種で、言語・法則には同じものが多いと書かれています。

 「高句麗本紀」によれば、BC19年に朱蒙が死亡したと書かれています。しかし「後漢書高句麗伝」によれば、新を開いた王莽
(おうもう)が臣下に命じて、高句麗候の騶(すう)を誘い出して殺害させたと書かれています。騶(すう)は、朱蒙(鄒牟)のこととされます。この事件の年代は、「漢書王莽伝」によれば、AD12年です。

 『漢書』の年代を信じるなら、高句麗の初期には半年暦が使われたと考える他ありません。高句麗王の初めの三代の在位年数を半分にすると、朱蒙の死亡年がAD13年になるからです。「漢書王莽伝」に対して1年のずれがありますが、これは誤差でしょう。

 『三国史記』の称元法では、前王の死亡年と新王の元年は重なるのが普通です。しかし、前王が年末に死亡した場合などに、新王の元年が翌年になることもあるでしょう。したがって、高句麗の三代のうちの誰かが、前の王の死亡年の翌年を元年にしたとすれば、朱蒙の死亡年はAD12年になります。

 高句麗は箕子の影響で、早くから中国化が進んだと思いましたが、意外にその流れはゆるやかだったようです。あるいは、箕子が住民の文化に理解を示して、尊重したのかもしれません。そのために、この時代まで半年暦が残ったのでしょう。

 高句麗は、2代琉璃
(るり)王の時に、都を集安(吉林省)に移しました。年代修正をすると、AD23年のことです。以後、5世紀に長寿王が平壌に都を移すまで、鴨緑江中流の小盆地が高句麗の都でした。

高句麗本紀2

 「高句麗本紀」の記事は、4代の王から中国暦で書かれており、中国の正史と一致するはずだと思いました。ところが実際

には、6代・7代・8代の記事が正史と大きく食い違います。何か特別の事情があると想像されます。

 図表20   高句麗三大王の死亡年
西暦 遂成 伯固
  53    7才即位       ー       ー
 146  100才退位   76才即位       ー
 165  119才死亡   95才死亡   77才即位
 179       ー       ー   91才死亡

 「高句麗本紀」によれば、6代太祖大王は名を宮といい、父の名は再思、母は夫余の女性だといいます。宮は53年に7才で即位したので母が摂政を務めました。宮は長寿だったようで、治世94年の146年に100才で同母弟の遂成に王位を譲り、165年に119才で亡くなったといいます。

 7代次大王は名を遂成といい、146年に76才で即位しました。治世20年の165年に臣下が次大王は暴虐だとして殺害しました。時に95才でした。

 8代新大王は名を伯固といい、宮の末弟だといいます。165年に77才で即位し、治世15年の179年に91才で亡くなりました。

 長寿の王が三代続いたことも珍しいですが、それ以上に不自然なのは、三代が兄弟とされることです。年令差を見ると、宮と遂成は24才、宮と伯固は42才です。まるで親子孫のようです。7才で即位したので母が摂政を努めたという王に、これほど年令の離れた弟がいたとは意外です。ありそうにないと言う意味では、これも一種の神話でしょう。日本書紀の三貴子分治などと同じように、高句麗でも三兄弟に特別の思い入れがあるのかもしれません。

 もっとも、日本の応神天皇と神功皇后のような事例もありますから、即断は避けるべきかもしれません

 「後漢書高句麗伝」によれば、121年に宮が死んで、子の遂成が立ったと書かれています。その後、遂成が死んで、子の伯固が立ちました。伯固の記事のあとに、132年に玄菟郡に屯田を置いたと書かれています。伯固の即位は132年より前と思われます。三大王については、おそらく系譜でも在位年代でも、「後漢書高句麗伝」が正しいでしょう。

 6宮─────7遂成─────8伯固

高句麗本紀3

 これより以後、「高句麗本紀」には紀年上の大きな問題はないと思います。しかし、中国正史との間の人物比定に混乱があります。それは、9代・10代・11代に関わる人物比定です。ここでは、中国と高句麗の双方に問題があります。

