伊東祐親                        玄関へ戻る

仁杉家家譜における祐親の記述

伊東久次郎 寂心入道
保元平治乱属源義朝尽軍功
治承四年(1180)庚子十月十九日於豆州鯉名泊為■於大野藤内遠景涼■有下知預祐親婿三浦介義澄
寿永元年(1182)壬寅二十四頼朝以看祐親之罪科■然寂心耻前非於三浦之宿所而令自害葬伊豆久須美庄伊東郷岡山号東林寺寂心伊東久次郎 寂心入道






      写真右   長い秀尚著 
            「修羅の巨鯨」 伊東祐親






伊東家の菩提寺 東林寺
     東林寺 山門から本堂を望む       東林寺 説明板

 伊東家の系譜に名を残す祐親(すけちか)は頼朝と同時代の人。この祐親には頼朝との関係をふくめて次のようなエピソードが伝わっている。

祐親についてのエピソード(1)八重姫
 伊豆半島東岸に所領を持っていた伊東祐親(すけちか)はちょうど頼朝と同時代の人である。 伊豆の有力豪族であった祐親は北条時政とともに、伊豆蛭ケ小島に流刑となった頼朝の監視人に任命された。
 祐親には三人の娘がおり、一人は三浦半島の雄・三浦義澄に嫁ぎ、二人目は工藤祐経の妻となり、後に土肥野太郎に再嫁している。 もうひとりは八重姫と呼ばれ、若い頃の頼朝の想い人となり一児を設けている。
八重姫供養塔(伊豆の国市韮山町中条)

「本朝通鑑」(江戸幕府が大学頭の林家に命じて編纂させた歴史書)に
 伊東祐親の女(むすめ)に通ず、男を生む、名は千鶴
とある。
 祐親はこの頃、大番役として京に上って留守だった。期間は3年間である。 任を終えて伊豆に戻ると屋敷の花畑に見慣れぬ幼児が乳母とともにいた。 
 乳母に問うと窮して逃げ去った。
 その妻を詰(なじ)る。妻曰く是れ三娘、人に通じて産む所なりと
 更に問い詰めると、相手は頼朝だという。 
 祐親は激怒し、そして平氏に知れればどうなるかを恐れた。
 結局、
 
遂に家僕に命じ千鶴(丸)を捕らえ之を白滝に沈め、而して其女を他人に嫁せり
と、わずか3歳だった千鶴丸を柴漬にして殺害した。泣き叫ぶ千鶴丸に橘の一枝を持たせてなだめたという言い伝えがある。
 さらに頼朝と別れさせた八重姫は他所に嫁がせて事態の収拾を図った。
 再嫁させた先は「本朝」によると平氏の末流で伊豆国目代(もくだい)を勤めていた平兼隆であった。目代は現地に赴任しない国司(貴族)の代わりに任命された監視役である。
 平兼隆は伊豆田方郡山木に住んでいたので山木判官(やまきのほうがん)と呼ばれている。
 ちなみに司馬遼太郎の「街道を行く」によれば、同じく娘(政子)が頼朝と情を通じた事を国元からの手紙で知った北条時政(このとき、大番で京にいた)は、ともに京へ上っていた山木判官に帰路、馬をならべて歩きながら「政子をどうか」と持ちかけたところ前後もなく承知したという。
 
 政子が先だったのか、八重姫が先だったのかわからないが、同じように娘が頼朝と通じてしまった祐親と北条時政の対処の仕方は対照的である。
 祐親は無理やり別れさせ、生まれた子供を抹殺し、後に頼朝に許されず自害したが、時政は娘を頼朝の正夫人とし、それを最大の武器として頼朝の重臣となり、やがて鎌倉幕府そのものを乗っ取って130年間にわたる一族の栄華の礎を築いた。


 (伊東市史では八重姫の再嫁先は江間小四郎としている。江間は後に源氏の御家人になっている。)

祐親についてのエピソード(2)祐親と頼朝
 頼朝がまだ静かに蛭ケ小島で流人として念仏三昧の頃、祐親は時の権力者である平家の傘下にあった。 長女を嫁がせた三浦氏も坂東平氏の一族である。
 娘が頼朝と通じてしまったという事態は、平氏のおもわくを恐れる祐親に孫の殺害という残酷な処置をさせたが、さらに祐親はこの噂が広まることを恐れ、ついには頼朝をも殺して禍の根を絶とうと計画した。安元元年(1175)9月のことである。
 しかし祐親の子祐清(すけきよ)がこれを察知し、密かに頼朝にこれを通報した。 
 頼朝はあやうく走湯山に難をまぬかれた。 祐清の妻は頼朝の幼少時の乳母(比企の禅尼)の三女であり、禅尼から頼朝を庇護するよう頼まれていたのである。
  
