平安・鎌倉時代      トップ

 仁杉氏の祖となった仁杉幸通は工藤氏の一族、伊東氏の出である。 工藤氏については藤原南家為憲流として史料も多いが、その系図はそれぞれ少しづつ異なり、どれが正しいかわからない。

藤原氏から工藤氏へ
 平安の中期、藤原南家武智麻呂から数えて九代目為憲(平将門の追討に功のあった常陸介藤原惟幾の子、藤原鎌足から11代目)は、仁寿8年(852)木工介(助)を任じられ、「木工の藤原氏」という意味で「工藤氏」を称した。
 同じようないわれの藤原家の姓は多い。例えば兵藤氏、権藤氏、佐藤(左衛門佐の佐)氏などである。
 地方の役人として赴任し、その国名の一字をつけた加賀の加藤氏、尾張の尾藤氏、遠江の遠藤氏、近江の近藤氏、武蔵の武藤氏、伊勢の伊藤氏なども藤原何家の出である。

 木工助(介)は木工寮の次官。 木工寮(もくのりょう)は和名でコダクミノツカサ(古多久美乃豆加佐)と呼ばれた造営・材木の採集・神社用具の製作・職工の支配などを担当する部門。
 宮内省に属し律令時代は二条の南、神泉苑の東にあったという。

 長官は木工頭(ムクノカミ)で定員は一人。相当官位は従五位上。 次官の木工助も定員一人で相当官位は正六位下。

 為憲の孫、工藤維景が伊豆の押領使になって下向、その後、駿河守として伊豆国狩野に住し、狩野氏の祖となった。
 その子維職は伊豆国田方郡伊東に居を構え、伊東氏を名乗り、その一族が、伊豆半島一帯を中心に土着して武士化していった。

 藤原氏から工藤氏
藤原鎌足ー不比等ー武智麻呂ー乙麿ー是公ー雄友ー弟河ー高扶ー清河ー維織
                                         ー為憲(木工介・工藤氏の祖)

工藤氏から各地の豪族へ
 一族は平安末期から鎌倉時代にかけて、伊東を本拠とする伊東氏、河津を本拠とする河津氏、宇佐美を本拠とする宇佐美氏など、それぞれ本拠の地名を通称とする支族が分かれて行き、源平の戦いの時期には平家側と源氏側に分かれてお互いに争った。
 下は良く知られる工藤氏の系図である。 後に多くの系統にわかれ、各地に展開して行くが、このうち祐親ー祐清の系統が後の仁杉家につながる伊東氏の家系となる。
 その他の工藤氏、伊東氏の家系と区別するため、伊東市史などでは祐清流伊東氏と呼んでいる。
 

祐清流伊東氏の傍流のひとつが後の仁杉家となる。

 頼朝が鎌倉幕府を開いてからも本家相続、領地争いなど、伊豆を舞台に骨肉相食む争いをして来た。 頼朝の時代に起きた有名な曽我兄弟のあだ討ち事件は、この相続争いのひとつのエピソードであり、主役の曽我兄弟は河津を本拠としていた河津三郎の遺児、敵役の工藤祐経は伊豆に下向した維職の曾孫にあたり伊東氏の当主であったが、頼朝の命令により、この当時は工藤家の本流として、工藤氏を称していた。
 
工藤祐経は建久4年(1193)、曽我兄弟に討たれたが、その一家は伊東氏に戻り、子孫が各地に広がって脈々とその血を現代につないでいる。

 遠く奥州安積の地に移り今の郡山の基になる集落を開いた伊東祐長は祐経の次男である。
祐長は将軍藤原頼嗣から恩賞として奥州安積郡四五ケ村を与えられ、安積氏を称した。以後連綿と続いて、永亨11年、祐時にいたって伊達持宗に服属した。
 現在も青森県には工藤姓が非常に多い。青森市・弘前市・五所川原市をはじめ、津軽の市町村では最多姓となっているところが多く、県全体でも圧倒的な最多姓である。  

 津軽の工藤氏は、建武元年(1334)工藤貞行が大光寺合戦で南朝方に属して活躍し、山辺郡二想志郷青森県黒石市)を与えられた一族の末裔と考えられる。

 工藤姓は岩手県にも多い。厨川工藤氏は工藤景光の子行光が祖。行光は平泉の討伐に功を挙げて岩手郡の地頭となった。一族は糠部郡各地に広がった。南北朝時代に南部氏に討たれて没落した。
 陸奥北部の工藤氏はこの一族か。南北朝時代には一族が分裂して争い、三戸工藤氏と八戸工藤氏が残った

