「讃仏乗」について


 数年前、私が本部の講習会に参加し、休憩時間、夜晃記念室に行って展示コーナーの棚に積み重ねてあった先生の講義ノートを手にとって見ていたとき、その中から小さな黒い表紙のノートが出てきた。内表紙には「讃佛乗 夜晃」と筆書きされていて、中にはたくさんの短歌がペンや筆や鉛筆で書かれていた。その時、ふと、以前、佐藤虎男先生が『光明』誌に「夜晃先生の短歌を集めています」と書かれていたのを思いだした。その頃私は新選集の編集の為、夜晃全集全体に目を通していたので、その中をていねいに捜せば、短歌のいくつかはあるいは見つけることができるかもしれないと思いながら、怠惰に流れ、そのままにしていた。その忸怩たる思いがあったので、このノートを見たとき、先生がごらんになったらたいそう喜ばれるだろうと思い、コピーを作成し、その時本部に来ておられた東京支部のお同朋の方に先生に届けていただくようお願いした。
 私には、また、そこに書かれてある歌を『光明』誌に少しづつ発表していただけたら、お同朋がよろこばれるだろう、というぐらいの思いもあった。ところが、先生はご高齢で目が不自由な中で、そのノートの内容をたいへん精密に解読し、活字にしてくださった。そこには私がざっと目を通しただけでは読み取ることができなかった夜晃先生の尊いお念仏の世界がひろがっていた。

 
ノートの最初の頁に書かれた歌の横に「昭和甲《きのえ》申《さる》」と記されているので、書きはじめられたのは昭和十九年の夏であろう。敗戦の一年前である。最後の歌は四十二ページ目に記され、後は白紙で八十頁ぐらいが残されている。最後にこのノートを記されたのが何時ごろか正確にはわからないが、昭和二十四年に亡くなられるまで断続的に書きつづけておられたと思われる。

 この『讃仏乗』のノートの内容は大きく三つに分かれている。

一、
「終戦前後の激動の世相のただ中で書かれた歌」 百十二首

  戦前の歌には戦争が大きな影を落としている。

  徒《いたづら》に何か惜しまんこの命今日も決死の若人送る

  聖戦は勝つと思へど大御心拝しまつれば涙流るも

 それに対し、戦後の歌は解放された安らかさに満ちている。

  
世をあげてほろびの風に狂ふともわがゆく道は一すじの道

  僧院の奥こまごまと茶事はてて生くる日の幸念仏にこぼるる

二、「良寛の歌」十六首

 四頁にわたり、鉛筆で良寛禅師の歌をそのまま書き写しておられる。筆勢から見て一気に書かれたと思われる。良寛禅師の歌集を読まれて心に響いた歌を書き抜かれたのだろうか。とすれば、これらの歌は先生のお心そのものを表現したものなのだろう。いわゆる「仏々相念」の世界である。

 おろかなる身こそなかなかうれしけれみだのちかひにあふとおもへば

 草の庵にねてもさめても申すこと南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

三、「いろは歌」三十首

 「いろは」の四十七文字を頭文字として歌を作っておられる。書き始められたのはノートの場所から見て、昭和二十二年後半か二十三年ごろであろう。しかし、未完でおわっている。『讃仏乗』という内表紙に書かれた題名はおそらく直接にはこの内容に由るのであろう。親鸞聖人が晩年、和讃を作って文字も読めない人々にお念仏の世界を届けようとされたように、夜晃先生もお亡くなりになるまでお念仏を伝えんとの強い思いをもたれていたことが伝わってくる労作である。もし完成していたならば、私たちは、いろは歌をおもうにつけ、本願の世界、先生のお心を憶念することができたであろうに。

 「つ」 つくることなきみ光の中に育てられ念仏申す身のゆたらけき

 「み」 念仏ひとつ遠つ仏祖ゆうけつぎて道一すじに生きんとぞおもふ

 これらの歌が作られた時期は戦時下、政府によって『光明』誌の発行が停止させられていた時期(昭和十五~二十二年)と重なっている。二十四才で光明団を創られてから、呼吸をするように、毎月『光明』誌に思いを綴って同朋に届けられていた先生にとって、発行の停止は自分の手足をもがれるようなつらいことであったろうと思う。私は先生の生涯について調べる中、円熟期である四十代の後半から五十代の初めにかけての文章が存在しないことを常々残念に思っていた。しかし、この『讃仏乗』の歌によって、その時期の先生のお心の一端に触れることができ、大変うれしく思ったことである。

 なお
『住岡夜晃先生短歌集成』は佐藤先生が書かれ『光明』誌に発表されたものを再録した。

 佐藤虎男先生はお若い頃、昭和二十三年、本部で住岡夜晃先生にお出遇いになり、その謦咳に接せられた。この『讃仏乗』は佐藤先生が夜晃先生にお出会いになられたちょうどその頃に作られたもののようである。先生は卒業後、広島で高校の国語の教師をされた後、大学に移られ、長く教鞭をとられた。この度の出版は先生のお力がなければとても実現できなかったことである。『讃仏乗』を頂く最適の人を得て、『讃仏乗』が世に出ることになったことを、夜晃先生もお浄土でたいへんお喜びになっておられることであろう。

 令和三年八月三十一日

寺岡一途