(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  四章 大和朝廷の年代論 12・13・14

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13 倭の五王(後)

5世紀の天皇

 さて、それでは5世紀の天皇の在位年代をさかのぼっていきましょう。

 武烈天皇の在位は半年暦の8年になります。497年後半12月に即位し、498年前半を元年として、501年後半12月に亡くなりました。

 仁賢天皇は武烈天皇の父で、在位は半年暦の11年です。492年後半1月にこの年を元年として、497年後半8月に亡くなりました。

 顕宗天皇は仁賢天皇の弟で、在位は半年暦の3年です。491年前半1月にこの年を元年として即位し、492年前半4月に亡くなりました。

 仁賢・顕宗の兄弟は履中天皇の孫です。父は押羽皇子
(おしはのみこ)といい、雄略天皇に殺害されました。そのために兄弟は播磨国(兵庫県南部)に身を潜めていました。雄略と清寧の父子が亡くなって跡継ぎが無かったので、招かれて即位したといいます。

 清寧天皇の在位は、中国暦の5年です。486年1月にこの年を元年として即位し、490年1月に亡くなりました。

 雄略天皇は清寧天皇の父で、在位は中国暦の23年です。462年11月に即位し、翌年を元年として、485年8月に亡くなりました。雄略天皇の在位年代は、倭王の武に一致します。

 『梁書』によると、502年に倭王の武に対する進号記事があります。しかしこの記事には朝貢記事がありません。新王朝の開始を飾る一方的な祝賀記事と思われます。502年に武が生きていたとは考えないほうが良いでしょう。

 5世紀の中国南朝では、新王朝を開いたときに、倭王に爵号を与える習慣がありました。東晋が滅び、宋朝が開始された翌年(421年)には讃に爵号が与えられました。続く南斉朝の元年(479年)には武の王号が進められました。これらの前例に習って、梁朝の元年(502年)にも武の王号が進められたのです。

 昔、東晋の前身,晋朝開始の翌年(266年)に、邪馬台国の女王台与が朝貢しました。これは、「倭王は歳時を以って来たり献見する。」とした『後漢書』の記事を体現するものでしたから、中国ではたいそう喜んで、5世紀の習慣につながったと思います。

 安康天皇は雄略天皇の兄で、在位は中国暦の3年です。459年12月に即位し、翌年を元年として、462年8月に殺害されました。安康天皇の在位年代は、倭王の興に一致します。

 允恭天皇は、安康・雄略二代の父で、在位は半年暦の42年です。439年前半12月にこの年を元年として即位し、459年後半1月に亡くなりました。允恭天皇の在位年代は、倭王の済に一致します。

 反正天皇は允恭天皇の兄とされ、在位は半年暦の5年です。436年後半1月にこの年を元年として即位し、438年後半1月に亡くなりました。反正天皇の在位年代は、倭王の珍に一致します。

 履中天皇は反正天皇の兄で、在位は半年暦の6年です。433年後半2月にこの年を元年として即位し、436年前半3月に亡くなりました。履中天皇の在位年代は、讃と珍の間になります。

 ここまでくると、讃は仁徳天皇です。しかしここで、問題が一つ生まれます。『宋書』の讃と珍は兄弟ですが、『日本書紀』の仁徳天皇と反正天皇は父子とされています。この問題では、『宋書』の方が正しいと思います。『日本書紀』には、継体天皇のところにも似たような間違いがあったからです。


  図表12  倭の五王の系図


 ◯宋書

  ──┬─讃      済───┬──興
    └─珍          └──武

 ◯日本書紀

  ────仁徳──┬──履中
          ├──反正
          └──允恭──┬──安康
                      └──雄略─────清寧


ゴルバチョフの贈り物

 仁徳天皇以前については、在位年数が長すぎるところに問題があります。半分にすればうまくいくと思いましたが、半分にしても長すぎます。四分の一にしてようやく、常識的な数字になります。しかし、四分の一にするには理由がありません。在位年数が四倍になる理由など、想像もできませんでした。

 ところがある日、思いもよらず謎解きのヒントが旧ソ連のグルジア共和国から届きました。当時のソ連では、ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)が進行中だったため、日本のテレビ取材班が入れたようです。

  (グルジア:グルジア国の要請で、日本政府は「ジョージア」に表記変更をするらしいです。20141006追記)
  (グルジア:グルジアはロシア語読み、ジョージアは英語読みらしいです。20141006追記)
  (グルジア:グルジア語での国名は、サカルトベロ(読売新聞)らしいです。2014・10・06追記)

