(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
U古暦の巻  四章 大和朝廷の年代論 121314)
  もどる    つぎへ    目次2へ

12 継体〜欽明朝の謎

推古の風

 『日本書紀』によれば、推古天皇の28年(620年)に、聖徳太子と嶋大臣(蘇我馬子)が国史を編修したといいます。

   是歳(ことし)、皇太子(ひつぎのみこ)・嶋大臣(しまのおほおみ)、共(とも)に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)(およ)び国記(くにつふみ)、臣(おみのこ)(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)百八十部(ももあまりやそとものを)(あわせ)て公民等(おほみたからども)の本記(もとつふみ)を録(しる)す。

 これは国史編修に触れた最初の記事で、二人の業績は推古という時の天皇の諡号(おくりな)に反映されました。しかし残念なことに、この国史は後世に伝わらなかったといいます。

 この推古朝を境にして、日本は歴史時代に入ったといえます。しかし推古朝以前の記事は、信頼されていません。古い時代にはまだ国史編修の習慣がなく、口伝えによって歴史を伝えたために、正確な歴史が伝わらなかったとされます。かつては「推古朝以前は歴史学の対象ではない。」と言われることもあったと、井上光貞氏は『神話から歴史へ・日本の歴史1』の中で書いています。

 そこで、推古朝以前の全天皇の在位年代を明らかにしようと思い立ちました。推古朝以前の歴史を明らかにするには、これが欠かせないと思うからです。幸いなことに、『日本書紀』には全天皇の在位年数が記録されています。その数字は信用できないとされますが、ウソかマコトか、「魏志倭人伝」をヒントに試したいことがあります。推古天皇の在位年代が疑われることはまずありませんから、推古朝を起点に歴史をさかのぼろうと思います。

6世紀の天皇

 『日本書紀』によれば、推古天皇は592年12月に即位しました。翌年の593年を治世元年として、治世36年の628年3月に亡くなりました。ここに見る称元法は『日本書紀』の特徴で、今の称元法とは違います。今なら推古天皇の元年は592年だし、在位は1年長い37年になります。

 崇峻天皇は推古天皇の弟で、在位は5年とされます。587年8月に即位し、翌年を元年として、592年11月に殺害されました。

 用明天皇は推古天皇の兄で、聖徳太子の父です。在位は2年とされます。585年9月に即位し、翌年を元年として、587年4月に亡くなりました。

 敏達天皇は推古天皇の夫で、母の違う兄でもあります。在位は14年とされます。572年4月にこの年を元年として即位し、585年8月に亡くなりました。

 欽明天皇は敏達・用明・崇峻・推古の四代の父で、在位は32年とされます。もしこの年数が正しければ、539年12月に即位し、翌年を元年として、571年4月に亡くなったことになります。しかし、この在位年数については異伝があります。

 聖徳太子の古い伝記の一つ『上宮聖徳法王帝説』によれば、欽明天皇は治世41年辛卯
(しんぼう)年(571年)4月に亡くなったといいます。逆算すると、欽明元年は531年になります。

 また、京都市山科
(やましな)の醍醐寺(だいごじ)に伝わる『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』によれば、仏教公伝を欽明天皇の治世七年戊午(ぼご)年(538年)としています。逆算すると、欽明元年は532年になります。

 二つの異伝では元年が1年ずれています。これは称元法の違いでしょう。そこで、欽明天皇は531年に即位し、532年を元年とし、治世40年の571年4月に亡くなったと考えることができます。

 問題は、『日本書紀』と異伝とどちらが正しいかということですが、確かなことはわかりません。ただ異伝を採用した方がスムーズに歴史をさかのぼることができました。そこで、531年から539年までの間は、欽明天皇が即位しないまま政治を見た称制の期間としてはどうでしょうか。それなら、『日本書紀』と異伝の両方とも正しいことになります。

 この問題は明治時代には平子鐸嶺
(ひらこたくれい)が取り上げ、昭和になると喜田貞吉が取り上げて、これから述べる継体朝の問題と絡めて論じています。また、平安時代には南都の僧が異伝を支持し、比叡山の最澄が『日本書紀』を支持したことがあるといいます。古い問題です。

 宣化天皇は欽明天皇の兄とされ、在位は4年といいます。527年12月に即位し、翌年を元年として、531年2月に亡くなりました。

 『日本書紀』の継体天皇の条には、『百済本記』を引用して、辛亥
(しんがい)年(531年)に、日本の天皇・皇太子・皇子が共になくなったと書かれています。『日本書紀』ではこの天皇を継体天皇と判断しました。しかし実は、この天皇は宣化天皇です。ただし宣化天皇と一緒に皇太子・皇子が亡くなったとする記事はありません。『日本書紀』には、宣化天皇と皇后と儒子(じゅし・幼児)が合葬されたとあるだけです。

