〈研究ノート〉
三浦半島の「伊東祐親」伝承 三浦澄子
葉山日影茶屋前の円い小山は旗立山、軍見山などと呼ばれ、三浦一族の鐙摺館物見の場とされている。近年この山の頂上に伊東祐親の供養塚がきずかれた。
葉山町では
「頼朝の宿敵として捕らえられた祐親は、娘箪三浦義澄に預けられ数年を衣笠で過ごしたが、政子の頼家出産を機に助命されることとなった。しかし祐親は、頼朝に対して行った数々の前非を恥じるとして、旗立山から伊豆伊東を望みつつ自害したとされている。葉山の旧家伊東家には祐親を祖とする伝承があるところから、鎮魂のため山頂に石塔を供養した」という。五輸石塔は山頂に埋もれていたものとか。
伊東祐親は曽我兄弟の祖父として知られているが、果雄と称される策謀家でもあった。彼の周到な婚姻による閨閥図は、頼朝をめぐる北条、三浦、伊東三氏のただならぬ関係を秘めている。祐親の娘達の一人は北条時政に嫁し政子と義時を生んでおり、一人は三浦義澄妻、一人三浦澄子は同族工藤祐経の妻となるが夫と父の不和から土肥遠平に再嫁。また頼朝に愛され一子を得たものの、父に引きさかれ江間小四郎に嫁した女子が知られている。
子息等もその出自によって源平それぞれに分かれた。祐親は伊東の家名存続のためにもぬかりない布石を打っているのだ。彼自身は平家に心服していたようで、頼朝の性格とは反りが合わなかったのであろう、恩赦を得ても屈服せず自匁した。
治承四年十月鯉名港から平家方に向かうところを捕らえられた祐親は、三浦義澄に預けられ寿永元年二月白害に至るまでの数年を衣笠で過ごしたとされたが、どのような扱いを受けていたかは定かでない。娘の義澄夫人は敗残の父に対し孝養を尽くしたであろうし、まだ幼い孫義村にも影響を与えたに違いない。義村にこそ祐親の血が濃く受け継がれたように思えてならない。
衣笠幽居中も当然侍妾がはべり、子を儲けたであろうことが想像され、葉山に残る子孫伝承となったと思われる。
伊東家に就いて、元葉山町長田中富氏の著書から要約させて頂く。
「葉山木古庭の伊東孟義氏の家には、文禄3年(1594)の太閤検地以来の古文書数百点が秘蔵されており、伊豆の豪族伊東祐親の後商であると伝えられる家柄。祐親は頼朝に敵対して捕らわれ、女婿の三浦義澄に預けられるが、義澄の助命運動が成功して鎌倉へ出向く途中、鐙摺山頂で自刃した。侍妾の遺児は三浦氏の庇護のもと木古庭に住んで伊東を名乗り今日に及んでいる。天正時代以降は代々、木古庭の名主として明治維新を迎えた。
先々代の伊東春義武は明治初年から大正14年まで56年間、名主−戸長−村長−町長を勤め、葉山町の基礎を築いた人物として名誉町民とされた。
家紋は庵木瓜(いおりもっこう)で、伊東家も同族の工藤祐経も同じ家紋だった。曽我兄弟の仇討では工藤陣屋の目印となっている。五郎十郎兄弟は祐親の長男河津祐泰の子で、伊豆の名族、狩野・伊東・工藤全て同族。仇討の発端は同族間の内紛であった。」
伊東家は祐親の思い通り家名を残し、江戸時代には九州日向で5万3千石。備中岡山で1万3千石の大名になっている。 父に殉じて平家に走り美談と讃えられた次子祐清の子孫が岡山伊東家であるという。後に天正少年使節として海外のローマに名をとどめた伊東マンショもその裔であった。
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