 静岡、愛知に多い久野氏は工藤祐経の孫・伊東祐光の後裔であり、駿河久能を領したので久能、後に久野氏と称した。
 また、祐継系の伊東氏が、祐時のとき、日向国の地頭職を与えられ、その子祐朝・祐光らが日向に土着し、日向伊東氏の祖となった。
 日向伊東氏は日南地方の豪族となり、江戸時代は飫肥藩主として幕末まで続いた。
                       
 日向伊東氏 参照

伊豆の伊東氏

伊豆の伊東氏

 こうして工藤氏の末裔がそれぞれ領地、居住地を名乗る支族に分かれて行く中で仁杉家系譜によれば、祐隆(始め祐継または祐次)は狩野四郎大夫を名乗り、従五位下、伊豆国の狩野、久須美、河津の三庄を領した。
 はじめ、狩野庄に住んだが、後に久須美庄の伊東邑に住んだとある。
 後に出家したのか久須美入道という記述がある。

 
祐隆には祐家のほかに、光家、茂光、祐継(次)、祐親の四人の男子があり、祐家が伊東太郎大夫を名乗って家督を継いだが、相続する子がないうちに死んだため、祐親が相続した。
 
 祐親は保元平治の乱で源義朝に従い、軍功があったが、その後平氏方についた。
 
 祐親には三人の娘がおり、一人は三浦半島の雄・三浦義澄に嫁ぎ、二人目は工藤祐経の妻となり、後に土肥野太郎に再嫁している。
 もうひとりの娘(この娘の名を八重姫と伝える書が多い。)は若い頃の頼朝の想い人となり、一児を設けているが、祐親は後難を恐れてこの子を殺してしまった。 
 またその娘は他に嫁がせた。「本朝」の伊東家譜では山木判官に嫁いだとなっている。 山木判官は頼朝が伊豆に流された頃、目代(現地に赴任しない国司の代わりに任命された監視役)を勤めていた。

 
 頼朝の石橋山に旗上げした時に祐親は平氏方につき、さらに治承4年(1180)の頼朝再起の時には平氏の海上作戦に参加したが、伊豆鯉名浦で頼朝家来の大野藤内遠景に捕らえられた。 長女の婿・三浦義澄の仲介により詫びをいれたが許されず、壽永元年(1182)娘婿の宿所で自害、伊東郷の岡にある東林寺に葬られた。祐親のエピソード参照
 
 祐親の子祐泰は河津三郎を名乗った。あの曽我兄弟の父である。 祐泰は同族の工藤祐経により殺され、遺児二人も仇討ちの後に花と散ったのでこの系統は絶えてしまった。
    祐親のエピソード曽我物語参照 
 
 祐泰の弟祐清始め叔父の狩野介茂光に預けられていた。寿永元年父祐親の死後、伊東九郎を名乗り家督を継いだ。
 祐清は父祐親が頼朝を滅ぼそうと計画していることを密かに頼朝に告げ、頼朝は難を逃れることが出来た。 このため、頼朝は祐清を恩人として御家人に取り立てようとしたが、父が敵とした頼朝に仕えるのを潔しとせず、固辞して京に上って平惟盛に仕えた。 そして翌年の北陸道に於ける木曾義仲との戦いに出陣し敗戦、加賀国篠原で自害した。
 仁杉家蔵の古文書に平重衛、惟盛が祐清にあてた書状の写が残っている。(東大史料編纂所)
 この書状では伊藤(東)九郎となっている。
 

 祐清には祐信、祐光の子があった。
 祐信の子孫は下記のように続き、中には伊豆守、越後守などの官職についている。仁杉圓一郎氏はこの系統の後裔が仁杉家につながるとしている。

