(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
U古暦の巻  四章 大和朝廷の年代論 (12・1314
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14 謎の4世紀

応神と神功

 中国の歴史書に注目すれば、日本の4世紀は謎の世紀です。それは、4世紀の日本が中国の歴史書に全く登場しないからです。しかし天皇の在位年表が復元できれば、中国の歴史書が無くても『日本書紀』や『古事記』の記事によって、建国史の復元が少しは容易になるでしょう。

 応神天皇は仁徳・履中・反正の三代の父で、在位は半年暦の41年です。390年前半1月にこの年を元年として即位し、410年前半2月に亡くなりました。

 神功皇后は応神天皇の母で、応神天皇が成長するまで69年間摂政を務めたとされます。ところが、この時期の応神天皇は皇太子と書かれており、神功皇后が天皇だったとも考えられます。それでも、この時期の天皇は応神天皇とするのが、『日本書紀』の建前です。

 建前を重視すれば、神功皇后摂政の69年には、仲哀天皇の9年が含まれます。差し引き60年ですが、これは半年暦です。神功皇后は360年前半を摂政元年として、389年後半4月に亡くなりました。

 『日本書紀』の建前では神功皇后は摂政ですが、神功皇后を天皇として認めたいとする本音も見え隠れしています。思想的に首尾一貫していません。本音に従えば、この時期の応神天皇は皇太子です。そこで修正年表と修正系図では、神功皇后を15代神功天皇として数えることにしました。

朝鮮半島出兵

 『日本書紀』の神功皇后の条には、半ば神話と化した三韓征伐の話があります。そこでは百済から伝わった史料を用いて、4世紀後半に倭国が朝鮮半島に出兵したことを伝えています。

 『日本書紀』の紀年では神功皇后は3世紀の人で、邪馬台国の女王卑弥呼に比定されています。したがって、ここに4世紀の記事をはさむことには無理があります。ところが在位年代を修正すると、神功皇后の時代はまさに4世紀後半で、朝鮮半島出兵の記事が正しいことを裏付けています。

 『日本書紀』の記事は、一見すると混乱や矛盾が目立ちます。しかしそれは、集めた史料に矛盾が多いせいです。『日本書紀』では、矛盾があっても、もとの史料を損ねることなく、原形のまま伝えようとしたようです。これが『日本書紀』の良いところです。編者舎人親王の人柄として、円満な常識と理性のバランスを感じます。これは舎人親王の個性というより、時代の空気だったかも知れませんが、いずれにしても好ましいことです。口伝えの伝承は信用できないとして軽く見られがちですが、しっかりした物差しさえあれば、捨てたものではありません。

 4世紀後半の百済には、近肖古王(在位346〜375)が現れました。近肖古王の時代には歴史の記録が始まり、高句麗を攻撃するまでに国力も充実し始めたようです。近肖古王は神功皇后と同時代の王ですから、その活躍の裏には倭国の軍事的後押しがあったと思われます。

 また、4世紀になると、高句麗に広開土王(在位391〜412)が現れました。広開土王はその諡号
(おくりな)の通り、四方に軍を派遣して領土を広げたといい、朝鮮半島の南部では倭国の軍と対峙しました。この時の天皇は応神天皇だったことになります。

 『宋書』によれば、5世紀の倭の五王は、何度も朝鮮半島南部の支配権を主張しました。その主張の根拠と思われるものが、倭王武の上表文の中にあります。

   わが先祖は、代々自ら甲冑をまとって幾山河を踏みこえ、席の暖まる暇もなく戦ってきた。東方の毛人を征すること五十五国、西方の衆夷を服すること六十五国、海を渡って北方を平らげること九十五国にものぼった。

 先祖が韓国を平定したという主張がここにあります。しかし、宋の朝貢国だった百済の支配権を主張したところを見ると、倭国の主張には無理があります。それでも、神功・応神朝の倭国が朝鮮半島に出兵し、強い軍事的圧力を加えたことは史実でしょう。そしてその記憶が、倭王武の上表文に表れたのでしょう。

 一方、倭国と対立した高句麗の主張にも、不可解なところがあります。広開土王碑文には、次の文章があります。

  百残新羅、旧是属民、由来朝貢。
(百済と新羅は、昔は高句麗の領民だった。だからこれまで朝貢してきた。)

 他の史料に、これと同じ記事はありません。しかし、天皇の在位年表を明らかにしていくと、朝鮮半島の歴史も見えてきます。このまま作業を続けます。

ヤマトタケル

 仲哀天皇は神功皇后の夫で、在位は半年暦の9年です。355年後半1月にこの年を元年として即位し、359年後半2月に亡くなったことになります。しかし本当は、退位したのではないかと思います。

 成務天皇は、仲哀天皇の父のヤマトタケル(日本武尊)の兄とされます。この系譜にも疑問を感じます。在位は60年ですが、その中には景行天皇の60年が含まれます。差し引き0年です。355年前半に即位はしたものの、元年を迎えることなく亡くなったと思われます。不自然なことです。何か事件があったのではないでしょうか。

 『古事記』の景行天皇の条には、ヤマトタケルが兄を殺害したと書かれています。殺害された兄は、成務天皇ではないかと思われます。成務天皇の死後には仲哀天皇が即位したのですから、仲哀天皇が実はヤマトタケルその人ではないかと思えてきます。

