(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
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15 古代朝鮮(後)

楽浪郡の時代

 BC108年に衛氏を滅ぼした漢は、朝鮮半島に四つの郡を置きました。楽浪・玄菟・真番・臨屯の四郡です。衛氏朝鮮の西半部に楽浪郡を置き、東半部(旧蒼海郡)に玄菟郡を置きました。韓国西半部(馬韓)に真番郡を置き、韓国東半部(辰韓・弁辰)に臨屯郡を置いたと思われます。

 しかし住民の抵抗にあって、楽浪郡以外は長続きしませんでした。玄菟郡はほとんどの領域を放棄して、遼東郡の中に移りました。真番郡と臨屯郡は、20年ほどで廃止されました。以後は、楽浪郡による間接的な半島支配に移行しました。

 漢末から魏の時代には楽浪郡の南半分に帯方郡が置かれ、二郡で半島を支配しました。

 「魏志韓伝」には、注目される記事がありました。馬韓の辰王は自ら王になることはできないとする記事です。中国の郡支配に強い抵抗を示した韓国の王が、自ら王になれないというのは理解できません。辰王が豪族らに共立される存在だったかもしれませんが、二郡の間接支配の陰に隠れて、別の支配体系があったかもしれません。

 思い出すのは、倭の五王の主張です。倭の五王は、馬韓・秦韓・弁辰と百済・新羅・加羅の支配権を主張し、その承認を宋に求めました。わざわざ古い三韓の名前まで持ち出したところを見ると、五王の主張の根源は3世紀までさかのぼる可能性があります。倭国の支配が辰王に及んでいても不思議ではありません。『日本書紀』では、4世紀の神功皇后の三韓征伐を韓国支配の根源と理解していますが、事実はもっと古いのだと思います。

 ただ、倭国の韓国支配を正史で確認することはできません。卑弥呼の支配が韓国に及んだとする記事はありません。「魏志韓伝」には、韓国が倭と接しているとか、弁辰は鉄を産し、それを韓・濊・倭が取っており、楽浪郡と帯方郡にも供給すると書かれているだけです。

 3世紀の百済や新羅はまだ小国です。馬韓の中の伯済国が後の百済で、辰韓の中の斯盧国が後の新羅だとされます。また、高句麗が百済・新羅の支配権を主張したことも謎です。高句麗は、自らを箕子朝鮮の後継者に任じたのかもしれませんし、他の理由があったのかもしれません。

 4世紀になると、世界が一変します。中国では北方民族が活発になって、316年に晋が滅び、翌年には江南で新たに東晋が建国されました。この時期の混乱に乗じて、高句麗が楽浪郡を滅ぼしました。313年のことです。高句麗はさらに南の帯方郡も滅ぼしました。

 帯方郡が滅んだときには、百済が帯方郡を助けて戦ったと『三国史記』に書かれています。百済は帯方郡の遺民を吸収し、国力の充実を図ったのでしょう。4世紀後半には、高句麗を攻撃するような国に成長しました。

 新羅の成長もこの頃からです。中国の植民地支配という重しが取れ、民族勢力が勃興する時代になりました。ただし、準王(韓王)の権威を引き継いだ馬韓の旧勢力は、次第にその力を弱めることになりました。北方系の新興勢力が登場したのです。

 
 


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