 しかし、諸氏本系帳、本朝武家諸姓分脉系圖ともに祐光の系統が後の仁杉家につながるとしている。
 
ただ、この祐信の系統の系図が「諸氏」「本朝」の仁杉家家系図に付記されていることから、何らかの関係があるのかも知れない。

 
祐隆 始家継 狩野四郎大夫 久須美入道 従五位下 領豆州狩野久須美河津三庄
号東光院寂連 始居狩野庄後従久須美庄伊東邑
祐親 伊東久次郎 寂心入道
保元平治乱属源義朝尽軍功
治承四年(1180)庚子十月十九日於豆州鯉名泊為■於大野藤内遠景涼■有下知預祐親婿三浦介義澄
寿永元年(1182)壬寅二十四頼朝以看祐親之罪科■然寂心耻前非於三浦之宿所而令自害葬伊豆久須美庄伊東郷岡山号東林寺寂心伊東久次郎 寂心入道
 伊東祐親木像
     東林寺蔵

東林寺は祐親が創建した寺で伊東氏の菩提寺

  (伊東市史より)
祐清 伊東九郎
始預千狩野介
寿永元年(1182)壬寅二十五召祐清於当中父入道雖過重右■免之処自害了汝可宛行封邑尤可忠勤之肯也祐清拝謝之曰父業也以死報平氏吾亦欲嗣父之志速可賜死云々頼朝以深感義心
同二年(1183)■卯平惟盛於北国伐木曾義仲無利軍敗祐清属惟盛於加州篠原奮戦竟自害
祐信の系統

祐信(伊東次郎三郎)⇒祐種(伊東三郎)
⇒祐光(伊東三郎 掃部助)
⇒祐家(伊東三郎)
⇒種家(伊東掃部助 筑前で戦死)
⇒曾阿(高僧時宗坊)⇒某(伊東又次郎)
⇒某(伊東勘解由)
⇒光種(伊東次郎三郎掃部助伊豆守、室津で戦死)
⇒弘業(伊東次郎三郎 伊豆守)大内左京大夫義奥に仕える。永正8年8月24日京郊外船岡山の戦で功あり、西郷三百町を賜る。
⇒興光(伊東次郎三郎)
⇒隆業(伊東新四郎 掃部介 越後守)
⇒隆載(河津三郎)⇒氏澄(河津三郎利丞)

 この祐信の家系について伊東市史は次のように述べている。

諸国の伊東氏
 祐親の死後、祐清の子祐信は河津次郎三郎を称した。父が北国で討ち死にしてからどのような行動をとったか明らかでない。
 「河津系図」によれば五代目に曾阿という時宗の四条道場(京都金蓮寺)の僧が出ており、室町時代の末には光種、弘宗が足利氏に仕えているところからみると、2、3代ほどは勢力が衰えたのち、南北朝のころには河津姓を唱えて足利氏に属し、京都に住んだのであろう。

  ここでは祐光の系統(祐清流伊東氏)について仁杉氏に至る過程を見て行く事とする。 

祐光 伊東四郎■狩野  伊東左衛門佐
母狩野介宗茂女
父祐清戦死後得外祖狩野介宗茂之養育十七歳時建久五年(1194)甲寅二月徴出鎌倉以旧家賜伊豆国河津庄
叙従五位下
  祐清が北陸で戦死したとき、祐光はわずか3歳だった。
 母(狩野介宗茂の娘)は祐清戦死後、武蔵守平賀義信に再嫁したが、祐光は母方祖父宗茂(宗光とする書もある)養育を受け成人した。
 建久5年(1194)2月、17歳のとき、頼朝によって鎌倉に召し出され旧家を再興、伊豆国河津庄を賜り、伊東左衛門佐を名乗った。 従五位下。

 
古代以来13世紀の末、あるいは14世紀の中ごろまでの公家や諸家の系図を集めた「尊卑文脉」にも 
祐親の子四郎左衛門祐光は外祖父の狩野介に養われたが、建久7年(1196)源頼朝に召しだされ河津庄を安堵された
とある。

祐光が建立したとされる寺
 横浜市栄区に伊東祐光が建立したと伝えられる寺がある。 栄区小菅ヶ谷町1334番地にある長光寺(写真右下)である。   この寺の門前にある案内板に次のように寺の由来が書かれている。

    長光寺    浄土真宗本願寺派   

 菅谷山医王院と号し、伊豆の豪族伊東祐親の孫祐光が鎌倉時代に創建したと伝えられている。

 祐親は伊豆に流された文覚上人を寄寓させ、上人自体の薬師如来像を贈られた。この像は祐親から子の祐清に渡ったが、頼朝の挙兵による砥並山の合戦で祐清が戦死すると、その子祐光はこの像を持って母と妻とともに鎌倉に来て、父の菩提をとむらうために入道して道念と名乗り、小菅ヶ谷に一字を開き、東照山医王院と号したという。