 祐親の墓所 (伊東市)

 治承4年、頼朝が石橋山で挙兵した。祐親は石垣山の後山に陣を占め、300余騎をひきいて頼朝をうかがっている。
 この戦いに敗れた頼朝は海路房総半島に逃れ、ほどなくして再起した。世の風向きが変わり関東の有力豪族がこぞって頼朝になびいたのだ。
 祐清も頼朝に従ったが、祐親は平宗盛に従い、親子が源平に別れて戦うことになった。
 祐親は平氏軍に海上から参戦しようとし、伊豆鯉名浦(賀茂郡竹麻村)で船を整えていた。
 この祐親の行動を察知した天野藤内遠景(とうかげ)は祐親を捕らえ、黄瀬川東岸に陣する頼朝の前に引き連れた。
 娘婿・三浦義澄は舅のために助命嘆願した。義澄は頼朝挙兵以来の最大功績者のひとりであった。
 信頼厚い三浦義澄のとりなしではあったが、我が子を殺し、更に自分を襲撃しようとしただけでなく、苦しかった挙兵のころに敵方平氏についた祐親である。頼朝はすぐには許せなかった。
 しかし、以前、子の祐清の通告で頼朝はあやうく命びろいしている。 祐親はようやく一命を助けられ、三浦屋敷に預かりの身となった。
 祐親はこれを恥じ、三浦氏の邸内で自害して果てた。そして伊東郷の岡に自分が創建した
東林寺に葬られた。寿永元年(1182)2月15日のことだった。


祐親についてのエピソード(3)曽我兄弟の仇討ち
 祐親は欲深い人間だったようである。 一族の間で繰り広げられた所領争いは曽我物語として名高い。

 祐親は父が早逝した。 当然遺領は祐親が引き継ぐと思っていたが、一族を束ねていた祖父の家継は庶子の祐継(祐親には叔父にあたる)に相続させ、一族の惣領となった。
 祐親は伊豆河津に所領をもらって分家した。 やがて祐継が病死した。
 祐継は死ぬ前に祐親を枕元に呼び
「祐経(祐継の遺児)のことを頼む」
と懇願した。 盗賊に財産を預けるようなものである。 祐親は日ならずして祐経の所領をすべて奪って一族の長におさまった。
 幼い祐経には遺恨が残った。

 成長した祐経は頼朝の有力な家人となり、伊東氏の本流である工藤氏を名乗っていた。
 祐経は成長してもかって祐親に所領を奪わた事を忘れず、報復に祐親とその子・河津三郎を殺そうと刺客を放った。刺客の矢は河津三郎に命中し彼は落命した。 
 三郎の未亡人は5歳、3歳だったふたりの男子を連れて相模の曽我祐信(すけのぶ)に嫁いだ。 このふたりの子が後の曽我十郎祐成(すけなり)と曽我五郎時致(ときむね)である。
 
 さまざまな苦難を経た末に、兄弟は父の仇祐経を討つ機会に恵まれた。
 建久4(1193)年、源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行った。巻狩りとは勢子が山の上の方から鹿や猪を追い出し下の方で待ちかまえた武士たちが獲物を射る催しで、単なる娯楽ではなく模擬軍事演習を兼ねていた。
 有力な家臣や御家人たちが大勢参加する政治的示威でもあったので祐経もこの巻狩りに参加していた。
 兄弟は祐経の宿所を探りあて警備が手薄な時間を狙っっていた。
 5月28日の夜、兄弟は祐経の宿所に忍び入り祐経を討ち取った。苦節18年目にしての本懐だった。
 
 やがて二人は周囲の武士たちに捕えられた。
 翌日尋問が行われ、頼朝は兄弟を「勇気ある武士の誉れ」として許そうとしたが、祐経の子が強く嘆願し、二人は処刑された。

 これが「曽我物語」、「曽我のあだ討ち」の概要である。
 伊東一族の間で親子2代にわたって繰り広げた骨肉の争いである。
 
仇討を繰返した工藤家の複雑な関係
処刑される曽我兄弟の図
(兄の十郎は祐経討ち取りの直後に周囲の武士に斬られて死んだとも言われる。)