 8伯固──┬──抜奇
      └──9伊夷模─────10位宮

 上は「魏志高句麗伝」に書かれた系譜です。「高句麗本紀」では、この正史の記事に惑わされて、一見奇妙な人物比定を行っています。

 8伯固──┬──(抜奇)
      ├──9故国川(伊夷模)
      ├──(発岐)
      └──10山上(延優・位宮)─────11東川

  19故国川……179~197
  10山上………197~227
  11東川………227~248

 まず抜奇ですが、この人物が一番の問題です。両書とも抜奇は即位しなかったとしていますが、即位した可能性があります。「高句麗本紀」の抜奇と発岐は同一人物です。どうやらこの抜奇をめぐって解釈が混乱したように見えます。

 わかりやすいのは位宮です。力が強く、乗馬に巧みで、狩や弓が上手だといいます。位宮は、記事の年代を重視して、11代東川王と見ることができます。「高句麗本紀」は位宮を延憂と同一視していますが、これは間違いで、二人は別人です。

 位宮は女王卑弥呼と同時代の人物です。景初2年(238年)に司馬懿が公孫淵を滅ぼしたときには、位宮は兵を派遣して司馬懿を助けました。しかし後に離反して、正始5年(244年)に毌丘倹
(かんきゅうけん)に攻撃されました。「梁書高句麗伝」によれば、翌年にも毌丘倹に攻められて沃沮に逃げ、玄菟太守の王頎(おうき)にも追われたと書かれています。

 伊夷模は位宮の父ですから10代山上王です。「魏志高句麗伝」では、伊夷模は、兄の抜奇が不肖の子だったので、国人に支持されて即位したといいます。一方、山上王は名を延憂といい、国人が兄を支持しなかったので即位したといいます。両者の話は一致します。伊夷模と延優は同一人物、抜奇と発岐も同一人物です。

 抜奇は、遼東郡の公孫康が高句麗を攻めたときに、三万人を率いて公孫康に降ったといいます。一方、発岐もまた、国を裏切って公孫氏に付いたといいます。ここでも抜奇と発岐の話は一致します。

 問題は故国川王ですが、故国川王は抜奇でしょう。正史には故国川王は登場しないかに見えますが、そこには裏の事情があります。「魏志高句麗伝」によれば、建安年間(196~220)に公孫康が高句麗を破ったときに、抜奇が降伏したと書かれています。故国川王の在位は197年までですから、抜奇が故国川王だったと考えても、年代はどうにか合っています。敵の軍門に降った事を恥じて、この時から抜奇が不肖の子と呼ばれたのに違いありません。

 一方の伊夷模は、この事件を機に都を移して、新しい国を建てたとあります。伊夷模の即位は実はこの時で、年代は197年だったと思われます。以上のことから、高句麗王の正しい人物比定は、次のようになります。

 8伯固──┬──9故国川(抜奇・発岐)
      └──10山上(伊夷模・延優)─────11東川(位宮)

広開土王碑文

 その他の史料で「高句麗本紀」と違う記事のあるものは、広開土王碑文です。その文章は、石原道博編訳『魏志倭人伝他・中国正史日本伝1』に紹介されています。

 碑文によれば、広開土王の元年は391年で、時に、王は18才でした。39才で亡くなり、414年に山陵に葬ったとされます。一方「高句麗本紀」では、元年を392年とし、死亡年を412年とします。広開土王は18才の391年に即位したとすれば、39才になるのは412年です。したがって死亡年については、両者の記事は一致します。

 問題は即位年です。1年ずれていますが、碑文の391年が正しいと思います。碑文には、王を山陵に葬ったとしたあと、「ここにおいて碑を立つ。功績を銘記して後世に示す。」と記されています。後に成立した「高句麗本紀」より、死後すぐに立てられた碑文の方が信頼性が高いと思います。