 安閑天皇は宣化天皇の兄で、在位は2年とされますが、実は1年です。526年2月に即位し、翌年の元年、527年12月に亡くなりました。

 継体天皇は安閑・宣化・欽明という三代の父とされ、在位は25年とされます。502年1月にこの年を元年として即位し、526年2月に安閑天皇に譲位して亡くなりました。

歴史の空白

 6世紀の天皇の在位年表を復元できましたが、この時代には『日本書紀』の作者を悩ませた問題があります。それは、531年(辛亥年)に日本の天皇が亡くなったとする『百済本記』の記事と、日本側の記録が一致しなかったことです。一致しなかった理由は、欽明天皇の在位年数を間違えたことにあります。

 欽明天皇の在位年数を間違えた結果、それ以前の天皇の在位が全てずれてしまいました。そのために、継体天皇の死亡年は534年になって、531年に亡くなった天皇がどこにもいなくなったのです。そこでどうしたかと言うと、継体天皇の死亡年をさらにずらして531年とし、次の安閑天皇の即位年は534年のままとしました。532年と533年は歴史が空白になりました。

 本来なら、安閑天皇の元年は535年のはずですが、即位した534年が元年とされました。一方、534年は初め継体天皇28年でしたが、継体天皇は25年の531年に亡くなったことにされました。

 しかし、継体天皇の28年という記事には疑問を感じます。継体天皇の在位はもともと25年だったとしたほうが、スムーズに歴史をさかのぼることができたからです。『日本書紀』の作者は、継体天皇の死亡年を531年とする事情を説明したあと、「後
(のち)に勘校者(かんがえむひと)、知之也(しらむ)。」と書きました。原典を尊重する態度が感じられます。

継体朝の系図

 継体朝から欽明朝にかけては、在位年代のほかに天皇の続き柄にも疑いがあります。『日本書紀』には継体・安閑・宣化の

三代については、死亡時の年令が書かれています。これによってこの三代の年令差がわかります。

 図表8   天皇の死亡時の年令(日本書紀)
西暦 継体 安閑 宣化 欽明
531 82才死亡 66 65 記載なし
534 82才死亡) 69 68 ーー
535 ーー 70才死亡 69 ーー
539 ーー ーー 73才死亡 ーー

 これによれば、継体と安閑の年令差は16才、継体と宣化の年令差は17才になります。ただし、継体天皇が534年に82才で亡くなったとすれば、年令差はそれぞれ13才と14才になります。もとの伝承は後者でしょうから、継体と安閑・宣化は親子というより兄弟です。おそらく、継体と欽明だけが親子でしょう。

 古代の日本では、皇位の兄弟相続はよくあることでした。本来なら、宣化天皇のあとにはその子が天皇になり、欽明天皇には順番が回らなかったと思います。ところが『百済本記』によれば、天皇・皇太子・皇子が一緒に亡くなったとあります。そのあとに欽明天皇が即位しました。欽明天皇は、クーデターによって即位した可能性があります。しかし、欽明天皇の在位は40年と長く、若くして即位したと思われますから、蘇我氏の関与も疑われます。

 また、クーデターといえば、継体天皇の時代に、北部九州を巻き込んだ磐井
(いわい)の反乱がありました。反乱は鎮圧されましたが、乱のあとで北部九州の人々が差別されて、発言権が制限されなかっただろうかと心配しています。もし北部九州の伝承が国史から排除されたりすると、それは大きな損失になります。

 実際に、北部九州が日本建国史に大きく関わったことは確かなことです。しかも、北部九州における歴史の記憶が国史から欠落したこともまた、確かなことです。


 図表9   6世紀の修正系図

 彦主人─┬─27継体───30欽明─┬─31敏達
     ├─28安閑        ├─32用明───聖徳
     └─29宣化        ├─34推古
                   └─33崇峻

 図表10  6世紀の修正年表   〇印は即位の翌年が元年
                 他は即位年が元年

天皇 修正
在位
年数
    即位年   〜  死亡年
             
または退位年
27 継体 25    502年 月 〜 526年 2月
28 安閑 1  〇 526年 2月 〜 527年12月
29 宣化 4  〇 527年12月 〜 531年 2月
30 欽明 40  〇 531年12月 〜 571年 4月
31 敏達 14    572年 4月 〜 585年 8月
32 用明 2  〇 585年 9月 〜 587年 4月
33 崇峻 5  〇 587年 8月 〜 592年11月
34 推古 36  〇 592年12月 〜 628年 3月

修正前の系図はこちら

修正前の在位年表はこちら


  もどる    つぎへ    目次2へ