 グルジアの周辺は古い神話の舞台です。北のコーカサス山脈はギリシャ神話の箱舟伝承の地であり、南のトルコのアララト山はノアの箱舟の伝承地です。テレビでは、長寿の国としても良く知られるグルジアの、変わった習慣を紹介しました。この国では自分の年令を数えるのに、父親が生まれてから何年と数えるようです。親子合算の年令です。

 こんなものがあるのなら、親子合算の在位年数があってもよいと考えました。これでうまくいけば、系図まで復元できます。

 仁徳天皇の在位は87年ですが、そこに応神天皇の41年が含まれるなら、差し引き46年です。それも半年暦の46年です。410年後半1月に、この年を元年として即位し、433年前半1月に亡くなりました。仁徳天皇の在位年代は、倭王の讃に一致します。仁徳天皇の在位年数には半年暦と親子合算が重なって、およそ四倍になっています。

 仁徳・履中・反正の三代は、やはり兄弟です。理由は、履中天皇と反正天皇の在位に親子合算が無いからです。允恭天皇だけが仁徳天皇の子でしょう。親子でも、在位が連続しない時には、親子合算はされないのでしょう。

 また、仁賢天皇と武烈天皇は親子ですから、本来なら親子合算がされるはずでした。しかし、されていません。これはおそらく、半年暦だけ復活して、親子合算は復活しなかったのでしょう。


 ちょっと解説  ヒッタイトの鉄器文明

 アララト山の西のトルコには、かつて鉄器文明を生み出したヒッタイト国が栄えました。ヒッタイトには、九つの頭を持った怪獣を倒した英雄ケルラシュ(カルロス?)の伝説があります。似た話はギリシャ神話にもあります。スサノオのオロチ退 治の起源は、鉄器文明を生み出したヒッタイトにさかのぼるのではないかと思われ ます。日本文明は、決して極東の島国に孤立した文明などではないと思います。地 球文明の一翼を担っているのです。
 
(参考・最古の鉄器文明)

 図表13   5世紀の修正年表    ◯印は即位年の翌年が元年
                    他は即位年が元年
天皇 修正
在位
年数
     即位年   ~  死亡年
              または退位年
17  仁徳 23.0  410年後半 1月~433年前半 1月
18  履中 3.0  433年後半 2月~436年前半 3月
19  反正 2.5  436年後半 1月~438年後半 1月
20  允恭 21.0  439年前半12月~459年後半 1月
20  安康 ◯ 459年12月 ~ 462年 8月
22  雄略 23
◯ 462年11月 ~ 485年 8月
23  清寧   486年 1月 ~ 490年 1月
24  顕宗 1.5  491年前半 1月~492年前半 4月
25  仁賢 5.5  492年後半 1月~497年後半 8月
26  武烈 4.0 ◯497年後半12月~501年後半12月

修正前の在位年表はこちら

修正前の系図はこちら

 図表15   宋書倭国伝
 西暦     記 事
421  讃に爵号を与えた。
425  讃が朝貢した。
 讃が死んで弟の珍が立ち、朝貢した。使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と自称した。珍を安東将軍倭国王とした。
 
倭隋等13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にした。
443  済が朝貢した。安東将軍倭国王とした。
451  済に使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加 え、安東将軍はそのままとした。23人を軍郡にした。
 済が死んで世子興が朝貢した。
462  興を安東将軍倭国王とした。
 興が死んで弟の武が立った。使持節都督倭・百済・新羅・任那・加 羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と自称した。
478  武が朝貢し、上表文を提出した。使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王とした。
 図表16   他の正史の倭国記事
西暦     記 事
413  倭国が朝貢した。          (晋書安帝本紀)
 晋の安帝の時、倭王の賛がいた。     (梁書倭伝)
430  正月に倭国王が朝貢した。
438  4月に倭国王珍を安東将軍にした。
443  倭国が朝貢した。
451

 秋7月に安東将軍倭王綏済を安東大将軍に進めた。
               
(ここまで宋書文帝本紀)

460  12月に倭国が朝貢した。
462  3月に倭国王世子興を安東将軍にした。
              (ここまで宋書孝武帝本紀)
477  冬11月に倭国が朝貢した。
478

 5月に倭国王武が朝貢した。武を安東大将軍にした。
               (ここまで宋書順帝本紀)

479  安東大将軍倭王武鎮東大将軍に進めた。
502  鎮東大将軍倭王武を征東(大)将軍に進めた。
                    (梁書武帝紀)


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