(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
U古暦の巻  四章 大和朝廷の年代論 (1213・14
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13 倭の五王(前)

半年暦と歴史上の定点

 5世紀の天皇の在位年代を特定するには、半年暦が鍵になります。

 陳寿は、「魏志倭人伝」に『魏略』からの引用文を挿入しました。そこには「倭人は正月と四季を知らない。ただ春耕秋収を記録して年数を数える。」とあります。この文章を言葉通りに受け取ると間違ってしまいます。正月も四季も知らないとは思えないからです。倭人は中国暦を知らず、半年暦を用いると理解すべきでしょう。

 半年暦は半年を一年と数える暦です。その存在は、デンマーク人のウィリアム・ブラムセンが初めて指摘し、沢武人氏が詳しく論証しました。『季刊邪馬台国83号』には、沢武人氏の論文が紹介されています。タイトルには春耕秋収とありますから、沢武人氏もまた、「魏志倭人伝」にヒントを得て半年暦を研究したのかもしれません。

 『日本書紀』によれば、6代孝安天皇の死亡年令は123才、在位は102年です。他の天皇も寿命と在位が長く、半年暦の記憶を伝えていると思います。もしかすると、長い在位年数を半分にすると、正常値に収まるかもしれません。もしそれで天皇の正しい在位年代が復元できれば、それは逆に半年暦が存在した証明にもなりそうです。

 しかし、倭国が半年暦を捨てて、中国暦を採用したのはいつか、ということがわかりません。これが問題です。それを考えるときに良いヒントになってくれるのが倭の五王です。倭の五王は、5世紀の中国南朝(主に宋)に使者を派遣した五人の倭国王です。名前を讃・珍・済・興・武といいます。この五人が日本の天皇の誰にあたるのかが、古い謎です。ところが倭の五王の謎を解こうとしたところ、逆に倭の五王こそが、天皇の謎を解く良いヒントになることがわかりました。

 五王のうち興を安康天皇とし、武を雄略天皇とする点では、多くの学者の見解が一致します。しかも幸いなことに、安康天皇の在位はわずか3年です。それなら、安康天皇の在位年代は、興の名が出る462年ごろの短期間と見て間違いありません。ならば、安康天皇の在位年代を歴史上の定点として活用できます。これがヒントです。

 安康天皇は、継体天皇の6代前の天皇で、6代の在位の合計は53年になります。継体天皇の修正された元年は502年ですから、そこから53年を引いて、449年が安康天皇の元年になります。しかしこれは、安康天皇の本当の元年ではありません。本当の元年は462年頃でなければなりません。そこで、先の六代の天皇のうち何人かの在位を半分にします。その結果として、安康天皇の在位が462年頃に収まればよいのです。

 ところが、イザ試してみると、うまくいきませんでした。それでもあきらめずにいろいろ試してみて、ようやくわかりました。どうやら5世紀の日本には、歴史の変革と反動があったようなのです。

 結論を言うと、安康・雄略・清寧の三代が初めて中国暦を採用しました。しかし続く顕宗・仁賢・武烈の三代が、半年暦を復活させました。そして続く継体天皇が、また中国暦を採用して定着させたのです。

 この見方に立つと、安康天皇の在位は459年12月から462年8月までとなって、興の時代と一致します。

 倭の五王の時代には、中国南朝との外交を通じて中国文明が流入し、中国暦が採用されたのでしょう。しかし保守派の反対も強かったようです。『日本書紀』によれば、安康天皇を初め、多くの皇族が殺害されました。天皇家の内部に深刻な対立が生まれて、激しく争ったようなのです。ついには皇位継承者さえいなくなり、応神天皇の5世の孫という継体天皇が北陸から招かれました。

 継体天皇が、都から遠い田舎から迎えられたことを不審に思う人もいるようですが、この場合は田舎にいたことが幸いだったのです。都での争いに巻き込まれなかったために、対立する両派の人々に恨まれずに迎えられたといえるでしょう。

  図表11  中国暦採用の時期

  │ 修正後の紀年 │          │ 修正前の紀年 │
  │        │  半 年 暦   │        │
  ├────────┤          │        │
  │439  允恭 │    ┌─────┼────────┤
  │        │    │     │449  安康 │
  │        │    │     ├────────┤
  │        │    │     │452  雄略 │
  ├────────┤───┘     │        │
  │460  安康 │          │        │
  ├────────┤   中 国 暦  │        │
  │463  雄略 │          ├────────┤
  │        │          │475  清寧 │
  │        │      ┌───┼────────┤
  │        │      │   │480  顕宗 │
  ├────────┤      │   ├────────┤
  │486  清寧 │      │   │483  仁賢 │
  ├────────┤─────┘   │        │
  │491  顕宗 │          │        │
  ├────────┤          ├────────┤
  │492  仁賢 │   半 年 暦  │493  武烈 │
  ├────────┤          │        │
  │498  武烈 │          │        │
  ├────────┤─────────┼────────┤
  │502  継体 │          │502  継体 │
  │        │   中 国  暦 │        │
  │        │          │        │

安康・雄略朝の画期

 小川清彦氏は、昭和21年(1946年)に「日本書紀の暦日に就いて」を発表して、安康天皇3年(雄略天皇即位前紀)以後の記事には古い元嘉暦(げんかれき)が用いられ、仁徳天皇8年以前の古い記事には新しい儀鳳暦(ぎほうれき)が用いられたことを指摘しました。中間の時代はどちらとも決められないといいます。

 大事なことは、暦の新旧が逆になることです。これからわかることは、古い時代に古い暦で新しい時代の記事が書かれ、新しい時代に新しい暦で古い時代の記事が書かれたことです。

 中国語学者の森博達
(もりひろみち)氏の『日本書紀の謎を解く・述作者は誰か』によれば、持統天皇の時代に続守言(しょくしゅげん)が雄略朝から、薩弘格(さつこうかく)が皇極朝から書き始め、途中で亡くなったといいます。書き始めたのは中国人でした。その後、文武天皇の時代になって日本人が引き継いで、雄略朝以前の古い記事を書いたといいます。使われた暦の新旧が入れ替わるのはこうした事情によります。

 小川清彦氏は暦の研究から、森博達氏は中国語の語法分析などから雄略朝に時代の画期があることを突き止めました。古代の人々の営みはいろいろなところにその痕跡を残しています。違うアプローチから同じ結論を得たところが大変興味深いところです。

参考 『日本書紀』の作者は、公式には舎人親王ということになっています。おそらく編修チームの長が舎人親王( 舎人皇子・
とねりのみこ )だったのでしょう。

今朝、NHKの朝の番組で、里中満智子さんが舎人皇子の歌を紹介してくれました。(2009・7・26追記)

   舎人皇子の御歌一首

   ますらをや 片恋せむと嘆けども  醜
(しこ)のますらを なほ恋ひにけり(万葉集 117)

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