 医王とは薬師如来の別名であるから、本尊はその薬師如来であったと思われる。その後、親鸞聖人に帰依し、天台宗から浄土真宗に改宗し、名も浄心房了源と改めた。 また、了源の孫了諦のとき、本願寺三世覚如上人より「長光寺」の寺号を授けられたと伝えられている。

 戦国時代、小田原北条氏によって真宗寺院が弾圧された時、武州稲毛加瀬村に避難したとも言われ、文禄元年(1592年)に僧善立が、門徒一同と協力して寺を再建し、山号を小菅ヶ谷の地名によって「菅谷山」としたと伝えられる。

文覚上人作の薬師如来像は通称「花立薬師」といわれ、駒20cmの木彫座像で、駒6cmの金銅製の胎内仏を持っている。 慶長の頃、徳川家康がこの辺りで鷹狩りをした時、鷹が大松のこずえに止まって降りてこなくなり、困った家康が付近の小堂で休息し、中に安置されている薬師如来を礼拝すると、不思議なことに、鷹は家康の手に戻ったという。 
 そこで家康は野辺の花を摘んで、薬師如来に手向け、後に三つ葉葵の徳川の紋を下附したと伝え、これ以後この薬師は「花立薬師」と呼ばれている。 この薬師如来像は現在も長光寺に現存している。

また鎌倉時代に親鸞聖人は七体の太子像を刻んだと伝えられるが、ここにそのうちの一体がある。

この寺には江戸までの近世古文書が数多く所蔵され、江戸時代の浄土真宗、とくに当時の寺と民家との関係を知るために貴重な資料が多く、それらは横浜市文化財調査会から「長光寺文書」として刊行され、「古文書の寺」として有名である。           平成2年3月

横浜市栄区小菅ヶ谷町の長光寺

家長 伊東小太郎 左衛門尉
建暦三年(1213)五月和田合戦尽軍功
建保六年(1218)六廿七實朝■大将拝賀鶴岡参詣従行
承元年(1219)七十九右府藤原道家公■■■御前鎌倉下向時為御迎上京
祐兼 伊東八郎左衛門
延應元年三四州三馬也
寛元四年(1243)八月頼嗣江八幡宮参詣従行 
建長四年(1252)四月宗尊親王鎌倉下向仕宗尊■■
盛安 伊東駿河禅司
文永二年(1265)正十一弓始一番也
同七四越後入道勝円之佐介導御従行
安国 伊東常陸前司
徳治二年(1307)守邦親王於八幡宮馬場小笠賭三番射手也
延慶二年(1309)守邦親王任将軍鶴岡八幡拝賀従行
元弘二年(1332)九月鎌倉勢上洛時加員人数
建武元年(1334)八二死
  祐光の嗣子家長は伊東小太郎左衛門尉を名乗った。
 建暦3年(1213)5月、和田の合戦で軍功を挙げた。
 建保6年(1218)実朝に拝賀、鶴岡八幡宮参詣に随行、承久元年(1219)右大臣藤原道家が鎌
倉に下向する時、出迎えに京まで出向いたとある。
 家長は嗣子がなかったため弟の祐兼が養子となって家督を相続したようである。
 祐兼はは伊東八郎左衛門。 延應元年(1239)三の馬、寛元4年(1246)頼嗣八幡宮参詣に従行、建長4年(1252)宗尊親王が鎌倉下向時に宗尊親王に仕えたとある。.
 
 
盛安(伊東駿河禅司)は文永2年(1265)正月(弓矢の競技で)一番、安国(伊東常陸前司)は徳治6年、守邦親王の八幡宮馬場で行われた小笠賭三番射手、など武芸の記述が続く。
 盛安は伊東駿河禅司、安国は伊東常陸前(禅か)司と「宗教に関係があるような名」となっているが、この意味はわからない。

 時代は北条執権の力が弱まり、鎌倉時代が終焉をつ
げる頃である。


 
この祐清流伊東氏が傍流がその後、仁杉邑に移り仁杉氏となった。