(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
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15 古代朝鮮(前)

箕子朝鮮

 古代朝鮮の歴史については、金富軾(きんふしき)の書いた『三国史記』がありますが、日本の場合と同じで、古い記事は信用できないとされます。

 しかし、『日本書紀』の年代を修正することができて、ある程度は歴史の復元が可能になりました。そこで、『三国史記』にも再検討が必要になります。『日本書紀』と同じ方法で『三国史記』の年代修正が可能になれば、日本と朝鮮と中国の古代史を比較検討することができます。それによって、今まで誰にも知られなかった歴史が見えてくるでしょう。

 まずは、『史記』を初めとする中国の正史に登場する古代朝鮮の記事から調べます。正史の記事は東洋史の基準になりますから、正史によって、古代朝鮮史のあらましを調べます。そのあとで『三国史記』を検討して、日本と古代朝鮮の関係へと話を進めます。

 正史に朝鮮半島の国が登場するのは、箕子
(きし)朝鮮が最初です。司馬遷が書いた『史記』の「宋微子世家」によれば、周の武王が殷を滅ぼした時に、殷の王族の箕子の言葉に感服したので、箕子を朝鮮に封じて臣下の扱いをしなかったといいます。紀元前千年頃のことです。殷では、その前の夏や後の王朝と違い、兄弟相続が多く見られます。日本の古代も兄弟相続が多いですから、殷の王族が朝鮮に封じられたことは無視できません。

 「後漢書東夷伝」の序文の末尾には、箕子朝鮮について次のように書かれています。

 昔、箕子が殷の衰運を避けて朝鮮に移住した。それ以前の朝鮮の国の風俗については、何も伝えられていない。箕子の八条の規約が行われるようになって、朝鮮の人々に掟の必要なことを教えた。その結果、村にはみだりに盗むものがなく、家々は夜も門に閂(かんぬき)する必要がなく、箕子以前には頑迷無知な風俗によっていた人々も、ゆったりと大まかな法にしたがうようになった。この法は七、八百年も続き、それゆえ東夷諸種族は、一般に穏やかに行動し、心に謹しむことを慣習としている。この慣習が、東夷と他の三方の蛮夷との異なるところである。すくなくとも政治のゆきわたったところでは、道義が行なわれる。……省略……後に、中国との交易によって朝鮮との交通が次第に開け、中国王朝と交渉するようになったが、燕人の衛満は、その慣習を乱した。これより朝鮮の風習も次第に軽薄になった。老子は、「法令が多く出されることは盗賊が多く居ることだ」と言っている。箕子が条文を簡略にし信義をもってこれを運用したことは、聖賢が法律を定める基本を確立したものというべきである。(井上秀雄訳)

 ここには、箕子の統治によって朝鮮がよく治められたと書かれていますが、殷の王家は、もともと東北・朝鮮方面の出身だったかもしれません。箕子が中国人だったら、そううまくは治まらなかったでしょう。そしてまた、中国文明とは、四方の異民族の出会うところに生まれた混合文明だという疑いがかかります。

 この文章は、『漢書』の「地理誌・燕地の条」にある同様の文章を要約したもので、どちらも平凡社の『東アジア民族史・正史東夷伝・全二巻』(井上秀雄他訳注)で読めます。この文章によって、中国では箕子がすぐれた思想家・政治家として認識されていたことがわかります。

 古代朝鮮の歴史書にはもう一つ、一然の書いた『三国遺事』があります。これによれば、箕子朝鮮より古い時代の話として、檀君神話という建国神話があります。檀君はおそらく箕子の別名だろうと予想していますが、何せ神話ですからどのように理解したらよいのか、まだわかりません。そこでこれには触れずに、話を先に進めようと思います。

衛氏朝鮮と辰国

 「史記朝鮮伝」によれば、燕がその全盛時以来、朝鮮・真番を攻略し、統属させようとしたといいます。朝鮮は箕子朝鮮で、真番は朝鮮半島の南部でしょう。

 BC222年に秦が燕を滅ぼすと、朝鮮は遼東郡の境域外とされたといいます。秦と箕子朝鮮の境界は鴨緑江のあたりと思われます。

 BC206年に秦が滅んで漢の時代になると、燕人の衛満が朝鮮に亡命し、やがて国を奪って王になりました。これを衛氏朝鮮といいます。

 『三国志』の「魏志韓伝」によれば、国を奪われた箕子朝鮮の準王は、海に逃れて南に渡り、韓王になったといいます。漢では、衛満の国を承認する代わりに、二つの条件を課しました。

  ①.東夷の中国への侵入を抑える。
②.東夷の君長の朝貢を妨害しない。

 ところが衛氏は約束を守りませんでした。衛氏は真番・臨屯を服属させ、その君長が漢に朝貢するのを妨害し、自らも朝貢しませんでした。そこで漢は軍を派遣し、BC108年に衛氏を滅ぼしました。

 ここに真番・臨屯という地名が登場するのは、真番を二つに分けたのでしょう。箕子朝鮮の準王が南に渡って韓王になったことによる変化です。準王の移住した東部(辰韓・弁辰)が臨屯だと思われます。

 「後漢書韓伝」によれば、半島南部の韓国が昔の辰国だといいます。辰には朝という意味がありますから、辰国は朝鮮国を言い換えて区別したものでしょう。昔の辰国とは、昔の箕子朝鮮国という意味になります。南に渡った準王は、馬韓を降伏させて韓王になったが、その子孫が滅ぶと、馬韓人が自立して辰王になったと書かれています。

 「魏志韓伝」によれば、半島東南部の辰韓が昔の辰国だといいます。準王は海から韓族の地に入って住み着き、自ら韓王を称したと書かれています。また、『魏略』を引用して、準王の一族で国に留まったものは姓を韓氏と偽ったとありますから、韓国という地名は準王に由来するかもしれません。あるいは逆に、韓氏という姓が韓国の王に由来するのかもしれません。また、辰王は馬韓の月支国にいて、馬韓人を用いると書かれています。辰韓・弁辰の十二国も辰王に臣属するが、その辰王はなぜか、自ら王になることはできないといいます。

 これらの史料を総合すると、準王が辰韓の地に入って住み着き韓国の王になったが、やがて子孫が絶え、馬韓人がもとのように韓国を制圧して、辰王を称したと言えそうです。辰韓と弁辰には移住者が多くいましたが、その支配勢力は弁辰だったと思われます。弁には冠という意味があるからです。韓国の先住民は馬韓人だったのでしょう。

 「魏志辰韓伝」によれば、辰韓には秦韓の別名があり、秦人の言葉(文字)を使う人々がいたと書かれています。土地の老人によれば、彼らは昔の亡命者で、秦の労役を避けるために韓国に来たのであり、馬韓が東方の地を割いて与えてくれたといいます。

 彼らは秦の徐福の子孫だと思います。陳寿はこの人々を楽浪人の子孫と混同しましたが、楽浪人は箕子朝鮮(辰国)の人々で、徐福より遅れて韓国に移ってきました。

 「後漢書濊伝」によれば、濊
(わい)・沃沮(よくそ)・高句麗は、昔はみな朝鮮の地だったといいます。BC128年には、濊の君長が衛氏に反逆し、28万人を率いて遼東郡に服属しました。衛氏には人望が無かったのです。漢はこの地に蒼海郡(そうかいぐん)を置きましたが、すぐに廃止されました。蒼海郡と遼東郡の間に険しい蓋馬(ケマ)高原があり、支配が及びにくかったからでしょう。

 正史の中の朝鮮の歴史記事は、断片的です。そのため全体像を復原する作業は、まるでジグソーパズルのようです。

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