葉山の祐親供養塚

 娘婿の三浦氏の居城で波乱の人生を終えた祐親の墓所は伊東市にあるが、供養塚が葉山にも築かれていることがわかった。

 葉山マリーナの近くに小さな山がある。 旗立山と呼ばれ古くは三浦一族の物見砦(鐙摺砦)があったところである。
 今は海岸との間に道路があるが、往時は海に屹立して物見には最適な山だったろう。
 この頂上広場の北端に小さな石塔の塚があり、近くに説明板がある。

         右)供養塚の位置
           葉山日影茶屋の正面
           小高い山の頂上  





下)供養塚の説明板    右下)供養塚

「三浦一族研究」第7号、三浦澄子氏の研究ノートにこの供養塚について詳しく述べられているので、その一部を紹介する。

〈研究ノート〉

三浦半島の「伊東祐親」伝承    三浦澄子

 葉山日影茶屋前の円い小山は旗立山、軍見山などと呼ばれ、三浦一族の鐙摺館物見の場とされている。近年この山の頂上に伊東祐親の供養塚がきずかれた。
 葉山町では

 「頼朝の宿敵として捕らえられた祐親は、娘箪三浦義澄に預けられ数年を衣笠で過ごしたが、政子の頼家出産を機に助命されることとなった。しかし祐親は、頼朝に対して行った数々の前非を恥じるとして、旗立山から伊豆伊東を望みつつ自害したとされている。葉山の旧家伊東家には祐親を祖とする伝承があるところから、鎮魂のため山頂に石塔を供養した」という。五輸石塔は山頂に埋もれていたものとか。

 伊東祐親は曽我兄弟の祖父として知られているが、果雄と称される策謀家でもあった。彼の周到な婚姻による閨閥図は、頼朝をめぐる北条、三浦、伊東三氏のただならぬ関係を秘めている。祐親の娘達の一人は北条時政に嫁し政子と義時を生んでおり、一人は三浦義澄妻、一人三浦澄子は同族工藤祐経の妻となるが夫と父の不和から土肥遠平に再嫁。また頼朝に愛され一子を得たものの、父に引きさかれ江間小四郎に嫁した女子が知られている。
 子息等もその出自によって源平それぞれに分かれた。祐親は伊東の家名存続のためにもぬかりない布石を打っているのだ。彼自身は平家に心服していたようで、頼朝の性格とは反りが合わなかったのであろう、恩赦を得ても屈服せず自匁した。
 治承四年十月鯉名港から平家方に向かうところを捕らえられた祐親は、三浦義澄に預けられ寿永元年二月白害に至るまでの数年を衣笠で過ごしたとされたが、どのような扱いを受けていたかは定かでない。娘の義澄夫人は敗残の父に対し孝養を尽くしたであろうし、まだ幼い孫義村にも影響を与えたに違いない。義村にこそ祐親の血が濃く受け継がれたように思えてならない。

 衣笠幽居中も当然侍妾がはべり、子を儲けたであろうことが想像され、葉山に残る子孫伝承となったと思われる。
 伊東家に就いて、元葉山町長田中富氏の著書から要約させて頂く。
「葉山木古庭の伊東孟義氏の家には、文禄3年(1594)の太閤検地以来の古文書数百点が秘蔵されており、伊豆の豪族伊東祐親の後商であると伝えられる家柄。祐親は頼朝に敵対して捕らわれ、女婿の三浦義澄に預けられるが、義澄の助命運動が成功して鎌倉へ出向く途中、鐙摺山頂で自刃した。侍妾の遺児は三浦氏の庇護のもと木古庭に住んで伊東を名乗り今日に及んでいる。天正時代以降は代々、木古庭の名主として明治維新を迎えた。

 先々代の伊東春義武は明治初年から大正14年まで56年間、名主戸長−村長−町長を勤め、葉山町の基礎を築いた人物として名誉町民とされた。
 家紋は庵木瓜
(いおりもっこう)で、伊東家も同族の工藤祐経も同じ家紋だった。曽我兄弟の仇討では工藤陣屋の目印となっている。五郎十郎兄弟は祐親の長男河津祐泰の子で、伊豆の名族、狩野・伊東・工藤全て同族。仇討の発端は同族間の内紛であった。」
 
 伊東家は祐親の思い通り家名を残し、江戸時代には九州日向で5万3千石。備中岡山で1万3千石の大名になっている。 父に殉じて平家に走り美談と讃えられた次子祐清の子孫が岡山伊東家であるという。後に天正少年使節として海外のローマに名をとどめた伊東マンショもその裔であった。