(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
T伝説の巻  三章 茨田の堤 91011
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11 仁徳朝の悲願

和気清麻呂の堀川

 『続日本紀』によれば、行基の時代からそう遠くない桓武朝の788年に、和気清麻呂(わけのきよまろ)がまた上町台地で川を掘りました。しかし、これも未完に終わりました。四天王寺の南を掘ったといい、天王寺区に河堀・堀越・川底池などの地名が残っています。

 和気清麻呂は、785 年にも別の川を掘りました。味生野
(あじふの)から三国川に至る川を掘ったといいますから、安威川の水を西に流して、淀川区東三国で三国川に合流させたようです。それまでの安威川は南流して、東淀川区南江口で淀川に合流していたのです。

 味生野の堀川は成功して、今は安威川の下流部分になっています。この工事の指揮を取ったのがだれなのか、『続日本紀』には明記されていません。しかしこの前後の数年間、和気清麻呂が摂津大夫(摂津国の長官)だったから間違いないでしょう。

 この堀川の完成によって、尼崎から京都方面まで西風を受けてスムーズに、船でさかのぼることができるようになりました。おそらくこのときを境に、淀川水運が栄えたと思います。この堀川は、行基が果たせなかった大庭の堀川に代わるものとして計画され、掘られたのです。

 しかしこの堀川には欠点がありました。それは、淀川の水が安威川に向かって逆流するようになり、安威川の水はけが悪くなったことです。

 この問題は、ヨハネス・デレーケの改修工事によって解消しました。ヨハネス・デレーケは南江口から西に向かって運河を掘りました。この運河は、安威川の流れを妨げないように工夫して、安威川に合流させられました。その結果、水運の便を確保した上に、安威川の水はけも良くなったのです。この工事に伴って、味生野の西を南北に流れていた、安威川の古い川筋は埋められました。今、ヨハネス・デレーケの運河から下流の川筋を神崎川と呼んでいます。

 さて、神崎川の消息について一つ付け加える話があります。東淀川区の淡路には、淀川から神崎川に抜ける逆川という川が昔ありました。江戸時代初めごろの古地図によると、淀川と神崎川から堤防によって締め切られ、廃川化したことが読み取れます。太古、淀川の海への出口だった川の一部がついに、姿を消したのです。

 
 
仁徳の堀川

 和気清麻呂が試みた上町台地の堀川には、大和川の付け替えという目的がありました。和気清麻呂は、大和川の水を平野川から堀川へ導き、上町台地を横切って西の海へ流そうとしたようです。

 ここで注目されるのが、仁徳朝に作られたという横野の堤です。生野区南巽には巽神社があり、そこに横野神社が合祀されています。このことから、巽神社から遠くないところに横野神社や横野の地名があったと思われます。巽神社の1キロほど南には、平野川が西北に流れています。

 横野神社の位置から判断して、横野の堤は西北に流れる平野川の北岸を守る堤だったと思います。その堤の延長戦は、和気清麻呂の堀川にほぼ重なります。そうすると、和気清麻呂や行基より前に、仁徳朝においても上町台地を掘った可能性があります。

 もしかすると、仁徳朝の掘江は上町台地の堀川をさしたかも知れません。仁徳朝の堀江には淀川と大和川を分離する意図がありましたから、堀江は上町台地を横切るものと見るほうが自然です。ただこの場合には、世間の期待に反して、仁徳朝の堀江もまた実現しなかったことになります。

 それでは、これまで仁徳の堀江として伝承された大川は、どうやってできたのか。これが問題ですが、仁徳天皇が掘ったと考えてよいと思います。仁徳天皇もまた、二ヶ所で川を掘った可能性があるでしょう。

 大和川の付け替えはその後、江戸時代になって実現しました。河内の農民の中甚兵衛が幕府に働きかけて、もっと南の位置に完成したのです。この時、仁徳朝に生まれた淀川と大和川の分離というアイデアが、ようやく実現しました。それが今の大和川です。

 いま、安威川・淀川・旧河内湖の水・大和川は別々に海に注いでいます。さらに遊水池の建設や、地下に排水トンネルを掘る工事も進んでいます。仁徳朝以来の悲願を達成するための努力が、今も続いています。

 
高津の宮

 大阪をあちこち移動していると、旭区太子橋・西成区太子など、仁徳朝の工事に関係ありそうなところに太子の付く地名が見られます。これは、仁徳朝の工事を指揮した人物が、皇太子(のちの履中天皇)だったことを暗示します。

 日本で太子といえば、普通は聖徳太子をさします。たとえば南河内郡太子町・八尾市太子堂・大東市太子田などの地名は、聖徳太子に由来します。しかし大阪では時として、太子が仁徳天皇の皇太子をさすのではないでしょうか。

 このことを裏付けるかのように、仁徳天皇と履中天皇を一緒に祭った神社があります。中央区高津
(こうづ)1丁目の高津(こうづ)神社です。この神社の祭神は次の通りです。

 左座……仲哀天皇・応神天皇・神功皇后
 本座……仁徳天皇
 右座……葦姫皇后・履中天皇

 これによれば、仁徳天皇と一緒に八幡神も祭られていて、蒲生の八幡宮とのつながりが想像されます。しかもこの神社は流離の神社だといいます。どこから移ってきたのか大変気になります。

 豊臣秀吉が大阪城を築城した年に、今の社地に鎮座したといい、当時は比売古曽
(ひめこそ)の社の境内だったといいます。しかし今では、2キロほど東の東成区東小橋3丁目に比売許曽神社があります。比売許曽神社が遠慮して、東に移ったのでしょうか。

 高津神社から700メートルほど東に、東高津神社があります。この神社はもと400メートルほど南にあったといわれ、もとの社地は、仁徳天皇の高津
(たかつ)の宮の跡という説があります。ただしここから北の上町台地には高津宮の候補地が点在し、今のところ定説はないようです。

 高津の宮は堀江の南にあったと考えられますから、四天王寺の南の阿倍野区に作られた可能性もあります。阿倍野元町の阿部王子神社が候補です。社伝によると、この神社は仁徳天皇の創建だといいます。ただし本当に都だったかどうかは、まだわかりません。

 『日本書紀』によれば、仁徳天皇の87年のあとには、履中天皇の6年と反正天皇の5年が続きました。その反正天皇の事跡として、次のような短い記事だけが書かれています。これは仁徳朝の善政を暗示する後日談と見られます。

   是の時に当たりて、風雨時に順(したが)ひて、五穀(いつのたなつもの)成熟(みの)れり。人民富み饒(にぎは)ひ、天下太平なり。

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