 ヤマトタケルは勇ましい人物とされますが、クマソタケルやイズモタケルをだまし討ちにしたともいいます。必ずしも好意的に受け入れられた人物ではありません。仲哀の仲は、兄弟の仲で二番目をさし、哀は悲しみや不憫
(ふびん)という意味です。何を暗示するのでしょうか。

 また、『日本書紀』の成務天皇の条によれば、武内宿祢
(たけうちのすくね)が天皇と同じ日に生まれたので重く用いたと書かれています。これも重要です。武内宿祢とヤマトタケル(日本武尊)は、武の字を共有し、景行朝において東国に派遣されたことも共通します。そこで、武内宿祢とヤマトタケルと仲哀天皇は同一人物だと考えてみました。すると、成務天皇と仲哀天皇は、双子(ふたご)の兄弟という疑いが出てきます。宿祢(少兄・すくね)と仲がほぼ同じ意味を持つことも注目されます。

 武内宿祢は、景行朝から仁徳朝まで、『日本書紀』の紀年では170年ほど登場する人物で、実在の人物ではないとされます。しかし紀年を修正すると、その活躍は55年ほどに短縮されます。古代の人としてはかなりの長寿ですが、実在の人として不自然ではありません。

 武内宿祢と仲哀天皇が同一人物なら、仲哀天皇は治世9年で死亡したのではなく退位したことになります。退位した仲哀天皇は、兵を率いて朝鮮半島に渡ったと思われます。朝鮮半島から帰ると、武内宿祢はたえず応神天皇を守り助ける人物として活躍します。これは、応神天皇の父なのだから当然のこととして理解できます。また武内宿祢の子孫は、葛城氏や蘇我氏になって活躍しますが、その下地は武内宿祢の長寿によって、しっかり固められたのでしょう。

 武内宿祢については、『日本書紀』の孝元天皇の条から、一つの系図が作れます。

 この系図は、次に明らかにする仲哀天皇以前の修正系図とよく重なります。仲哀天皇が武内宿祢だとすると、武内宿祢の父は景行天皇となり、祖父の彦太忍信
(ひこふとおしのまこと)は崇神天皇となります。仲哀天皇だけでなく、崇神天皇にも別名があるようです。


 
 図表17    武内宿祢の出自

 ◯日本書紀

   孝元─────彦太忍信───◯◯─────武内宿祢

 ◯修正した系図

   孝元─────崇神──┬──垂仁
              └──景行──┬──成務
                     └──仲哀

 
4世紀前半の天皇

 景行天皇は、成務天皇と仲哀天皇の父で、在位は半年暦の60年です。325年後半7月にこの年を元年として即位し、355年前半11月に亡くなりました。

 景行天皇と成務天皇の在位は共に60年ですが、詳しく見ると、成務天皇が1月長く在位しました。そこで、成務天皇は355年前半12月に亡くなったと考えます。

 垂仁天皇は景行天皇の兄で在位は99年ですが、その中に崇神天皇の68年が含まれます。差し引き31年ですが、これは半年暦です。310年前半1月にこの年を元年として即位し、325年前半7月に亡くなりました。

 垂仁天皇の時代には、晋が一旦滅び、317年に東晋として再興しました。中国で王朝が替わると倭国が使者を派遣するのが通例でしたから、垂仁天皇は使者を派遣した可能性があります。常世の国に派遣されたタジマモリが、実は晋への使者だったと思われます。東晋に記録がないのは、東晋に着けなかったからでしょうか。

 10代崇神天皇は、垂仁天皇と景行天皇の父で、在位は半年暦の68年です。276年前半1月にこの年を元年として即位し、309年後半12月に亡くなりました。

 崇神天皇は、10代天皇なのにハツクニシラススメラミコト(初めの天皇)という称号を持っています。当然ながら、初代神武天皇も同じ称号を持っています。これはすでに説明したとおり、神武天皇は倭国統一前の初めの天皇で、崇神天皇は統一倭国の初めの天皇ということです。

 さて次の3世紀は、前半が邪馬台国の女王卑弥呼の時代で、後半が女王台与の時代です。崇神天皇の在位(276〜309)は、台与の時代に連続すると思われます。しかし邪馬台国時代に進む前に、古代朝鮮の歴史を振り返っておこうと思います。古代朝鮮の歴史は日本建国史に深く関わっているからです。ただし、朝鮮史はあくまでも脇道です。飛ばし読みしても結構です。

 図表18  4世紀の修正年表    ◯は即位年の翌年が元年
                  他は即位年が元年
天皇 修正
在位
年数
即位年    〜    死亡年
           または退位年
10 崇神   34.0 276年前半 1月 〜 309年後半12月
11 垂仁   15.5 310年前半 1月 〜 325年前半 7月
12 景行   30.0 325年後半 7月 〜 355年前半11月
13 成務    0.0 355年前半12月 〜 355年前半12月
14 仲哀    4.5 355年後半 1月 〜 359年後半 2月
15 神功   30.0 360年前半 1月 〜 389年後半 4月
16 応神   20.5 390年前半 1月 〜 410年前半 2月


  図表19 4世紀の修正系図

 10崇神──┬──11垂仁
       └──12景行──┬──13成務
                └──14仲哀
                  (ヤマトタケル)
                  (武内宿祢)
                     ├─────16応神
                   15神功

修正前の在位年表はこちら

修正前の系図はこちら


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