 また、碑文の中に次の文があります。

  十七世孫国岡上広開土境平安好太王。

 国岡上広開土境平安好太王というのは、王の諡号(おくりな)です。あまりに長いので、普通は略称で広開土王とか好太王と呼ばれます。この文は、初代鄒牟王(朱蒙)の死後に、2代・3代が続いたとしたあとに現れます。名前を連ねて17世の子孫の広開土王に至るという意味になるようです。

 ここの問題は17世です。「高句麗本紀」によれば、広開土王は19代、13世の王とされます。例の三兄弟を親子孫に修正しても、まだ15世にしかなりません。したがって三兄弟のほかにも、系譜の誤りが二ヶ所あるはずです。修正の余地を残すところも二ヶ所あります。

 第一には、伯固王の在位がおよそ50年と長いにもかかわらず、子の故国川王が19年も在位したことです。ここは、故国川王を伯固王の孫としても良いでしょう。

 第二には、故国川王のあとに山上王の30年が続きますが、この二代を兄弟とする点が疑われます。故国川王の弟の子を山上王とする事もできるでしょう。

 6宮──7遂成──8伯固──◯◯─┬─9故国川 
                  └─◯◯──10山上──11東川

 図表21 高句麗王年表    ◯は修正した在位年代
王 名  修正しない
 在位年数
   元年 ~ 死亡年
 1 東 明 19  ◯ 3後半~12後半
 2 琉 璃 37  ◯13前半~31前半
 3 大武神 27  ◯31前半~44前半
 4 閔 中  5    44 ~ 48 
 5 慕 本  6    48 ~ 53
 6 太祖大 94  ◯ 53 ~ 121
 7 次 大 20  ◯121 ~ 130頃
 8 新 大 15  ◯130頃~ 179
 9 故国川  9   179 ~ 197
10 山 上 31   197 ~ 227
11 東 川 22   227 ~ 248
12 中 川 23   248 ~ 270
13 西 川 23   270 ~ 29
14 烽 上  9   292 ~ 300
15 美 川 32   300 ~ 331
16 故国原 41   331 ~ 371
17 小獣林 14   371 ~ 384
18 故国壌  8  ◯384 ~ 391
19 広開土 22  ◯391 ~ 412
20 長 寿 79   413 ~ 491
21 文 咨 28   492 ~ 519
22 安 蔵 13   519 ~ 531
23 安 原 15   531 ~ 545
24 陽 原 15   545 ~ 559
25 平 原 32   559 ~ 590
26 嬰 陽 29   590 ~ 618
27 栄 留 25   618 ~ 642
28 宝 蔵 27   642 ~ 668
 
 図表22 高句麗王の修正しない系図
 
 1東明──2琉璃─┬─3大武神──5慕本
1東 明──2琉璃─├─4閔中
1 東明──2琉璃─└─再思──┬─6太祖大
 
1東明──2琉璃─└─再思──├─7次大
1 東明──2琉璃─└─再思──└─8新大─┬─9故国川
1東 明──2琉璃─└─再思──└─8新大─└─10山上──┐
                              │
 ┌─────────────――――――――――――――─┘
 │
 └─11東川───12中川───13西川─┬─14烽上
1東 明──2琉璃─└─再思───13西川─└─◯◯――─┐
                             │
 ┌──────────────────────――――─┘
 │
 └─15美川───16故国原─┬─17小獣林
└─ 15美川───16故国原─└─18故国壌──┐
                         │
 ┌─────────────―――――――――─┘
 │
 └─19広開土──20長寿──◯◯──21文咨──┐
                          │
 ┌─────────────――――――――――─┘
 │
 └┬─22安蔵
 ─└─23安原──24陽原───25平原─┬─26嬰陽
─ 25        平       原─├─27栄留
└─24陽  原───25原       ─└──◯◯──┐
                        ┌────┘
                        └──28宝蔵

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